箱船航海日誌 2001年12月

日々雑感、出来事などを思いつきに任せて綴っていこう

過去の日誌コンテンツ

’01/12/31 (日)

ホワイト大晦日


 久しぶりに雪の正月になりそうである。今朝方から降り始めた雪は一向に止まず、お昼には5cm程度の積雪になった。できれば元旦の朝までに止んで欲しいところだが、どうだろうか。

 2001年も今日で終わる。今年のオーディオは(も?)何だか落ち着かないことだった。実験だか冒険だかさっぱりわからないが、いろいろ変化が大きかった。個人的にはヒジョーに楽しいオーディオができたと喜んでいる。

 お客様も多かった。2000年までに比べると、飛躍的にご縁が拡がったと思う。これはもうwebnetの恩恵以外の何者でもないのである。延べ38人のお客様、それぞれにとても楽しい時間と在り難いご縁をいただいた。御礼を申し上げねばならない。ありがとうございました。

 HPのほうは、これまた閲覧くださる皆さんのおかげさまで、順調にアクセス数が伸びている。昨年末10,000カウントほどだったものが、今では86,000を超えた。この一年で76,000件以上のアクセスをいただいたわけである。こんなにもたくさんのアクセスをいただきながら、いつもいつも同じことしか言えない自分がお恥ずかしい。唯々御礼申し上げるばかりである。皆さん本当にありがとうございました。

 今年の元旦の日誌には「地に足をつけてじっくりとオーディオしてみたい」などとエラそうに悟ったようなことを書いている。はっきり言って大ウソツキ野郎である。できないことは言うもんじゃない。

 ということで、開き直ることにする。来年もバタバタします。ので、今後ともどうかよろしくお引き立ての程をお願い申し上げたいのでございます。

 皆さん、どうぞ良いお年をお迎えください。

’01/12/30 (日)

眠れる


 「JEDI」の起源で眠れないと書いたら、早速複数の方からご教示いただいた。ありがとうございました。

 「ジェダイ」は「時代」、「オビ=ワン」は「(黒)帯一本」、「クワイ=ガン・ジン」は「開眼人」、ということだそうである。どうやらスターウォーズマニアさんの間ではすでに常識だったらしい。やっぱり分らんままに妙なことを書くもんじゃない。お恥ずかしいことでした。

 要するに日本語起源だったわけだ。それとは知らずに他の言語に混じって「音」だけで耳に入って来る日本語は、実に妙な響きになるものだと改めて思うのである。もちろん、日本人が発音する日本語と、他の言語を使う人が発音するそれとでは「音」そのものも変ってしまうわけだ。「開」を「クワイ」と発音する辺り、現代日本語とはかなり違うのである。

 昔の日本語では「カ」を「クワ」、「ミョウ」を「メウ」「メフ」、「チョウ」を「テフ」、「ショウ」を「セウ」「セフ」、「ン」を「ム」などと表記していた。表記だけでなく、実際にそういう発音をしていたという説もある。ウチにある明治時代の経本を見ると「妙法蓮華経観世音菩薩第二十五」という経題の振り仮名には「メフハフレンゲケフクワンゼオンボサツダイニジャウゴ」とある。ほとんど呪文か早口言葉の類である。だが、この伝からすると「カイ」を「クワイ」と発音するのもあながち間違いではないということになる。これを徹底すれば「クワイ=ガン・ジン」も「クワイ=グワン・ジム」となるわけだが、そうなると益々ヘムなことになっちゃうのである。

 ずっと以前のこと、ジャズドラマー森山威夫氏の「外国人が初めて聞いた日本語のマネ」という芸を見たことがある。これには大爆笑だった。無意味な「音」の羅列なのだが、不思議なことにちゃんと日本語に聴こえるのである。森田一義がまだ芸名「タモリ」だった頃にやっていた「ハナモゲラ語」という芸の起源は、この森山氏の芸にあるという、これはウソかホントか知らない話。

 ええと、なんだか話が大幅にそれてしまった。ともかくスターウォーズの妙なネーミングの起源が判明し、これで今日から安心して眠れるのである。

 あとは「パダ・ワン」と「アナキン」だな。

’01/12/29 (土)

うれしクルシイ


 永い付き合いの友人が「今度結婚することになった」と連絡をくれた。歳が僕より二つほど若い彼はこれまでまったくそういう雰囲気はなく、オーディオに心血を注ぐこと専らだっただけに正直言って驚いた。ともあれ、おめでたいことである。

 もとより虚飾を嫌う彼のこと、結婚式は本人、ご両親ご了解のうえで省略、入籍同居という形をとると言う。それは大変結構なことである。はっきり言って大掛かりな披露宴など、無駄の極致。彼らしい賢明な選択だと思う。

 とは言うものの、永い付き合いなのでここはささやかではあっても何かお祝いくらいは差し上げたい。無礼を承知で何が良いかと尋ねると、返ってきた答えは「数珠を希望したい」ということだった。結婚お祝いに数珠? 奇異に思われる向きもあるだろう。だが、あながちそうでもないのである。

 仏前結婚では一般的な指輪の交換に代わり、数珠を交換するのである。仏前に於いて仏教に帰依することを誓い、その証しとしての数珠交換である。そう考えると、彼にお祝いとして数珠を贈れる僕は、ボウズ冥利に尽きるとも言えるわけだ。それは素晴らしいことである。喜んで贈らせてもらったのが上の数珠である。

 「印度翡翠尺二看経共仕立 茶 紐房」(いんどひすいしゃくにかんきんともじたて ちゃ ひもふさ)という。基本的には臨済宗の僧侶持ち数珠になるわけだが、一般的に広く使って何の問題も無い。ソリッドモノ、ムクモノマニアの僕好みである。彼にもお気に召していただけた様子で、僕も大喜びである。

 さてその彼が、結婚を機にVシステムに使っていたアンプを買い替えるという。結婚を機に? なんだかヘンである。結婚を機にシステム縮小というのなら話もわかる。これまで使っていたのは、20年以上前のご老体アンプ。それを最新鋭機アキュフェーズPX-600にするというのだ。ハンパな投資ではない。よほど理解のある新妻さんかと、よくよく話を聞いてみれば。

 要するに奥様からのご希望、というより条件であるらしい。「老体アンプを後生大事に使うのはおくゆかしいけれど、ワタシが一人でいるときに火でも噴いたら大変よ、だから買い替えてね」と。こういう理由でアンプを新しくする人も、あまり聞いたことがない。

 世の中の妻帯者さんたちのオーディオ状況を伺うと、そのほとんどが買い替え、買い増しに苦労していると聞く。僕などはかなり恵まれた状況といえるわけだが、それでもまったく遠慮無しというわけにも行かない。ましてや「古くて怖いから買い替えて」などと言われたことは一度だって無いのである。

 新婚生活のにスタートにあたり、物要りな上にこの出費、非常に痛いと彼は嘆きながらも、また一方では最新鋭のマルチアンプ導入にいささかの難色も示さない、否、それを条件とするような新妻の訪れに喜んでいる。

 ごちそうさま、と言う話だが、世の妻帯者としては非常にウラヤマシイ状況でもあるわけだ。

 おめでとうございます。幾久しくお幸せに暮らされることを願って止みません。

’01/12/28 (金)

JEDI と DHYANA


 誠に旧聞ながら「スターウォーズ・エピソード I 」を見た。内容や音、画については既に多くの方々が触れていらっしゃるし、今さらの感もあるので省略。

 スターウォーズシリーズは全作品見たけれど、いつも気になるのが独特の人名と固有名詞である。まず「ジェダイ」。それにかかわる人々「オビ=ワン・ケノービ」「クワイ=ガン・ジン」「アナキン・スカイウォーカー」「マスター・ヨーダ」。ジェダイの見習い「パダ・ワン」。そのほかにも不思議な語感を持つ言葉が沢山使われている。

 「ジェダイ」って、一体どこから来た言葉だろう。もちろん造語には違いないと思うけれど、僕はその起源が知りたいと思う。スターウォーズマニアの方ならご存知?

