箱船航海日誌 2004年02月
日々雑感、出来事などを思いつきに任せて綴っていこう
16年
またやってしまいました。無断休載。「予告なしの変更」はオーディオ機器において常識、毎日更新を標榜しながら「予告なしの休載」はあまり格好の良いものではない。大変失礼いたしました。 さて、僕のオーディオシステム中にあって、未だに中心的存在であるトコロのADプレーヤーである。この機器の構造は極めて単純明快。キャビネットとモーターとアームの3点だけで構成されているわけだ。 キャビネットは自作なので、古くなったりグワイが悪くなったりすれば作り替えれば良い。モーターとアームは既にディスコンになって久しく、代替品はない。モーターはまだ修理が利く(部位によってはアウト)が、アームはダメだ。数年前に一部部品の在庫を問い合わせたら「全くございません。大切にお使いください」とニベもない返事だった。 ついこの間使い始めたばかり、などとはとんでもない話。いつ買ったのかと記録を調べてみたら、'88年1月25日だった。なんということだ。16年以上も経っていたわけである。当時僕は26歳、まともな収入もないクセに、モーターSP-10MkIIIと一緒に買ったのだった。関西圏を中心にチェーン展開する、J新電気の小さな支店で。セットで定価38万円、モノスゴイ高級品を買ってしまったえらいこっちゃ、と思ったのを覚えている。 丹後へ引っ越す以前から使い続けている機器は、今やこの2つだけである。モーターのほうは購入当初から調子が悪い、所謂「ハズレ」だったので、幾度も修理に出した。アームは全くの故障知らず、16年間の酷使に耐えている。尤も、電気製品というよりは機械に近いものだけに、故障すればそれでオシマイ、となることが多いわけだが。 現状不満も不グワイもないので、まだまだ使えるだろう。ゲンミツに言えば、サポート部分は磨耗し感度にも影響が出ているに違いないのだが、幸か不幸か僕の耳ではそこまで分からない。分からなければヨイのである。 あと何年使えるか。2008年1月25日の20周年は堅いだろう。一生モノも冗談ではないのである。 恐るべきハイCP。 |
忘れかけていたCD
金属打楽器がうまく鳴るのが嬉しくて、その手のソフトばかり聴いている。自由空間にピンポイントで定位する打楽器の涼やかな音。快感である。クセになります。 ネコがジャコやカツオブシを嗅ぎ回るようにして打楽器系ソフトを捜すうち、久しぶりに、本当に久しぶりに引っぱり出して聴いたのが上のCDである。まともに聴くのは何年ぶりか。 「とぎれた闇〜吉原すみれオリジナル曲集」(日Chez TACHIBANA YGDS-20)。(P)1986。Chez TACHIBANA(シェ・タチバナ)とは耳慣れないレーベル名だ。それもそのはず、評論家でオーディオマニア、彼の有名な立花隆氏のプライベートレーベルなのである。 1985年12月、立花氏宅のオーディオルームに、こちらも有名なパーカッショニスト吉原すみれ氏を迎えてのホームコンサートを収録したものである。マイクはAKG451aが2本、ソニーPCM-1630(PCMプロセッサー)、同BVU-800DB(放送局用Uマチックデッキ)を使用して録音。まだDATは出ていない当時、最高レベルの機器でのディジタルレコーディングである。写真右、左上にマイクが写っている。2本の間隔はかなり狭い。ワンポイントステレオマイクに近いセッティングのようである。 オーディオルームの正確な広さがよくわからない。ライナーノーツにある手描きの見取り図、ジャケット裏写真などの情報から推測するに、20畳くらいか。広くても箱船(24畳)程度だと思われる。立花氏のオーディオシステム(これがまた大掛かりなマルチチャンネルシステム)の前に楽器をセッティングし、そこへさらに30人の聴衆が入ったと書いてあるから、かなり窮屈だったに違いない。 ミキシングなし、エフェクター一切なしの音は、非常に鮮度が高い。リアルである。但し、ロケーションは上記の如く。満杯に近い聴衆が吸音材になり、音場は極めてデッドである。窮屈な音場をよく再現しているとも言える。演奏者、聴衆の気配、衣擦れなどがありありと再現され、とても生々しい。高品位な生録である。 「インターバル」(16分11秒)、「スキン・スイーパー」(12分08秒)、「とぎれた闇」(12分35秒)の3曲と、曲間、演奏終了後の雑談が3トラック入って合計6トラック。演奏者と聴衆の距離が極めて近いことを意識してか3曲ともpp〜pppの多い、静かで微小音を大切にした演奏である。叩きつけたりぶった切ったり、というような部分はほとんどない。雑談トラックもリアル、これも興味深く聴ける。 ヒジョーに面白いCDだと思う。僕が買った頃は確かレーベル直接購入だったような気がする。今も入手可能かと、調べてみたところがイマイチよく分からない。「シェ・タチバナ」という名前は生きているようでもある。もし、御存知方がいらっしゃれば、是非御教示ください。 '86年には、FMfan誌上で長岡先生と対談した立花氏。この頃が最もオーディオに熱心だったのかもしれない。あの対談の後、即座に導入し巨大マルチシステムの前に置かれたスワンは、今どうなっているのだろう。 忙し過ぎてオーディオどころじゃなくなったかな。 |
時間
先般実験のつもりでトゥイーターの下に敷いてみたSUS板、その後である。やはりこういうものにもエージングが必要。接触面の馴染みグワイが、ものを言うのだろう。 敷いた当初はあまりパッとしない印象が強かった。1ヶ月経った今、それなりのメリットが出始めているようだ。曖昧さと滲みが減り、輪郭が細く鮮明になった。特に金属打楽器の鳴り方はかなり良くなったと思う。定位鮮明、リアルで気持ち良い。 いつも思うことながら、性急に答を出しては、イケナイのである。少しでも見所があると感じた時には、焦らず鷹揚に構えることもまた必要。鷹揚にしていて結局いつまで経ってもダメだった、ちゅうこともままあるわけだが、その時は潔く諦めて元に戻ればヨイのだ。 時間をかけて観察すべきか、或いはさっさと見切りをつけるべきか。この辺りの見極めはなかなかに困難である。瞬断できればオーディオ達人。僕は達人です。と言えれば格好ヨイが、そんなことは絶対にないわけである。できもしない秒速判定を気取りしくじるのはイヤ、だから、時間をかけて観察してみるのである。 時間をかけたところで判定に絶対の自信があるわけじゃなし。ひょっとしてこのSUS板も、明日になったら「ヤッパリ遺憾でした」と言ってヤメているかもしれない。いい加減である。こんな調子では、最高の音なんか死んでも実現できそうにないのである。 だからこそ、楽しきオーディオ哉。 |