 ジェダイ・ナイトになるためにはキビシイ修行が不可欠とされている。「考えるのではなく、フォースを感じなさい」とマスター・ヨーダやクワイ=ガンは言う。思想として禅的、と言って差障りがあるのならあるいは東洋哲学的、と言って良いかもしれない、そういう匂いを感じるのである。西洋人の東洋への憧れ、みたいなものが根底にあるような気がして、気になって仕方ないのである。

 「禅」という言葉は、古代インド言語であるサンスクリット語の「dhyana」(瞑想)に起源する。「ディアーナ」を音写して「ゼン」となったわけだ。禅の本質が「己自究明」(こじきゅうめい=自分はどこから来てどこへ行くのか、丸裸の自己とは何かを明らかにすること)であってみれば、「自分が何者かを知る」ところから始めるというジェダイの修行は、正に禅的である。大体が「DHYANA」と「JEDI」って、何となく語感が似ているように思うのは我田引水に過ぎるかしらん?

 そんなことを考えながらこの映画を見ていると、不思議な人名には何か大きな意味が含ませてあるのかな、などと深ヨミしてしまうのである。クワイ=ガン、オビ=ワン。う〜む、不思議だ。

 好き勝手にこんなこと書いているが、事実はまったく違ってたりして。もしそうだったら、スターウォーズマニアの方々、平にご容赦を。

 妙なところにこだわっているようだが、実際気になって夜も寝られない。真実のところをご存知の方がいらっしゃれば、是非ご教示をお願いしたいのである。

’01/12/27 (木)

冬型も


 いいことだってある。箱船2階の窓から見える隣の小学校を覆うようにかかった大きな虹である。二重の虹になっているのだが、この写真でお分りいただけるかどうか。2階の部屋から出ようと、入り口の戸を開けた途端この虹が目に入った。あわててデジカメのスイッチを入れたら [ ! NO CARD ! ] の表示。モタモタしてると消えてしまう。なんだこりゃとさらに慌ててカードを挿し込んで撮ったのが上の写真である。

 冬型特有の天気雨であればこそ、こんなに美しい虹がかかるのだ。虹とはまさに自然の光による芸術である。ヘボな写真にするとその迫力が激減してしまうのは極めて残念。やっぱりライブでないとね。でも、8月5日の写真よりはうまく撮れたかな。

 虹は突然現れて、あとは儚く消えてゆく。近づいて確かめようにも実体はない。幻想的でもある。そのせいか虹にまつわる伝説の類は多い。「オズの魔法使い」にも登場するし、食べるために虹を探し回る七色の鬼がやって来る「レインボウ・ゴブリン」というお話もあり、高中正義が曲にしている。「美味しそうな虹が出たぁ〜」と走ってゆくのだが、ゼッタイに食べられずいつもおなかを空かしているという憎めない鬼の物語である。長岡先生推薦ADの「少年と金魚」(A級外セレ89番 米VARESE SARABANDE VCDM-1000.30)も虹にかかわる伝説をモチーフにした曲である。

 寒いのも雪もキライだ、早く春が来てほしいと、毎年冬の間中文句を言い続けているが、考えてみればこれも在り難いことなのかもしれない。「雪月花」。四季に応じて風景が移り変わってゆくのを肌で感じられることは、今や贅沢なことになってしまった感もある。そう思えば、憂鬱な冬も悪くはないか。

 でもな〜、やっぱりな〜、雪は無いほうがいいな〜。

’01/12/26 (水)

雑然


 酷い状況である。こんな状態で箱船の新年を迎えては遺憾、と思いながら本業の方がやたらと忙しく手が付けられないでいる。それでも何とか年内には大掃除、とまでは行かずとも中掃除くらいしなくてはイケナイ。ナンボなんでもこれではなあ。

 写真はプロジェクター=スクリーン間のスペースだが、実はここに写っていない部分、つまり視聴スペース側は、もっとエライことになっているのだった。ネタにするため一応写真に撮ったものの、あまりのキタナさにお見せすることはできないのである。お恥ずかしいことでゴザイマス。

 そう言えば方舟は、いつお邪魔しても「綺麗に散らかって」いたな。無造作に機器やパーツが放り投げてあるように見えて、実はきちんと整理されていた。前列と後列の椅子の間に置かれた机の上も、ゴチャゴチャと物が置いてあるようだが、機能的に整理してあったし。

 オーディオは人なり、それは部屋の雰囲気も包括してのことだったわけだ。同じ家でも住む人によって明るくなったり暗くなったりすることがあるのだから、その伝で行けばオーディオルームも同じことだろう。方舟の雰囲気、それは長岡先生そのものだったのである。

 ちゅーことは、箱船=僕自身だな。ナルホド、整理ができんのも頷ける。空間認識能力が劣った人間のやることだから、自ずから限界が見えているということ。と言ってグチャグチャ状態を正当化し、しょーがねえんだと嘯いていてはいつまで経ってもきたねえままである。もし、このまま放置すれば、おそらく状況はさらに悪化するだろう。これまでのテンカイではそうだった。さすがにそれは困るので、やっぱり中掃除程度はやっておこう。

 掃除後の状態をいつまで維持できるか、それがまた問題である。

’01/12/25 (火)

お寺の聖夜


 ってのもなんだかヘンである。ま、しかしイワユル一つの年中行事ということで、これもイイだろうと、この辺はいい加減である。お菓子屋のインボーにまんまと引っかかっているというハナシもある。

 今年はどういうわけかフツーのケーキに加えてアイスクリームケーキまで登場してしまった。愚息二人は大喜びだが、親としては腹を壊しゃしねえかと心配するのである。いつもは「美味いものは早くクエ」とばかりに写真に撮るのを忘れるのだが、今晩は蟻どもを制して撮影に成功した。

 晩ゴハンには自家製のピザを食べ一息入れてケーキをやっつけ、そのあと「スターウォーズ・エピソード I 」を見て、めったにないシアワセな気持ちで愚息たちは寝床に入った。25日の朝はお待ちかね、サンタさんからのプレゼントに期待して。

 さてそのサンタさん、ウチのような「異教徒」のところへもやってきてくれるのだろうか。今のところ毎年ご降臨くださっているようだが、ひょっとすると相当な無理を強いているのかもしれない。

 サンタ苦労す。

’01/12/24 (月)

地方の悲しさ


 RR盤コープランドについてもう一日。今日は全トラックのF特を採ってみた。高域に大きな違いが見られる。CDでこの高域の伸びは凄いといえるだろう。概してRRのCDにはこういう傾向が見られるのだが。これは主にffでのブラスとシンバルの強打によるものである。その部分以外では25〜30Hzと50Hzのレベルが僅かに上昇している。全体としてカッティングレベルは非常に高い。

 全曲をきちんと聴いても、やはりこのCDは優秀だという印象は変わらない。ただし、昨日市川さんから「もっと良い録音のものもあります」というメールをいただいたので、この他のタイトルをまとめて買ってみようと思う。大植英次指揮/ミネソタ管弦楽団のシリーズが10タイトルほどRRから出ているようだし。

 それにもう一点市川さんからご指摘いただいたのは、テラーク盤コープランド(長岡先生推奨盤)も非常に優れた録音であるということ。こちらも入手し、きっちり聴かねばならない。何となく聴いただけで「RR盤のほうが好み」なんて書いてしまったのは、僕の認識不足である。誠に遺憾です。

 それはそうとして、僕のような地方在住者にとってこういう情報は非常にありがたいものである。もちろん大阪、京都、あるいは神戸まで出れば結構なCDショップは沢山あるし、高崎氏にお願いすれば迅速な入手も可能だけれど、近所にお店がある状況とはわけが違うのである。これは地方に住む人間にしか理解できない感覚だと思う。何となく「買う」という行為そのものが億劫になってしまうのである。

 情報を得ることで入手に勢いがつくわけだ。これを機に久しくご無沙汰しているCD漁りを再開しないと遺憾なぁ。

 今後もこういう状況から来る勘違い、あるいは事実誤認が多々あることと思うが、その都度ご指摘いただけると幸いである。よろしくお願いしておきたいのである。

 と、ちょっと先回りしての言い訳なのでゴザイマス。

’01/12/23 (日)

ちょっとキケン


 昨日紹介したCDのF特を採ってみたのが上の写真である。時間がなくて全トラック通しては採れなかった。一曲目「市民のためのファンファーレ」のみのF特である。

 40Hzのピークは冒頭のグランカッサ一撃でガバッと立ち上がる。スケールアウト寸前の猛烈なレベルである。思ったより30Hz以下のレベルが低いのは、ひょっとするとゆるやかなフィルターが入っているのかもしれない。いずれにしてもこのピーク、小口径ユニットでの大音量再生はちょっと苦しい、というよりも危険だろう。ユニットの振幅でボリュームが制限されると思う。

 ただし、例えばスワンESIIなどで鳴らしても、さほど音量を上げずに充分な低音感が得られるはずだ。あ、そうか、ウチでも試せるんだった。明日やってみようかな。

 全曲聴いてみた感じでは、二曲目「アパラチアの春」も大変優秀だと思った。ppからffへ移行する寸前、指揮者がグッと踏ん張る気配がしっかりと入っている。その瞬間、超低域がふわっと出てくるのである。これはヒジョーに気持ちイイ。

 RRはちょっとクセのある録音に傾いていた時期があったように感じている。長岡先生が「ダイナミックソフト」で推奨されていた「POMP&PIPES」(RR-58CD)も、確かに優秀録音だと思うが、ハイに独特のクセ(というかRRの個性?)があった。音場もちょっと作ったようなところがあり、やや不自然な感じは否めなかった。

 それがこのCD(RR-93CD)は、昔のRRの音に戻ったようだ。音場も自然で違和感なく聴ける。「昔のRR」とは、AD番号で言うとRR-20番台まで、30番台になって何かが変わったようである。その後どこで元に戻ったか、途中のタイトルを聴いていないのでそれはわからない。

 ともかく、優秀なCDであることは間違いないので、是非ご一聴されることをお勧めしたいのである。

 高崎、市川両氏には深々の敬意を表さねばならない。

’01/12/22 (土)

久しぶりの新譜CD


 高崎素行氏と市川二朗氏によるAB誌上連載「高音質ディスク聴きまくり」。僕は大ファンである。毎号とても楽しく読んでいる。市川氏のクールな評価は大いに信頼できるし、ソフトショップを経営されている高崎氏の評価も非常に頼りになる。今号には炭山氏も乱入されていて、より面白かった。永く続けて欲しい企画である。

 今回紹介されていたタイトルの中で、僕の琴線に触れたのは上のCDである。「コープランド/市民のためのファンファーレ 他/大植英次指揮 ミネソタ管弦楽団」(米REFERENCE RECORDINGS RR-93CD IMS IDC-6824)。前にも書いたように、僕はファンファーレが大好きである。単純なのである。それの新譜、しかも僕はRRの音が好きとくればこれはもう見逃せないのである。

 晩年の長岡先生が推奨しておられたテラーク盤CDは持っていない。箱船に来られた方のものを数回聴かせてもらったことがあるだけである。そんなことだから正確な比較はできないけれど、僕としてはどうもこちらRR盤のほうが好みに合うようだ。

 市川氏も記事中で述べていらっしゃるが、グランカッサの音がかなり違うのである。RR盤のほうがチューニングが低い(皮の張りが緩い)ように聴こえる。音が太く深みがあり、しかも筋金入りでスピード感もある。ブラスは浸透力があり輝かしく鳴り渡るが、やや歪みっぽい感じもある。音場感ではRR盤のほうに分があるようだ。

 「パワーの上げすぎにはくれぐれも注意」と市川氏はおっしゃるが、上げないと面白くないとも言えるので、これは難しいところ。でも、小口径ユニットでボリュームを上げるとちょっと危ない感じ。F特は見ていないが、かなり下までたっぷり入っていそうだからである。

 久しぶりにCDソフトを買ってみて、やっぱり新しいタイトルは良いと思った。ADにウツツを抜かすのも結構だが、CDもどんどん買わないとね。

 ちょっと反省。

’01/12/21 (金)

凄い石屋さん


 MJ誌'02年1月号をぼんやり読んでいたら、広告のページに「自然石で広がるオーディオの世界」というキャッチコピーが目に入った。「ストーンテクノ(野中石材店オーディオセクション)」というお店である。

 曰く「オーディオ歴と、本業の石材加工ともに40年のキャリアを持つ一級技能士が、自らの経験と技術を活かして何でも創作します云々」とある。その広告には黒御影石製鏡面仕上げJBL K2専用ベース、同じくSP-10III用プレーヤーベースなどの写真が載せられている。これはほっておけないぞと、さらによく見ればHPが開設されているようだ。