華、だそうで
業務多用で更新が追い付きません。今晩は書けると思います。どうか御容赦ください。 人間、忙しいうちが華だそうだから、頑張りましょう。 |
遷り変わるもの
寒いのである。今日(23日)の最高気温は5℃程度。前日比-15℃はカラダに堪える。明朝の予想最低気温は-1℃、日中の予想最高気温11℃。1日の内で気温差12℃。追従性の劣化した僕には些かつらいのである。 こういう気温Dレンジの広さは、大体が3月〜4月に多いわけで、2月こうなるのは異常である、と思う。だが、異常がずーと続けばそれはやがて通常にヘンシンするわけである。非常識なニンゲンが増殖し、常識人が絶滅すれば非常識が常識に変質するのに似ている。だからこれで良いのだろう。良いのかな。 非常識と言えば、近頃気になるのは言葉の誤用である。尤も、僕だって怪しいものだと思う。思うけれど、本来言葉のプロであるはずの、ニュースアナウンサーをしてしばしば酷い誤用が見られるのはなんとしたことか。民放のみならず、某国営放送局アナウンサーでさえ危ないのである。 「〜せざるを得ない」。これ、正しい用法。これを「〜せざるをおえない」と誤用する例が非常に多い。「〜せざるを終えない」のつもりか、あるいは「〜せざるを負えない」のつもりか。「手に負えない」と混同しているフシもある。もういっぺん小学校レベルから勉強し直せと、怒鳴りたくなるのである。 まだある。「○○さんは〜と申されました」。「申す」は「言う」を謙って手前に使う謙譲語である。「〜される」は目上の人に対する尊敬語。謙譲語と尊敬語をゴチャ混ぜにした、完全な誤用である。せめて「言われました」、アンタもプロなら「おっしゃいました」と正しく使えと、TVに向かって毒づくのである。 ついでにもう一発。「爆破された建物からはモクモクとした煙が上がっています」。黙々とした煙? そりゃケムリはモノを言わんがね。それを言うなら「もうもう(濛々)とした(或いは、たる)煙」だろう。これも見事な誤用。どうしても「モクモク」を使いたいのならば、稚拙な表現を覚悟で「煙がモクモクと上がって」と言いなさい。ビミョーに外しているのが却ってやるせなさを誘うのである。 古代日本語では、「顔」を「カフォ」、「菓子」を「クヮシ」、「梅」は「ムメ」と発音していたという。斯様に言葉とは時代とともに遷り変わって行くものである。だが、上に挙げた如くの極めて幼稚な誤用は、そういう変遷とは異質のものであるように思われる。やたら気に障って仕方がない。こーゆーことを言い出すと、それは完璧なオヤジ化だそうだが。 これら誤用も、何の疑念も持たず使われ続けるうち、やがて適用、常用に変わって行くのだろう。その頃にはオイラなんぞとっくに死んじまっているわけだから、何も問題ないと、言ってしまえばそれまでである。されど諦め切れず、今日もTV画面に悪態を吐くのだった。 正しい日本語使えー。 |
恒例春の花
ここ3日間の気温は異常である。21日は特に高く、22℃もあった。いくら春めいたと言ってもまだ2月ですよ、アナタ。ついこの間は氷点下の猛烈な寒さ、今日(22日)だって軽く20℃はあったと思う。気温差20℃以上。暖かいのは大変結構、しかしここまでDレンジが広いと、カラダが追従できなくなるのである。トランジェント悪い。 この後は雨が降る。西からわりあい強力な低気圧が近づいているのである。それが通過すれば、今度は強い冬型気圧配置になることは間違いない。ので、また寒くなるわけだ。緩やかな季節の遷り変わりなんて、今や何処かへ行ってしまった。 この暖かさに引っ張り出されてか、庭のクロッカスが急に咲き出した。2001年は3月4日、2002年3月2日、2003年は2月16日。昨年とほぼ同時期である。毎年恒例になりました。 この花、2月に咲くのが当たり前になったようだ。少雪で地熱の平均温度が高いからだろう。今年は花が随分と小ぶりである。連作で土が痩せたか。いや、マトモに球根の世話もせず、ほったらかしにしている所為だろう。申しわけないのである。 これが埋まって凍りつくような雪、もう降らなければヨイのだが。 |
ヘッドアンプ派
突然ですが、僕はヘッドアンプ派です。 今や絶滅危惧(というより絶滅確定)種になってしまったAD再生ファン。CD登場以前、正にオーディオの中心的存在だった頃は、大きく分けてトランス派とヘッドアンプ派が存在したのである。もちろんこれはMC(ムーヴィング・コイル)カートリッジを使う場合の話である。 MM(ムーヴィング・マグネット)型に比べて出力の低い(1/10〜1/30程度)MCカートリッジは、何らかの方法でゲインを稼がねばならない。後にハイゲイン・イコライザーが主流になったが、AD華やかなりし頃、人気を二分していたのがMC用トランスとMCヘッドアンプだった。 馬鹿な頭で解説を読んでみれば、どちらもそれぞれメリットデメリットがあり一長一短であるらしい。専門的なことが分からない僕にとって、決め手になるのは結局「音」である。 昔々大昔、僕はMCトランスを使ってみたことがあるのだった。マイクロT-1000H(何処かのSF映画ではナイ)というヤツ。当時の定価99,800円。高級品である。これを、ワケもわからずMC-L1000に組み合わせて使ったのである。 相性だけで語れるほどオーディオは単純ではない。けれどやはりマッチングっちゅうもんはあるわけで。MC-L1000にトランスの組み合わせは、はっきり言ってミスマッチングである。美味しいところが全部殺がれたような音になってしまった。試しに他のMCカートリッジ(当時、AT-33ML、DL-304ナド)にも合わせてみたが、やはり僕の好みとは違っていたのだった。独特の甘さが気になって仕方なく、置き方によってひどくハムを引くのにも困った。 どうやら僕はトランス派にはなれないらしいと、中古でデンオンPRA-2000ZRを入手、しばらくは内蔵ヘッドアンプ(MC2入力)で聴いていた。トランスにはない抜けと切れの良さに大満足。その後、プリをC-280Vに換えてからも、何処かでヘッドアンプの音を望んでいるようなところがあった。280Vはハイゲイン・イコライザーなのである。 ある日、友達の一人から「パイオニアのH-Z1を入手した」と知らせがあった。知る人ぞ知る、MCヘッドアンプの名機である。無理を言ってそれを借用、一聴してガクゼンとする。なんちゅうエエ音や。晴れ渡って澄み切った青空のような抜けの良さ、粒子の細かさ、圧倒的な切れの良さ。全ての点で最高である。ADファンたるもの、これを聴かずして何を聴く。 というわけで、以来僕はヘッドアンプ派である。友達に倣って入手したH-Z1は現在リタイヤし、現状はアキュフェーズC-17になっている。これも一時非常な入手難で、MJ誌交換欄に出ていたものを電報打って(まだEメールなんかありませんでした)までして買ったものである。音はヒジョーに良い。 トランスとヘッドアンプ、単純に優劣はつけられない。システムとのマッチング、音の好みで評価はそれぞれだろう。昨今、こういう選択の自由が少なくなり、オーディオの趣味性が失われて行くのはいささか寂しいのである。 近い将来、オーディオそのものが絶滅するのだろうなあ。 |
サブウーファー
これまでにトゥイーター関連の話題は多く書いてきた。DHKや設置方法、コンデンサーの種類など、比較的容易に触れる部分が多いからである。スピーカー本体を動かすのは大儀だが、トゥイーターだけなら楽であることも理由の一つ。要するに、楽してネタを取ろうという、ヒジョーに不精な話なワケだ。 その反面、サブウーファーについてはほとんど話題に具したことがない。理由は単純明快。JBL/E-145を片ch2発、外形寸法1200×900×492mm、実効内容積370リットル、重石の御影石を含む重量約300kgの大袈裟なサブウーファー、簡単には動かせないからである。調整しようにも一人では何もできない。いや、やってできないこともない(最初の設置は一人でやったンだから)けれど、今やったらイノチに関わりそうでイヤダ。 と言っていたのでは一生サブウーファーネタが書けなくなる。それも惜しいので、今日は無理矢理ネタにするのである。 「スピーカー達」のページには、何故にE-145を選択したかが書かれていない。意識的ではなく、単純にそこまで気が廻らなかっただけである。 口径は38p、と決めた後にも選択肢は色々あった。予算に制限を設けなければモデル数は10や20ではきかないほどあったと思う。そうも行かないので、上限1本5万円、メーカーはJBL、と、先ずそれだけを決めてしまった。 当時(7年前)は今よりも38pのラインアップが多かった。2235、2226、E-140、E-145など。2235は大型モニター4343、4344に使われている。コーンがやや重くサスペンション柔らかめ、F0低めのユニットである。2226は2235より高能率、ややオーバーダンピングタイプである。E-140はメタルセンターキャップ付き、38pフルレンジといった感じ。この3モデルに突出して重く頑丈でサスペンションカチコチ、オーバーダンピング高能率ユニットが、E-145だったのである。 元々はPA用途、ベースアンプ用途である。軽くて丈夫なコーンに巨大な磁気回路、ストロークの取れないフィクスド・エッジ、能率100dB/Wm以上、というヒジョーに使いにくそうなユニットだ。2235のような深々と沈み込む低音、超低域再生は不得手だろうけれど、反面軽くて速い低音は得意なはずと読んでこれを選んだ。上記4モデルの中では特に重い(13.7kg)のも気に入った理由である。 使ってみれば確かに鈍重な音ではない。速いといえば確かに速い、けれど、クオリティという点ではどーだか分からない。コイル1個でハイを切っていた時は、中域のうるささに参った。能率とは主に中域で測定するわけだから、考えてみれば当たり前である。オマケに高域へ向かってのインピーダンス上昇があり、コイルの効きが悪い。パコパコした中域が盛大に漏れ出てくるのである。LCで-12dB/octのパッシブ・ネットワークを組んでみたこともあるが、これは音が鈍ってしまってダメだった。 現状C-AX10のディジタル・ネットワークで中高域を急峻(-24dB/oct)に切り捨て、パコパコ感はなくなった。7年間使い続けてそれなりにエージングが進み、ようやくにしてメリットがデメリットを上回ってきた感じである。超低域は相変わらず出にくい。ここは208ESになってからのSネッシーに任せてある。これまで何度もユニット交換を考えたが、結果的にはこれで良かったと思っている。問題は、E-145が既に廃番製造中止であること。壊れたら次は何にしようかしらん。 共鳴管にしてもBHにしても、サブウーファーの選択は非常に困難である。何でもいいから低音さえ出ればよい、というものでもあるまいし。されど逡巡しているだけでは先に進めない。時には良い加減のところで思い切るのもまた必要である。 深々として速くて軽い低音。ムツカシイのである。 |
正直者で親分肌 II
血相を変えて家捜しするI少年であった。なんとか小銭小遣いを掻き集め、拾った500円を穴埋めしよう。村の駐在さんへ拾得物として届け出るために。 自分の小遣いだけでは足りないと見た彼は、妹の引出しまでひっくり返すのだった。もうヒッシである。そうして集めた金額は。475円であった。あと25円がどーしても足りない。こうなっては仕方ない。小銭ばかりジャラジャラと475円をポケットに突っ込み、駐在さんへ届けに行くのである。 「コレ、拾いました」と両手一杯の小銭を見せた。ちょっと驚いたような顔をした駐在さんだったが、すぐに事情を飲み込んで彼は言う。 「こんな小銭ばっかり、何処でどうやって拾ったんや?」 「落とした人のポケットに穴が開いとったんか知らんけど、道にずーっと並んで落ちとった」 駐在さん、ニヤリと笑う。 「ウソ言わんとホンマの事、ゆーてみ?」 事ここに及んではもう観念するしかないのである。大将ついにハクジョーする。500円札拾って、パン買ってみんなで喰っちゃいました、と。 「そーかそーか、パンはうまかったか? それでもな、ほんまはそんなことしたらアカンぞ。今日はおまえの潔さと正直に免じて許したる。次からはちゃんと届けいよ」 僕はこの話に三つの魅力を感じる。