 いやいや、これがなかなかスゴイのである。僕も上の写真の如く以前から御影石にはお世話になっているが、依頼している先はオーディオマニアでもなんでもない純然たる墓石屋さんである。SP-10III用のキャビネットを御影石で作るというのは前々から考えてはいた。だが、こちらの言うことがちゃんと通用するかどうか、特に寸法精度には一抹の不安があって二の足を踏んでいたのである。

 このストーンテクノさんなら、コチラの妙な注文にも完璧に応えてもらえそうである。しかも、価格が非常に良心的だ。僕がゴチャゴチャ説明するより、ともかく一度HPをご一覧あれ。

 う〜む、おそるべし野中石材店

’01/12/20 (木)

GT離れは


 困難である。既に過去の産物になっていることは充分過ぎるほど認識していながら、このプレーヤーからは容易に離れられないのである。音だけのことなら話は極めて簡単。新しいプレーヤーの圧勝である。それだけではないところに、僕の大きな悩みがあるのだった。

 ヤマハの突然変異体とも言えるGT-CD1最大の魅力とは? それはこのルックスとコンストラクションである。異形のデザインととる人もいるであろうこの特異なルックス。僕には非常に美しく感じられるのである。10mm厚クリスタルガラス製のリッド、船舶用真鍮製スタビライザー、鍛造アルミ製の操作ボタン、8mm厚複雑怪奇な形のフレーム、等々。どれをとっても無垢モノマニアの僕には魅力が大き過ぎるのである。

 写真は友達に作ってもらったSUS製120mmΦスタビライザーである。CD全体を抑え込みマスを付け、1bitDACの弱点(低域の弱さ)を補おうという狙いで作ったもの。全身無垢モノの鎧に覆われたようなプレーヤーという流れで考えてみたわけだが、ちょっと重すぎた(260g、オリジナルは160g)ようで、イマイチ狙いどおりには行かなかった。モノとしては凄い迫力なのだが。

 と、極めて捨て難い思いがあるのを自覚しながら、早晩後釜に席を譲ることになるのだろうと思う。友達の助言によれば、CD専用機ではなくハイサンプリング、ハイbit、SACDにも対応した信頼性の高いトランスポート、またはプレーヤーを入れてはどうか、ということだった。もちろん僕もその提案に何の疑問もない。その通りだと思う。

 「早晩」とはいえ、それじゃ今すぐ、というわけにも行かないのがカナシイところである。昨日も「来年はあまり変更しない」と書いたばかりだし、CDプレーヤーはじっくり行くことにしよう。

 ホントはね、早く何とかしたいんだケド。

’01/12/19 (水)

無一物中無尽蔵


 時の過ぎるのは速いもので、今年もあと10日あまりで終ろうとしている。顧みるに今年の箱船オーディオは変更に次ぐ変更で、良く言えば進化著しい、冷静に考えると落ち着きのない一年だった。

 それは当然再生音にも大きく反映されている。基準になる音が何処かへ飛んでいってしまった感じは否めない。ただし、僕自身の音の好みが根本的に変わってしまったわけではないし、以前の音を捨ててしまったわけでもないので、これから先の使いこなしでやるやかに再構築されていくだろう、というのは僕の希望的観測である。

 考え様によっては、何年かに一度こういう時期があっても良いと言えるのだろう。ある一定の状態で永く固定することはもちろん重要なことだが、向上を狙って変化させてゆくのもまた重要である、と。サブタイトルに「いつまでも実験レベルを脱却できない」と謳っていながら歩くのを止めてしまっては「看板に偽りアリ」になってしまう。向上を狙ったつもりが実は向下してたりするのを「実験ですから」と言い逃れないようにしなくちゃ。

 来年は出来るだけ変更を少なくしたい、というよりも変更の必要はあまりないだろうと思う。それよりも、現状での使いこなしと調整が大切になるのである。細かい部分では、まだまだ追い込んでゆきたいことが山のように溜まっているのだ。

 僕はバカボンのパパと同じように、思いついたことも一晩寝ると忘れてしまうので、何か気が付いた時にはメモをするようにしている。それを箱船の壁にピンアップしておくわけだ。これが全部実現できる時、また年が変わる頃になっているのだろう。そうするとまた次の問題が出てきて....。

 いつまでたっても終らないオーディオ無間地獄。始まりが終わりで終わりが始まりである。表のつもりがいつの間にか裏になっていたというメビウスの環状態。A=A、非A=非Aでありながら、A=非Aとも言えるパラドックスの中にこそ真理があるというオーディオは、実に禅的なのであった。

 「無一物中無尽蔵 有花有月有楼台」(むいちもつちゅうむじんぞう はなありつきありろうたいあり)。

’01/12/18 (火)

冬のAD


 夜、箱船1階へ入りファンヒーターのスイッチを入れると、その時点の室温が表示される。午前0時、室温は13℃である。ヒーターの温度計だからわりといい加減だケド。外気温は0〜1℃くらいだろう。今日初めて入る箱船だから、それからすると暖かい室内といえるのかもしれない。

 不在の時、ファンヒーターやエアコンは当然OFFにしてあるが、オーディオ機器はほとんど電源を切らないので、その予熱でほんのり暖かいということもある。

 ただし、箱船は常時換気である。スクリーンを掛けてある壁の左下と、その対抗面(ADラックを置いてある壁)の向って左上にある二ヶ所の換気孔は、いつもフルオープンである。床スレスレと天井スレスレに換気孔を設けることで気圧差を利用して自然換気を狙ったわけだ。

 おかげで酸欠の心配はないが、常に空気が吹き抜けているので冬は足元が非常にちべたい。だったら開閉式になっている換気孔を閉じればいいのだが、なんとなく気色悪いので季節に限らず開けっ放しである。そういう状況でありながらこの時期室温13℃を維持できるのは、やはり箱船の断熱が良いおかげ、ということになるのだろう。

 これが2月中下旬、寒さがいちばん厳しい頃になると、室温フタケタ台を維持するのが難しくなってくるのである。ギリギリで10℃、二日間ほど部屋に入らずにいると8℃くらいになることもある。こうなると、いちばん割を食うのがAD再生である。

 室温はわりとカンタンに上げることができるが、カートリッジそのものの温度はそう簡単には上がらない。盤面温度も同様である。実際、冬に聴くADの音は、どうもイマイチであることが多い。痩せ気味で潤いがなく、どことなくカサカサしたような音である。んじゃ暖めりゃあいいじゃんとヒーターの前に持ってきたり、ドライヤーであぶったりしては、絶対にイケナイのである。当たり前なんだな。

 それなればとファンヒーターとエアコンをオーディオ機器同様につけっぱなしなどしたら、僕は電気料金だけでクビをくくらなければならないのである。それはやっぱり困るのである。

 箱船で良い状態のAD(と言ったって大したこたぁありませんが)をお聴きになりたい方は、是非とも4月下旬〜5月下旬、或いは10月いっぱいくらい、ヒーターもエアコンも必要ない時期に御出でください。冬はキビシイです。

 今年はこの時期にげんきまじんさん、M85さん、AKAIさん、とんぼさん、てんてんさん、Raioさんたちが御出でになった。

 そういえば、長岡先生に御出でいただいたのもこの時期だったなぁ。

’01/12/17 (月)