一つには、500円拾った大将がそれを私せず、みんなにパンを喰わせて分かち合ったこと。二つには、子分から行為の反社会性を指摘されながら、責任を他に転嫁せず自分一人で引き受けたこと。三つには、その子供の気持ちを受け止める洒脱な駐在さんの存在。 親分肌とは持って生まれるものであるらしい。I氏は、今も変わらず正直者で親分肌である。だからこそ人望が厚いとも言えるわけだ。 今の世の中、どうも「正直者が馬鹿を見る」のが罷り通っているような気がするのは、僕だけだろうか。「人を殺したってオレら罪にはなんねーんだよ」と開き直ってみせる馬鹿なガキが増えたのも、正直さをきちんと受け止められる真実のオトナが減った所為ではないのか。 馬鹿が増えたのが先か、狭器なオトナが増えたのが先か、僕には分からない。いずれにしても、世の中に正直な子供と大らかなオトナが多かった時代の話である。古き良き時代と、懐かしむのみに終わっては遺憾ような気がする。 ウチの愚息は正直だ、僕は大らかだと、自信を持って言えるかどうか。 |
正直者で親分肌
公私共にひとかたならぬお世話になっているI氏、ここのところ毎日のようにお宅へお邪魔し、いろいろと相談に乗ってもらっている。バランス感覚に優れたこの方、いつもありがたいアドヴァイス、時には手厳しい諫言もあったりして、僕にとっては極めて大切な人物である。 殊、人間関係についての話は大変勉強になる。僕のような仕事に就くと、ややもすると浮き世離れして世事に疎くなり、思慮不足のとんでもないしくじりをやったりする。そういう時、僕はこの方に助けを求めるのである。 先日も、ちょっとした相談事があって話をした。その時に、如何にもこの方らしいエピソードを聞いた。もう、40年以上も前の話だが、これがなかなか示唆に富んでいて面白いのである。 時は昭和34年ごろ。I氏は小学5年生くらい。当時近辺のガキ大将(今や死語か)だったI少年、ある日家の近くでお金を拾う。その額500円。当時硬貨は未だ出ていない。お札である。今500円と言ったって幼稚園児も驚かないが、当時の小学生にはかなりの大金である。現在の価値で言えば1万円にも匹敵するほどの額と言ってもよい。 さて、滅多なことでは手にできない500円札を拾ったこの大将。近所の子分を束ねる親分としては、ただ私腹を肥やしたのでは面白くない。なかなか立派なのである。行きつけの駄菓子屋へ飛び込み蒸しパンを買うのだった。1個5円のパンを500円分。要するに、100個(!)である。「こんなようけい(沢山)買うて、どーするん?」と訝るおばちゃんを尻目に、両手に山とパンを抱え子分共へ集合をかける親分なのであった。 甘いものに飢えていた当時の子供たち、太っ腹大将のオゴリを車座になり、貪るようにワシワシワシと喰ってしまうわけである。頭の何処かに「これは反社会的行為デアル」という思いが浮んだがそれも禁断の味、甘いパンをさらに美味しくしているような気がする。 はぅー、と腹一杯になれば状況が見えてくる、のが子供である(オトナもか)。冷めた頭でもう一度良く良く考えてみれば。 ヤッパリこれはマズい。パンはウマかったがヒジョーにマズい。ネコババである。ヌスビトである。犯罪である。不吉な思いが脳裏をよぎり、背中に冷たいモノが走りかけたその時。子分の一人がポツリと言った。 「これ、ケーサツに捕まるで」 すぅっと血の気が引くI少年。言われてみればその通り。ネコババ窃盗なら立派な犯罪である。テジョーでタイホされるかもしれない。カンゴクへぶち込まれるかもしれない。チョーエキになるかもしれない。怖いのである。そう考えると、いても立ってもいられない。弾かれたように家に帰り、自分の部屋を血眼で家捜しするのである。 〜つづく〜 |
もう一山
ここ数日の多用さはどうしたことだろうか。働ける喜びを存分に味わわせてもらっている。ありがたいことである。 業務をこなし、一息ついて風景を眺めれば、先日来の雪はすっかり消えて庭は春の様相である。こうなったら毎年恒例、オオイヌフグリの咲きグワイを確かめないと気が済まない。今年のご機嫌は如何だろうか。 ご覧の通り、ちゃんと咲いている。何だかとても嬉しいのである。昨年の掲載日は何時だったかと過去日誌を繰れば、2月17日だった。1日違い。花は良く知っている。 昨年は2月の天候が非常に良く、このまま行けば桜もさぞ早く咲くだろう、と思ったのは全くの楽観で、3月に入ってからは酷く寒い日が続いた。今冬は比較的小雪、しかし、寒さは強烈である。2、3日前からようやく緩み、その間に咲き始めたのが今年のイヌフグリであるわけだ。心待ちにしていた早春の知らせではあっても、まだ2月18日。もう一山越えなければ、本当の春はやって来ないのである。 冬至から2ヶ月、夏至まで4ヶ月、午後6時でも西の空には残光が見られるようになった。確実に近づいている春を、一日千秋の思いで待つのである。 |
低能率 II
申しわけないのである。業務多用で更新不可能、例によって低能率の為せる業である。こんなんでは「能率の低いシステムは嫌いだ」なんてエラそうなことは言えないのダ。 と、言い訳しながら、またまたフェイドアウトするのであった。明日からまた、がんばります。御容赦ください。 |
好きな音
先月トゥイーターをDHKしてから、約1ヶ月が経った。現状、非常に良い音で鳴っていると思う。高い解像度と浸透力はT-300Aの恩恵、艶と瑞々しさはJA-0506IIGMCu(名前長い)に因るところだろう。 しかし、である。物事全て上手く行く、なんてことは滅多にないのである。ソフトによっては以前に増して聴きづらくなったものもある。元々歪みの多いソフトには極めて敏感である。聴くに堪えない。これが正しい答えなのか、それとも誤りなのか、僕には判らない。現実にそうなってしまった、ということである。 僕はもともと、ややハイ上がりの音を好む傾向にある。さらに言えば、ドンシャリ(中域に対してローハイのレベルが高い音)が好きなのである。中域なんかどーでもヨイ、とまで極端ではないにしろ。ハイに多少のリンギングがあっても、オーバーシュート気味でも、SWの鳴らし方が野暮であっても、それは一向に構わない。上に書いたような歪みだらけの音はカナワンけれど、と言って上品な音を出したいとは思わないのである。 そーゆー音が好きなのだから仕様がない。人によっては一聴して「なんじゃこりゃ」と逃げ出すかもしれないし、「色気もクソもなく無味乾燥」と酷評されることもあるだろう。それも全く問題ナシ。どう言われようと、自分が自分のために自分の音を出してこその我がオーディオであってみれば、他者の評価は問題にする必要がないのである。 独善的でありたいとは思わないし、他からのアドヴァイスを一切無視するつもりも毛頭ない。ただ、自分の部屋で独り音楽を鳴らすとき、少なくとも自分の好きな音で聴きたいのである。その音を追いかけるのが、オーディオの一番美味しいところであるわけだ。 良い音とは、好きな音。 |
例外
一般的にロックのCD(ADも)は、録音の良くないものが多い。ムカシロック小僧、今ロックオヤヂの僕が言うのだから、間違いない(と思う)。 音場感ナシ、水平一直線定位、ならまだマシ、中には「コレほんとにステレオか?」と首をひねるものさえ少なくない。FレンジDレンジとも極めてナロウ。リミッター、コンプレッサー使いまくり、ローレベルは持ち上げられピークは抑え込まれている。歪みだらけでささくれ立ち、とても聴くに堪えないという、凡そハイファイから遠いところに位置するのが一般的なロックの録音である。 どんな世界にも例外はある。ハッとさせられるものにも、時には出会えるのである。どちらかといえば古い録音に多いようだ。70年代初期〜中頃はお薦め。好録音の含有率が比較的高いと思う。'80年代に入るとガクッと減る感じ。 そこで紹介するのが上のタイトル。「WINGS AT THE SPEED OF SOUND」(英MPL 0777 7 89140 2 0)である。オリジナルは1976年発表、これは1993年リリースのディジタルリマスターCDである。'96年8月、量販店のワゴンセールで780円だった。超ハイCPである。 「WINGS」といっても、今となってはご存知ない方があるかもしれない。ポール・マッカートニーが1974年('73年だったかな?)に結成した、彼のワンマンバンドである。当初は「Paul McCartney and Wings」だったものを、このアルバムからシンプルに「WINGS」と改名する。僕はこの頃のポールさんが好きなのである。 1976年に買った国内盤ADよりもずっと音が良い。歪み感が少なく音が素直である。レンジは広くないが、妙なクセは少ないのでかなりの大音量再生にも耐え得る。全体的に音がクリアで見通しが良い。ロックアルバムの中ではかなり優秀である。但し、音場感を期待してはイケナイ。はっきり言って、無い。人工的に付加したエコー、リバーブが聴こえるくらいである。 せめてこれくらいの水準であって欲しいものだと、思うけれどそうはいかないらしい。以前載せたLED ZEPPELINの復刻盤ADなど、例外中の例外である。何故こうなるのか、まったくわからない。 ロックロックと言うけれど、WINGSがロックなのかどうか異論もあるだろう。どちらかと言えばこれは、ポップスに近いかな。 |
低能率
なのである。年度末が近づくと、事業所であるところの私方も洩れなく事務仕事が多くなる。代表役員兼事務員兼マネージャー兼お茶汲みのワタクシ儀、一所懸命になって書類を作るわけだが、それが表題の通りなのである。段取りワルイ。 これはもう生まれつきなのであって、今さらどーしよーもない。数字がワラワラ並んだ書類を見ると、それだけでパニックである。されどこれも極めて重要な、僕の業務なのである。 フツーの人がやればさほど時間もかからず難なく仕上げてしまうような作業である。僕がやったら遅々として進まず、ようやくさっきになって完了した。ああ、遺憾。と、今日の日誌を短く終わる言い訳を羅列し、フェイドアウトするくずてつなのであった。 これまた、遺憾です。 |
緩衝剤
風邪の惹き始めなのか何なのか、昼頃から酷い頭痛で弱った。こんなことは滅多にない。僕は頭痛持ちではないのである。すぐ治るだろうとタカを括っていたら、案に相違してどんどん酷くなる。コイツは堪らんと、年に一度使うかどうかの某頭痛薬(とくに名を秘す)を飲んだわけだが。 これが効き過ぎてタイヘン。頭痛はあっという間に雲散霧消、効果絶大なのは看板に偽りなし。大変結構である。だが、全身倦怠感に襲われ、眩暈はするし朦朧とするし、まるで別の病気にかかったヒトのようになってしまった。この薬、強烈である。 現在服用後9時間、ようやくヤクが切れたようである。頭痛のぶり返しはなく、体もすっきりした。愚妻に訊いたら、今日飲んだもの(とくに名を秘す)は数ある頭痛薬の中でも特に強力なヤツであるそうだ。「初心者(!)が飲むようなもんじゃないよ、次からはもっとユルいのにしなさい」と叱られてしまった。彼女は頭痛薬のオーソリティーなのである。 バッファも効かせ過ぎると情報量激減。モウロウとした音になりますから注意しましょう。 |
BHと共鳴管
2階のD-55を再起動させて20日あまり、小音量(2階はあまり大きな音が出せないのである)ながらも一日一度は鳴らしている甲斐あって、どうやらお目覚めご様子である。BHらしい張りと生気のある音を出すようになった。楽しいことである。 Ver.1、Ver.2の違いはあれど、ほぼ同じユニットを使いながら、エンクロージャーによる音の違いに改めて驚くのである。無論、1階システムとではスピーカー以前の再生系が全く違うわけだから、一概単純に決め付けるわけには行かない。だが、箱船完成当初はD-55、その後ネッシーIIに変更したのはBHと共鳴管の、音の出方に違いがあったからこそなのである。 1989年にD-55が初出してしばらくの間、「D-55とネッシーではどちらが優れているか」と話題の俎上にのぼることしばしばだった。使用ユニット(当時FE-206SS)は全く同じ、エンクロージャーだけが違うこの2者に興味を持つ人、長岡先生に対して問い質したい人が多かったのだろう。 この頃は「優劣つけ難く、ピュア・オーディオ向きのD-55、VAシステム向きのネッシー」という見方が定説のようになっていたが、実際はそんなに単純なものではないのである。ルックス、プロポーションを別にすれば、どちらをどう使っても充分高いパフォーマンスが得られるのである。但し、音の風貌は違いが明らかなので、それぞれ環境に応じ、使いこなしを工夫する必要があるのは当然である。 中高域のスピード感は同等、ここはユニット元来の性格に支配される部分が大きい。