オーディオは人なり


 友達からもらってしまったMDP-999。現用機に代わってそのままメインLDプレーヤーの座についてしまった。僕の999が不調のせいもあるのだが、実はそれ以上の理由があるのだ。

 画が綺麗だから。これでキマリである。もらった999はとても画が綺麗なのである。これに比べると、僕のものはカラーノイズがやたらと多い。中間色、特にピンクや水色などでは圧倒的な差になって現れるのである。色の境目で気になったチリチリ感も非常に少なく、音に喩えて言うならば、歪み感が極少という感じ。

 LDなんだから仕方ないと諦めていた部分、実は僕の999がへたばっていたのがコトの真相だったのか? 否、そうとばかりも言えないような気がする。

 AもVも含めオーディオ機器というもの、使い手によって同じモデルでもまったく別物のようになってしまうことは、珍しいことではない。この999もそういうことではないのか。前オーナーの友達は、僕なんかよりずっと優れた感性を持つオーディオファンである。かくある人から丁寧に使われてきたものであってみれば、やはりそういう機械になるのである。100%がそれだけで決まるとはもちろん思わないけれども、音や画を決定付ける大きなファクターの一つだろう。

 翻って僕の999。かわいそうに僕みたいなヤツに使われて、今やカスカスである。不憫である。如何にも不憫過ぎるので、何とか修理だけはちゃんとしてやろう。でも、一度ついたヤバン癖は、もう二度と抜けきらないだろうなぁ。ああ、なんてことをしてしまったのだ、などと言ってみても仕方ない。それが僕のオーディオなんだから。

 もらった999、これは大切にせねば。不用意にガシガシ使ったら、またカスカスのヤバン999になっちゃうよ。

 これもくずてつ菌感染症である。極めて遺憾です。

’01/12/16 (日)

この冬も


 こういうことになるのかな。写真は今日、ではなく今年の一月、1m弱の大雪が降った時のものである。

 今日の京都行きは、やはり辛かった。午前6時前、大江山を越える峠道は積雪こそさほどではなかったものの降雪がメチャクチャで、例によって視界は3m以下。すぐ前を走る車の姿が見えない。側溝にはまった時の悪夢が頭をよぎったが、どうやら無事だった。スタッドレスタイヤに替えておいてヨカッタ。

 猛烈な降雪は、峠を下り切るとウソのように止んでしまった。福知山市内に入ると路面はカラカラ、さっきまでのことが夢のようである。こうなるとどうにも不公平感が拭えないのだ。文句をつけても詮無いことだけれど、ナンデこっちはこうなのよと、恨み言の一つもいいたくなるのである。

 京都で所用を済ませ、とんぼ返りで帰途につく。帰りの峠もよく降っていたが、未明と違い明るいので楽だった。とは言えインターバルなし雪道含有往復300kmは、ちょっとくたびれました。今夜は早く寝ましょうね。

 明日は少しでも天気の快復を望みたいところだが、オホーツク海にある低気圧は972hPaと未だ強力である。コイツが東へ抜け切らないうちは、まだまだ雪が続きそうだ。

 これはまだ始まりに過ぎないことを、忘れてはイケナイよ、と。

’01/12/15 (土)

日本海は


 季節風の吹き出し口に伴う筋状の雲に覆われている。典型的な冬型の気圧配置である。こうなるとコチラ方面はもうイケナイ。今朝から冷たい雪降りである。これが今年の初雪になるが、そのわりには降り方が本格的だ。明朝は少し積もるかもしれない。

 困ったことである。明日(12/15)は早朝出発(午前5時ごろ)で京都市内へ出かけなければならないのだ。うーむ、イヤだなぁ。また今年の3月みたいにハマったらどうしよう。だから冬はキライなんだってば。

 今日はさすがに寒かった。朝0℃、日中2℃、夕方1℃。最高気温2℃である。これからしばらくはお客様をお迎えするのも躊躇われる。ロケーションとしての雪景色は、それなりに美しいのでお目にかけたい思いはあるのだが。イノチ懸けではシャレにもならん。

 箱船も冬篭りである。

今日の画像は高知大学 気象情報項からお借りしました。ありがとうございます。

’01/12/14 (金)

ヤバン好き


 以前は映像再生の中心的存在だったLDプレーヤー SONY MDP-999。いまではその座をすっかりDVD-H1000に奪われ閑職気味である。そのせいかどうか、どうも調子が悪くて困っている。ディスクを入れてトレイを閉めプレイボタンを押しても、何かが擦れているような異音が出てうまく読まないのである。もちろん画も音も出ない。オープンボタンでトレイを開け、何度か出し入れを繰り返すと何かの拍子にうまく読み込むこともある。不安定なのである。

 この辺のグワイがちゃんとサービスセンターに伝わっていないのか、或いはたまたまこの症状が出なかったのか、なかなかうまく直ってこないのだった。

 同じ999を使っていた友達に話を聞くと、光学ピックアップブロックを送っているギアの噛み合せに問題があるらしいことが分った。今度修理に出すときは、それを指摘しておかないと遺憾。自分でもちょっと覗いてみようかな。

 このアドバイスをしてくれた友達から「999を手離すのでいらないか」というメールが来た。ちょうど僕の999は上記の如くに不調なので、渡りに船である。是非譲って欲しい、いかほどで、というと「あげる」という。へ? 「あげる」ってねぇ、アナタ。如何に古くなったとは言え当時28万円、30.3kgの大物ですよ。そんなもんカンタンにもらっちゃって良いのか知らん、というと「イイ」というのでもらってしまった。上の写真がそれ。

 ありがとうございました。大切に使わせていただきます。

 もらった999は極めて快調なので、これをメインに据えて現用の999はもう一度修理に出そう。

 皆さんは今さらLDでもないだろうにとお思いでしょう。画に関してはまったくそのとおりである。DVD圧勝。しかし、こと音に関しては捨て難い魅力がまだLDにはあるのだった。DVDヴィデオの音も近年飛躍的に良くはなっている。だが、低域ののクソ力、中域の張り出し、高域の切れなど、LDにはまだ及ばない部分がある。

 ヤバンな音が好きな僕としては、もうしばらく999を手放せそうにないのである。でも、二台持ってるヒトなんて、そんなにいないだろうな。アホです。

’01/12/13 (木)

冬枯れ


 箱船脇の柿の木は、もうすっかり冬枯れである。日が暮れてから撮った写真なので、イマイチ不鮮明なのは恐縮でゴザイマス。なんだかユーレイでも出てきそうな画になってしまった。

 冬枯れは特に珍しいものではなく、落葉樹ならみんなこのような姿になるわけだ。でも僕は、毎年これを見るたび、生命(いのち)の不思議さを感じずにはいられない。当たり前のことながら、この木が来年の春にはまた新しい芽を吹き、青々とした葉を茂らせるのである。

 この姿を見ていると、如何にも寒々とした季節を感じてしまうが、今のところ冬のわりに好天が多くて助かっている。昨年の日誌を顧みれば12月11日に初雪が降ったと書いてある。今日は既に13日、未だ今年の初雪は見られない。