Dレンジは僅かにネッシーが優る。ホーンロードがかかっているか否かの所為か。中低域の締まり、厚み、瞬発力ではD-55に分がある。「BHは低音が遅れる」などとは、聴かずして(或いは使わずして)机上の空論を述べているに過ぎない。低〜超低域にかけての空気感はネッシーの圧勝、これはどうやってもD-55では出ない。 こうして書いてみると、両者ともサブ・ウーファー(或いはスーパー・ウーファー)の使い様がポイントとなることに気が付くのである。D-55は超低域を補強したい、ネッシーでは中低域を補強したいわけだ。両者とも中高域のスピード感が高いだけに、この選択は極めて困難。非常に速い中高域に見合うSWを、探し出すのも作り出すのも至難の業である。 どちらが優れているか、などとはまったくに無意味な議論である。ネッシーの発展型をメインに据えている僕とて「BHよりも共鳴管が優秀だから」と使っているわけではない。自分のオーディオ環境には、現状共鳴管がベターだと判断するからである。 世の中は広い。D-55でネッシーのような音を出す人、ネッシーでD-55のような音を再生する人を、僕は知っている。0か1かの二元論ディジタル的判断よりも、いろいろあるから面白いと皆が楽しめば、オーディオの将来はもっと明るくなるだろうに。 |
10年に一度
僕は滅多にTVドラマを見ない。理由は単純明快、面白くないからだ。それでも10年に一度くらいは鑑賞に堪えるものが出てくるのである。 古いところから行くと、「素浪人月影兵庫」(1965年/NET 僕が見ていたのはたぶん再放送)、「男たちの旅路」(1976年/NHK)、「八代将軍吉宗」(1995年/NHK)など。時代劇と社会派ドラマが好きなのである。 今、毎週楽しみに見ているのが、上の画像にある通り、山崎豊子原作の「白い巨塔」(フジTV)である。この作品は、1967年(主演:佐藤慶)、1978年(同:田宮二郎)、1990年(同:村上弘明)の過去3回、ドラマ化されている。1967年の放送は子供の頃の記憶にうっすらと残っている。1978年の田宮二朗版が一番有名か。1990年版は全く記憶にない。 今回(2003年版)は、主演が唐沢寿明、脇役を江口洋介、石坂浩二、西田敏行、伊武雅刀らが固めている。 内容は説明の要がないだろう。大学病院教授の座をめぐる権力闘争ドラマである。医療過誤裁判ドラマとも言える。原作は高校生の頃に読んだ。全五巻の長編小説だが、一気に読ませる迫力がある。さすが綿密詳細取材の山崎豊子、近作「沈まぬ太陽」('85年の日航機墜落事故をモチーフにした小説)と並ぶ名作だと思う。 2003年版もヒジョーに面白い。原作からすると主役が唐沢ではイマイチ線が細いかと思いきや、これがなかなかの名演である。冷酷で傲慢、上昇志向の塊のような主役を上手く演じている。脂ぎった町医者を演じる西田、保身のためならヘーキで筋を曲げる医学部長役の伊武。絶妙の脇役である。 毎週木曜日の午後10時、愚妻と二人で「肩に力入るね!」などと言いながら、子供のようにTVの前へ座り込むのである。このドラマが完結すれば、次回面白いものに出会えるのは2014年頃になる予定。 気の長いハナシだこと。 |
もう少し
少々業務が多くあり、更新に手が回らなかった。多忙なのは良いことである。オツトメを完遂してこその趣味である。 昨日は天気が悪かった。雪こそ降らなかったものの、一日冷たい雨が降り続き、ヒジョーに寒い日であった。今年は比較的少雪だが、寒さは厳しいように感じている。 今朝起きたら外は靄で真っ白である。冬の朝、靄が出ると日中は好天になるのがこの辺りのシキタリである。午前7時過ぎ、山から日が昇る頃にはだんだんと消え始め、青空が覗いてくる。逆光に輝く靄はなかなかに美しい。日本海側の冬にだって、良いところもあるわけだ。文句ばかり言うのも能がない。タマには喜ばなきゃあね。 夕方の日没は目立って遅くなってきた。冬至から約2ヶ月、立春も過ぎれば多少なりとも春めいてくるのである。 あともう少しのシンボウだ。 |
末はニャジラか
昨年5月に婿取りしていただいた「シマ」、その後改名して現在「チューイ」の勇姿である。婿入り先のスポックさんからお知らせを頂いた。ありがとうございます。嬉しいです。 猫の成長は早く、誕生から10ヶ月も経てばすっかりオトナ、であることは充分承知している。されどこうして途中経過をすっ飛ばしてみれば、やはり驚くのである。コチラの写真と見比べて欲しい。たいへん良くお育ちなったことでゴザイマス。大切にされているであろうことは容易に想像できる風貌である。オトコ前だし毛並みも良いし。アンタは幸せや。 オトナと言っても人の年齢に換算すると、16歳〜17歳くらいだそうである。それでチューイの現在体重は、5kg超だと。どのようなウマイもん貰っとるんや、チミは。ウチの極悪ラクなど、間もなく4歳になろうというのに3kg弱である。最近では取っ手に飛びつきドアを開くワザを会得し、勝手気まま自由自在に家中を闊歩しているとおっしゃる。ナルホドね。 送り出した者としては、これほどの幸いはない。今後は太り過ぎと成人病(!)に気を付けて、できるだけ長生きして欲しいと、親元は思うのである。 スポックさん、ありがとうございます。 |
どうする後継
現用三管式プロジェクター、ソニーVPH-1252QJも、導入以来既に8年経とうとしている。'96年4月、VPH-100QJをグレードアップする形で入れた当時の名機も、今や古色蒼然とした過去の遺物になってしまった感じである。今ではこれを遥かに超える液プロ、しかもぐんと安価なものがゾロゾロあると聞く。 久しぶりにCRTタイマーを表示させてみた。使い始めからの総稼働時間は、ご覧の通り。2,065時間である。箱船に座って8年に60日ほど足らず、実際には(365×7)+305=2,860日くらいであるからして、2,065÷2,860≒0.722。それに60を掛けて43.32。一日当たりの平均稼働時間は43分19秒くらいになる計算である。 これはたぶんVAマニアの中にあって、かなり少ない方になるのではないか。マニアの風上にも置けねえのである。 高輝度CRTの寿命は、凡そ4,000時間と聞く。であってみれば、ちょうどその半分を使ったわけだ。8年で1/2、今のペースで行けば全寿命をまっとうするに16年。こういう勘定になる。 もしあと8年、大きな故障なしに行けるという楽観的な目測を立てたとして、寿命は否応無しにやってくる。8年後にCRT交換、するにも既にパーツがないだろう。では、パーツがある(だろうか?)今のうちに主要部品を全交換、延命治療を施すか。それとも現状のまま行けるところまで行き、ぶっ壊れたらその時最良と思われるプロジェクターに乗り換えるか。 う〜む。使用時間が少なく、程度が良く、しかも安い価格でVPH-G70QJの中古が手に入ればそれが一番ヨイ、などと勝手なことを考えたりもする。が、中古三管式はリスクが大きいとも仄聞する。1252QJ後継の選び方は、なかなかにムツカシイのである。 液プロも悪くないと思う。けれど、やはり僕は三管式にこだわりたいのダ。大きくても重くても使い勝手が悪くても、三管式。 趣味だから。 |
次はどーなる
さて、「ターミネーター3」の鑑賞後感である。以下は極めて恣意的な評価であるよって、あまり信用なさらぬよう。そんなこたあ言わずもがなですな。 内容は、ちょっと困ったなあと言うか何と云うか。SF映画としてはどーなんでしょうか。イキナリ元に還っちゃって、これからどうするの、と言いたくなるような結末である。ヒロイン(一応そうだと思う)はちっとも美人じゃないと思うのだが、あれは意識的にそうしてあるのだろうか。それよりも○○のほうが....。ストーリーテリングは、良く言えば息も吐かせぬ急展開、悪く言えば「雑」の一言。110分の映画であそこまで持っていくか。随所に出てくる「2」へのオモネリ。これはいささか鼻につく感じ。う〜む。これ以上はエチケットとして、書けないのである。60点。 画はかなり綺麗である。「2」を上回りながら統一感がある。カラフルで明るく解像度が高い。野外ロケかセットかがバレバレになるのは、良いことか悪いことか。黒の沈みが良く階調表現にも優れている。久しぶりにプログレッシブ映像とインターレース映像を見比べてみたら、プログレの圧勝だった。これはもう次元が違う。一見の価値アリ。80点。 音。これは文句無しである。5.1ch→2chダウンミックス、スピーカーマトリクス再生でも大変楽しい。特に凄いのは超低域のクソ力である。凄い凄い。スピード感があり極めてリアル。固く締まってドロドロしない。量感と質感が非常に高いレベルで両立している。中高域の切れと力感も優秀である。爆発音、衝撃音は踏ん張りが効いて瞬発力がある。セリフも自然でよい。一聴の価値、大いにアリ。90点。 100点満点評価で内容60、画80、音90。総合77点。などと知ったようなことを書いているけれど、実は充分面白かった。文句をタレるのも楽しみのウチ。ああ、マニアはいやだねえ。 して、次のテンカイは? |
第3作
いささか旧聞になってしまった感のあるDVDタイトルである。「ターミネーター3」(日ジェネオンエンタテインメント
GNBF-7001)。DISC1(本編110分片面2層)+DISC2(特典映像123分片面1層)の2枚組で3,980円。 音声が沢山付いている。1.英語5.1ch 2.英語DTS5.1ch 3.日本語5.1ch 4.音声解説1(2chサラウンド) 5.音声解説2(同)と、以上5種類。御丁寧なことである。残念ながらウチではいずれも正常に再生できない。DTSに至っては音を出すことさえできないのである。プレーヤー(パナソニックDVD-H1000)任せの5.1ch→2chダウンミックス音声、それをスピーカーマトリクスで鳴らすのだから、何を聴いているのか判ったモンじゃねえのである。映画音声については完全に蚊帳の外だ。 実はまだ見ていないのである。これから見ようというわけだ。全く予備知識なし、バイアスゼロでシリーズ第3作目を見る。第1作目はターミネーターのシツコさが怖かった。2作目は方舟で長岡先生と一緒に見たのが初めて。LD時代だったが綺麗な映像と音の良さに驚いた。それから12年、今回はどんなものでありましょうや。 娯楽映画として純粋に楽しめればそれで吉。後日報告したい。 |
24時間換気
孔開けば 足元寒し 冬の風。 箱船の構造上致し方ないのである。なぜならば、24時間気圧差換気方式になっているから。スクリーンが懸かっている壁の向かって左下(床から20cmくらいの高さ)に写真の換気入り口があり、対抗面の壁(ADラックが置いてある)向かって左上(床から3m)に出口がある。高低差、つまり気圧差で空気を自然に動かそうという狙いである。 こんなことでうまく換気ができるのかと、疑問に思われるムキもあるだろう。それを解っていただくために今日の写真を撮ったわけだ。イマイチ企画倒れかしらん。要するに、換気孔(入り)から吹き出す風の勢いをお分かりいただきたかったのである。 写真で見ると大したことはないように見える。実際にはガス量を最大にしたライターの炎が消える寸前になるほどの空気が吹き出しているのである。冷たい風がヒューヒューと。酸欠の心配はご無用。過去、最大30名で2時間以上映画を見た時も、全く問題なかった。問題があったらタイヘンである。だが、足元はヒジョーに寒いのだった。 換気孔に嵌っているカバーは、ご覧の通り「放射線注意マーク」みたいなカタチをしていて、中央のツマミを回せばシャットダウンすることもできる。寒い寒いと文句を言いながら、未だ嘗て一度も閉めたことはない。たぶん閉めても大丈夫だとは思うけれど、何となく気持ち悪いのでずーっと開けたままだ。 夏はわりと問題ないのである。生暖かい外気が吹き込むかと思いきや、外壁と内壁の間にある空気層全体がヒートシンクの役目を果たし、ひいやりとした風が出てくる。箱船は夏のほうが快適である。 夏に来た人は「ホントにちゃんと換気できてんの?」と疑り、冬に来た人は「何処からか常に空気が入ってるね。スキマ風?」と訝る。 どなた様もご心配なく。箱船は四六時中換気なのでございます。 |
立春だけれど