 僕が丹後へやってきて13年、冬の初めに好天が続き初雪の遅い年が幾度かあった。そういう年に限って1月下旬から2月下旬の間一ヶ月、洒落にならない大雪が降るのである。どうやったってこの地方、一冬に一度は1mコースの大雪はあるわけだが、今年はそれを上回る雪になるのではないかと今から戦々恐々としているのである。

 僕はやっぱり冬が、とりわけ雪がキライである。寂しそうな柿の木を見つめながら、大雪になりませんようにと願ってみるのだが、やっぱり降るんだろうなあ。

一回目の山は、クリスマスの頃か。

’01/12/12 (水)

結果の成否


 更新が遅れました。

 昨日(12/11)の夜は愚息の通う小学校で、PTA主催の講演会があった。嫌がるものをムリヤリ「PTA教養部長」などというものにされてしまい、昨晩の企画は全て僕が立てなければならない立場だったのである。ともかくも盛況理に終り、ヤレヤレである。ヨカッタヨカッタ。

 講演のタイトルは「いま、親はどうあるべきか〜子は親を見て育つ」というもの。話をしてもらった講師は、何を隠そう僕の実父である。コレは何もそうでなければならなかったわけではない。準備を怠け講師選定に行き詰まり、ハタと思いついて頼んでみたらOKだったというだけ。ムカシから教育関係の講師に呼ばれていた事を思い出したのである。

 永く教職にあった父は家の中でもやはり教育者であった。ただし、いわゆる人生訓話の類を聞かされた憶えはない。どちらかと言えば情操教育にウエイトが置かれていたように思う。

 原稿用紙を分厚く閉じた自作日記帳を手渡され「毎日書け。表現力を豊かに持たねば遺憾」と厳命されたり、或いは、昭和40年代初め、まだレコードがかなり高価なものであった時代に「クラシック名曲選集」という数十枚セットを突然買い込み「こんなものも聴いとかんと遺憾。聴きなさい」と言ってみたり、「同じ聴くならいい音で」とセパレートステレオを買ったり。

 結局僕は自分にとって都合のいいところだけを選って、今のようなオーディオ好きのグータラオヤジになってしまったわけだが、曲がりなりにも毎日文章を書いているのは少なからずそういう教育の結果(なれの果て、ともいう)であるのかしらん?

 父の教育が失敗だったか成功だったか、それはその作品であるところの僕には良くわからない。とりあえずこうして平穏に暮らしていけることを考えれば、大成功でもないが大失敗でもないと言ったところだろうか。なんだか僕のSP工作みたいだケドモ。

 上の画像は父の著作「大人を見て育つ子に何を教える」である。

’01/12/11 (火)

こだわって8年


 困ったときのソフト頼みで、ADを一枚。「John Sharp/Better Than Dreams」(米REFERENCE RECORDINGS RR-54)である。(P)(C)1993、ディジタル・プロセスの入らないピュア・アナログ録音であると謳ってある。尤も、RRのADはすべてそうだが。

 同じタイトル、内容のCD(RR-54CD)も出ている。こちらはDDDで録音はまったく別物。聴感上の音もF特もゼンゼン違う。曲によってはテイクも違うようだ。演奏だけで言うならCDのほうが良いのではないかと思う。

 買ったのは'93年12月18日、本家方舟へお邪魔した帰りに秋葉原の石丸電気で見つけたものだ。この頃はまだRRも新譜ADが沢山あり、持っていないものは大喜びで全て買って帰った。このレコードは、そのうちの一枚である。

 内容はジャズ寄りの軽いフュージョン、特に珍しいものではない。BGMにもどうぞという感じのアクの少ない音楽である。長岡先生なら絶対取り上げないだろうと思う。

 録音は凄い。超低域から超高域まで、しっかりと音が入っている。特に高域の伸びはすさまじく、16kHzよりも20kHzのほうがレベルが高いのだ。僕のスペアナでは20kHzまでしか見られないが、形から想像するにもっと上まで入っているはずである。

 音色にはRR独特のクセがある。しかし再生は難しい。高域の特性を伸ばしているのは主にシンバルなのだが、これが曲者。盤とカートリッジの接触角度が僅かに違うだけでひどく音が変わるのである。ヘタに再生すると、シンバルの頭がクリップしたように潰れてしまい、聴くに耐えない音になるのだ。

 特にMC-L1000は敏感で、初めて再生したときはヒドイことになってしまった。それから今に至るまで8年間、このレコードの高域を綺麗に再生することにこだわってきたわけだが、未だに完璧とは言えないような気がする。このレコードが優秀録音かどうか、それは何とも言えないが、僕は高域の再生状況を確かめるため、テストレコードのように使っている。

 このADをL1000とHELIKONで聴けば、何を聴くより両者の違いがはっきり分ってとてもオモシロイのである。そういう意味では「優秀録音」といえるかもしれない。

’01/12/10 (月)

悩み多きポストGT


 AB誌の取材で試聴させてもらった、ティアックVRDS-50である。いよいよご老体となったGT-CD1(以下GT)の後釜には何を持ってくればよいのか、その答えを出す参考になればと、炭山さんにお世話いただいたのである。

 試聴の結果はVRDS-50(以下50)の圧勝である。当然と言えば当然の話なのかもしれない。まず、音の瑞々しさがまったく違う。これはもう次元の差であって、エージングや使いこなしで何とかなるようなレベルの話ではない。音に生気とツヤがあるのだ。これに比べるとGTの音は、カサカサしていて立体感に欠け、ダシの利いていないお吸い物を食わされているような感じ。平板なのである。昔よく言われた「ディジタル臭い音」とは、多分こんな音を言うのだろう。

 50は良い意味でアナログっぽい音である。一般的な認識でのアナログサウンドではなく、いわゆる「長岡派的」アナログサウンドである。切れと立ち上がりが良く、しかもしなやかで繊細。音場の見通しが良く、音の重なりグワイが良くわかる。

 なんだかホメてばっかりだが、これは箱船システムで聴いたときの印象であって、条件が違えば印象は一変するだろう。甘めに調整されたシステムで聴くと、やや寝ぼけた音に聴こえてしまう可能性はあると思う。特に低域はやや柔らかく出てくるので、不満が出るかもしれない。箱船システムは超激辛調整なのである。

 こんなに良い結果が出たにもかかわらず50を導入しなかったのは、それ以上にC-AX10の魅力が大きかったからだが、もう一つは、GTをトランスポートとしAX10のDACを使うことで最新ディジタルの恩恵を享受しようという目論見もあったわけだ。ところがこれは50に入れ替えた時ほどの劇的効果はなかった。

 確かに音は良くなるのだが、思っていたほどの差はない。CDの音を決めているのは、決してDACのみではなかったわけだ。送り出し側の精度、あるいはクロック同期などの点にも問題があるのだろう。話はそんなに単純ではないのだった。

 こうなると結局CDプレーヤーそのものの交代を考えざるを得なくなるのである。ここでまた問題アリ。繋ぐ相手はディジタルプリのC-AX10。本体DACか、プリのDACか、どっちを使うのだ? 本体DACを使ってプリのアナログ入力に入れると、D/A、A/D、D/Aと三回の変換を経ることになる。プリのDACを使えばD/A一回だけ。どう考えてもD-Dでつなぐのが順当である。けれどもそうなるとプレーヤー本体側のDACは無用の長物と化し、無駄なことこの上ない。

 いちばん無駄がないのは優秀なCDトランスポートをいれることだろう。P-0s? ンなバカな。それこそ分不相応、無駄の極みである。C-AX10には何の不足もないけれど、こういう悩みが生じるとは見込みが甘かったわけである。

 そこでパイオニアさんに注文。ドライヴがしっかりしていて筐体が頑丈で、デザインが良くて重量が20〜30kgくらいあって、価格は30万円くらいまでのCDトランスポート出してください。

 ダメかな。

’01/12/09 (日)

いつでもブーツ


 僕は基本的に身なりにはあまりこだわらない。と言うより、ファッションセンスがないのである。普段家にいるときは、キッタネェ作業ズボンに、これまたウスラ汚れたトレーナーという、風采の上がらない格好で過ごしている。

 では、出かけるときはどうかといえば、これがまた決してこぎれいとは言えないジーパンに、夏ならTシャツ一枚、冬はトレーナーにダウンジャケットと、一向に構わないのである。服飾に金をかけるくらいならその金でオーディオしてしまうということもある。

 こんなふうだが、一点だけこだわっているものがあるのだ。ブーツである。ウエスタンブーツが好きで、中でも丈の長い刺繍入りのブーツにはヒジョーに惹かれるものがある。はっきり言ってヘンなやつである。流行などとはまったく無縁のウエスタンブーツ、こんなの欲しがる人ってそんなに多くないみたい。

 あればあっただけ買いたいほど好きなのだが、如何せん地方在住の身、この辺りの靴屋さんで見かけることはほとんどない。ところが。

 先日、ちょっと用事があり峰山町のショッピングセンター(くらいはあるんです)へ出かけた折、靴屋さんの前を通りかかると、あっ、なんということだ。ありましたのですよウエスタンブーツが一足だけ。それが上の写真。

 刺繍デザインにやや品がなくちょっと文句はあるのだが、モノは良さそう。もちろん本皮製、つくりは非常にしっかりしている。

 だが、いくら欲しいと思ってもサイズが合わなければどーしよーもない。ウエスタンブーツは海外製が多いので、概して大きいサイズ中心の品揃えである。そこへもってきて僕はいわゆる「マヌケの小足」である。サイズ7(24.5cm)〜7 1/2(25.0cm)でないと履けないのだ。

 多分「各サイズ取り揃え」なんてことは絶対に無く現品限りだろうから、大きなサイズだったら諦めなければならない。手にとってサイズを確認すると、「7EE」とある。こりゃぴったり。試しに履いてその辺を歩き回ってみたが、問題はない。お買い上げ、である。

 実に履き心地が良く、すっかり気に入ってしまった。これの前に履いていたブーツはかなりくたびれたので、もう一足くらい欲しい。今回はたまたま近所で見つけたけれども、おそらく安定供給はムツカシイだろう。

 そこでネット検索をかけると、あるんですねぇ、これが。どうもその筋のマニアってえのがこの世界にもいるらしい。輸入品がほとんどなので、やや品薄の感じはあるものの、すぐにでも買えることがわかって大喜びである。

 切株、ソリッドな金属モノ、ウエスタンブーツ。僕のアタマの中ではどれも同じセンサーが反応している。どこかでつながっているらしい。

 考えてみれば、どれも「重い」かな。

’01/12/08 (土)

182


 この本を買ったのは'88年2月19日、その日から僕のA級外セレADの蒐集が始まった。今も継続中である。先日、また新たに数タイトル入手できたので、それを機会にこれまでに揃ったタイトルを改めて数えてみることにした。A級探して14年、どれだけ集まったかな?

 第一巻63タイトル、第二巻67タイトル、第三巻52タイトル。全300タイトル中182タイトルが手に入ったわけだ。ゲット率60.6%。これが14年間の成果、まさに牛の歩みである。これから先も少しずつではあるが増えていくだろう。だが、全タイトル手に入れることはおそらく不可能だと思う。

 超マイナーレーベルの、しかもダイレクト盤など、おそろしく入手困難なタイトルが含まれているからである。絶対数が圧倒的に少なく、はっきり言って諦めている。残念だが仕方がない。

 コレクター的観点からすれば、掲載全タイトルを揃えることは大いに意味のあることだと思う。僕自身、それにこだわる部分もあるのは確かである。けれども本当に大切なことは、これらのレコードを通して本物のオーディオとは何かを知り、それを自己のシステムパフォーマンス向上に反映させていくことではないのか。或いは、この本をきっかけに自分の足で優秀なレコードを探す楽しみを発見してほしいという長岡先生の思惑もあるに違いないのである。

 第一巻の巻頭言には次のようにある。

 「今回の100枚は筆者のベスト100ではない。ベスト500の中からランダムに取り上げた100枚、というように考えてほしい」

 方舟コレクションのうちに限定しても優秀盤500枚。つまり、市場には数え切れないほどの優秀録音盤が未だ眠っていることの証明である。

 「長岡関連レーベル」などとたわけたことをノタマい値を吊り上げる輩もいたりして年々入手困難になって行くADだが、それでも僕はA級外セレと併せてそれ以外の優秀盤も捜し続けて行きたいと思う。

 レコードは「集めるもの」ではなく「聴くもの」だから。

’01/12/07 (金)

肥やし


 11月26日の日誌に書いたドングリのその後。水脱脂綿ではいよいよ苦しそうになったので、小さな植木鉢に土を入れ、植え替えをした。水だけとは違い、土の力はさすがに大きい。なんとなくヒョロヒョロしていた新芽だったが、全体に力感が出た、ように見えるのは気のせいかしらん?