この辺りでは節分立春の頃が一番の大雪になることに決まっているのである。そのわりに今日(3日)日中のお天気は穏やかだった。さすが、暦の上では春だなあ。と思ったら。 夜になってやっぱり雪になった。今、景気良く降っている。ご覧の通り、冬枯れの柿もすっかり雪被り。枝は白いカリントウみたいになっている。明朝はまた雪かきである。 僕が丹後へやって来て、今年で16年になる。話に聞いてはいたものの、最初の冬は面食らった。その頃は今よりも雪が多く最低でも50cm、多いときには1mを超える積雪があったものだ。年を追うごとに雪は減り、だんだん手前もこの気候に慣れて行く。日本海側気候と雪は、相変わらず愛せないでいるけれど、多少の雪なら動じることはなくなった。 昨年の夏、大阪からこちらへ引っ越してきた友達がいる。京都市内生まれの大阪育ち。凡そ雪には縁がなかった彼の人生である。今初めて彼は丹後の冬を体験しているわけだ。昔よりも減ったとは言え彼にすれば30cmでも大雪だろう。大阪市内や京都市内なら、10cmで都市機能は停止するのである。 冬の曇天と降雪。太平洋側からやって来たニンゲンは、最初はみんなそれに驚くのよ。2、3年もすれば、すっかり慣れちゃうからガンバロウね。 そうやって僕らはやがて、丹後人に同化するのである。 |
鬼のCD
春の節分である。追難厄(鬼)祓いの行事、豆まきに因った話題が何かないかと、思い浮かんだのが上のCDである。「怒涛万里/鬼太鼓座」(日ビクター
VICG-60201)。(P)(C)1999。「鬼」で「鬼太鼓座」とは、イマジネイションの貧困甚だしいのである。申しわけない。 ついこの間買ったばかりだと思っていたら、もう5年近くになるのである。そりゃそーだ、長岡先生が推奨しておられたのだから、少なくとも4年は経つわけである。光陰矢の如し。 ダイレクト・カッティング・エディションということになっている。ライナーノーツには詳しく説明してあるのだが、僕にはイマイチぴんと来ない。ダイレクト・カッティングと言うと、先ず思い浮かぶのは録音から直接ラッカーマスターを切ってしまうADのこと。しかし、このCDはそういうことではない。録音しながらイキナリCDにしてしまった、というようなモノではないのである。アナログ録音のマスターテープから「ダイレクトに」ディジタル変換してディジタルマスターを作った、ということらしい。ちょっと紛らわしい表現だと思う。 僕は打楽器が好きである。ドラムを叩くからかどうか、それはあまり関係ないような。ともかくタイコ、チンチロリン系が大好きなのである。 このCD、ヒジョーに音がきれいである。歪み感極少。中、低域に力もある。だが、どーも好きになれない。端正すぎて面白くない。ハッとかギョッとか、目を瞠るようなところがないのである。怒涛万里という勇ましいタイトルのわりに、距離をおいて冷静に聴けてしまう。生にある恐怖感や切迫感がないのである。ひょっとするとこれがホンマモンのハイファイ録音なのかも知れないが。 このCDの後に、限定盤ADもリリースされた。もちろん持っている。当時かなり期待して聴いた、けれどやっぱり今ひとつ。ADならではの底力、圧力、切れ、抜けの良さが出ない。音が冷めている感じ。う〜む、どうしたことだろうか。 いやいや、ソフトの所為にしては遺憾。オイラのシステムがまだまだ練れていないのかと、鬼の日に鬼太鼓座を聴き、疑心暗鬼になる。 シャレにもならんのである。 |
傍流
1年3ヶ月ぶりの磨き直しは30分ほどで完了。ダイヤモンドペースト#15000で1回磨いただけである。汚れもくすみも取れてご覧の通り綺麗になった。こんなに容易な作業ではとてもDHKとは言えないのである。 削れた厚みがホントに1μかどうか、それは定かではないが、たぶん僕が生きているうちに擦り切れたりはしないと思う。正に一生モノ。1年に1回磨くだけでこんなに美しい姿を保て、しかも音が良い。超々ハイCPである。 ADプレーヤー周りに使っているカスタムパーツは多い。TTプレート、ターンテーブルロックナット、スタビライザー、フォノEQもAE86カスタム版である。拡大解釈すればキャビネットもそうだし、アームベースもそうなるだろう。純粋な市販品はアームとモーターだけである。しかも太古の製品。意図せずしてこういうことになってしまった。時代の流れか。 完全に傍流となってしまったAD再生、だが、僕のオーディオシステムにとっては今以て中心的存在である。懐古趣味ではなく、単純に音が良いからしがみついているわけだ。尤も、最高最良のディジタル再生機なるものを聴いたことがないので、恣意的絶対評価にしか過ぎないのである。 このTTプレートが30μほど磨り減るころ、アナログとディジタルはどんな音関係に...否、アナログなんかとっくに絶滅してるだろうなあ。 その前に、オノレが寂滅為楽。 |
劫
前回DHKしたのは'02年11月1日だから、もうはや1年3ヶ月も経ってしまったわけである。Y31さん謹製砲金TTプレート。写真に撮るとそれほど汚れてはいないように見える。しかし、実際にはかなり酸化が進み、汚れもある。そろそろ2回目の磨き直しをせねばなるまい。 最初に磨きあがってから次の直しまでが3ヶ月、その次が今で1年3ヶ月。この差は何の所為か。ダイヤモンドペーストで磨いたかそうでなかったかの差である。見た目以上にDPの効果は大きいのである。目に見えないような凸凹が均されることで表面積が減り、ちゅうことは空気に触れる表面積も減り、つまり酸化しにくくなると、こういうわけじゃないかとシロウトは思うのである。 一旦そうなれば手直し研磨はらくちんである。初めての研磨のような、コメカミに血管が浮き出るほどの力は要らない。最小限度量のDPで、軽く磨くのみ。これで充分である。 「一劫」という時間の単位をご存知だろうか。一由旬(ゆじゅん。約14km)六方もある大きなサイコロ岩の上に、100年に一度天女が降りてくる。天女はその身にまとった薄い羽衣で岩を1回だけ撫でて天へ帰る。その時、ホンの僅かばかり岩が削られる。それを繰り返すうち、ついには岩が磨耗してなくなってしまう、までの時間が「一劫」である。落語「寿限無」の一節に出てくる「ゴコウのスリキレ」とは「五劫の擦り切れ」で、この5倍の時間を指しているわけである。なんちゅう悠長な。気が遠くなるような、永い永い時間。 TTプレートを磨くたび、いつもこの話を思い浮かべるのだった。ミクロの目で見れば、TTプレートも表面が削れてだんだん薄くなっているのである。いつかは一由旬の岩山のように、擦り切れてなくなってしまうに違いない。プレートの厚みが6mm、1回の研磨で1μ削れるとすれば6,000回で擦り切れる計算になる。1年1回磨いて6,000年。一劫に比べりゃどーってことないね。 化石になってしまいますがな。 |