 水しかもらえない状況にヘソを曲げ、芽を出すのを途中でヤメそうになっていたもう1個のドングリも、機嫌を直して再び生長を始めたようである。ヨカッタヨカッタ。

 土は植物の生長に欠かせない養分を含む、極めて大切なものである。「コヤシ」を含んでいるわけだ。最近では「水耕栽培」といって、必要な養分を溶かし込んだ水だけで栽培した野菜なども市場に出ているそうだが、野菜に昔のような独特のクセがなくなったのはそういうことの結果でもあるのだろうか。イガイガで苦いキュウリ、お日様の匂いのするトマト、皮の硬いナスビ、ムシのフンがついたキャベツなどにはついぞお目にかかれなくなった。

 オーディオにとっての「欠かせない養分」とは何だろう? 電源? これが無ければ動かないわけだから、確かに「養分」と言えるかもしれない。しかし、良い音にするための「養分」となると、それはやはり「使いこなし」と言うことになるのではないか。

 肥やしはやり過ぎると木や作物を枯らしてしまうように、使いこなしもやり過ぎは禁物である。ヘタをすると機器を壊してしまったり、もっと悪くすれば生命に危険が及ぶことも無いとは言えない。

 重りを載せ過ぎてアンプを壊してしまった話、床が抜けてしまった話、配電盤からアンプまで直結にしたせいで電源を入れるたびにブレーカーが落ちる話、ヒートシンクをダンプしすぎてケムリが出た話。僕はあんまり笑えない。

 ちょうど「いい加減」のところを見付け、「良い音グラフ」の曲線が最大値に達する寸前のところでヤメておくのがいちばん良いと思う。その頃合を自知するのはなかなかムツカシイのである。決して自慢できる話ではないが、僕自身いい加減のところが見つからず、どこまでも力で押して相当コワい思いをしたことがあるのだ。アホである。ひょっとすると今でもやり過ぎているのかもしれない。アホは直りません。遺憾です。

 ドングリもオーディオも、肥やしを遣り過ぎて枯らさないよう気をつけなきゃイケマセン。

’01/12/06 (木)

初めて聴いたのは


 A級外セレ第三巻252番「KIRK NUROCK/Natural Sound」(外セレ紹介では米MODE LAB13 原盤は米LABOR LAB13)である。このレコードにはとても懐かしい思い出があるのだ。'89年7月23日、初めて方舟へお邪魔した時、聴かせていただいたレコードのうちの一枚なのである。今、ようやく手に入れることができた。

 一番目がボストンのファースト、二番目がBISのクロウマタ・パーカッション、Nonesuchのワールドサキソフォン・クヮルテットが三番目、このレコードはその次四番目に聴かせていただいたと記憶する。

 方舟の音を聴くことさえ初めてのこと、しょっぱなの音ですっかりノックアウトされたところで聴いたこのレコードの音(と言うより音場)には、ただもう馬鹿みたいに口をアングリと開け、唖然とするより他にはなかった。

 異様なのである。ブキミなのである。左右のネッシーの間に本当にヒトがいて、そこで歌っているようにしか聴こえないのだ。どう聴いてもそこにヒトがいる。そういう気配がするのである。

 これはもうオーディオではない。オーディオ以外の何かもっと凄いモノを、僕は今聴いているのだと思った。或いは、これを以ってオーディオと称するのならば、僕がそれまで聴いていたもの、そんなもんはオーディオでもなんでもなかったのである。カスである。目からウロコが三万枚くらい落ちたと思った。一体自分は何をやってきたのだ。何をどのように鳴らし、聴いてきたのか。オーディオの可能性は無限だったことに、この時気がつくのである。

 それから12年半。僕は箱船でこのレコードを聴く。それなりにいい音で鳴っているとは思う。けれども、あの時聴いた音と音場にはまだまだ遠く及ばない。ブキミさがまったく足りないのである。方舟で聴いたものが「生」以上の「生」だとすると、箱船ではただの「オーディオ」である。気配や体温が感じられない。実在感が希薄なのである。

 このレコードを聴いて初めて気がついたわけではないけれど、僕のオーディオはまだまだのようだ。当たり前である。ホンモノのオーディオに出逢って多寡だか12年、そんなことで全て見切ってしまえるようなものならば、それは趣味とは言えないのである。

 さっきやり始めたばっかりですよ、と。

’01/12/05 (水)

雪の予感


 今日(12/4)は好天だったが、一片の雲もなくというわけには行かず冬の雲があちこちに浮び、雪の到来がそんなに遠くないことを予感させる日だった。上の写真は午後5時頃、箱船2階から南西の空を撮ったものである。山の向こうに雪を降らせそうな雲が少し見えている。

 先月、冬の夜明けは嫌いではないと書いた。同じく天気の好い日の夕暮れ時も好きである。夜明けとは違い、なんだかノスタルジックな、何かしら昔の懐かしい出来事を思い出させるような、少し物悲しいような、その感じがとても良い。

 本当に日が短くなった。今年の冬至は12月22日である。つまり、今ごろから1月半ばまでくらいが一年のうちで最も日が短い時期になるわけだ。個人的には夏至の前後一ヶ月くらいの季節が一番好きだが、考えようによっては冬至前後も悪くはない。

 たとえば箱船に仲間が遊びに来てくれた時、夏至の頃だと音を聴いているうちあっという間に夜が明け、如何にもゴキブリ生活をやってしまったという後ろめたさがあるわけだが、今頃だと午前4時でもまだ真っ暗ケ、それから寝ても「夜、寝た」という感じがして、世間様にも顔向けができようと言うものである。 ...これってムチャクチャ我田引水。

 冬の夜は長い。これで雪さえ降らなければ、どんどん遊びに来てもらい、気分的にもゆっくりできるのに。

 毎冬、残念に思うことの一つである。

’01/12/04 (火)

スタンダード


 この季節になると決まって街に流れる「クリスマス・イヴ」。山下達郎の、すでに定番クリスマスソングである。しかし、僕にとっては、クリスマスを連想させるというより懐かしさのほうが先立ってしまう曲なのである。

 何年前からこうなったのかと思いCDを調べたら、この曲が含まれている彼のアルバム「Melodies」は1986年の発売である。もう15年も前なわけだ。そりゃあ懐かしいはずだな。僕はまだ西宮でヒラヒラと遊んでいた頃だもの。

 僕は元々山下達郎の大ファンである。シュガーベイブの頃から聴いているが、どちらかといえばソロになってからのほうがより好きだ。'82年の「FOR YOU」、この「Melodies」、'89年の「アルチザン」、最新作(といっても'98年)の「コージー」、これらは愛聴盤である。

 残念ながら録音はどれもあまり良くない。録音で聴くものではないから、これでいいのだ。と言っても、もう少し録音がよければもっと楽しめるだろうにと、ちょっと惜しい。

 「アルチザン」と「コージー」は、その中でやや良いほうに入ると思う。あくまでも「その中では」の但し書き付きではあるが。「FOR YOU」はAD、CD両方持っているがどちらも録音は良くない。

 山下の音楽が好きで聴いているはずなのに、気が付くと録音がどーのこーのとムツカシイことを考えている僕は、やっぱりオーディオマニアである。こんなことだから、「長岡派は音楽を聴かず、音ばかり聴いている」なんてコト言われるんだ。

 遺憾なぁ。

’01/12/03 (月)

予告なしの変更


 オーディオ機器、パーツの細部が知らないうちに変更されるのは特に珍しいことではない。いわゆる「予告なしの変更」というヤツである。取説やカタログにも「予告なしに仕様を変更する場合があります」と、ちゃんと明記されている。

 写真は左右とも僕が6N銅単線を使った自作コードに使っているピンプラグ、WBT-0108である。コレットチャックを実現する外側のスリーブを取ったところ。左右の違いにお気付きだろうか。

 左は'98年に買ったもの、右は昨年買ったものである。プラグのホット端子にご注目いただきたい。左は先端が四分割されているのに対して、右は二分割である。

 分割し先端をやや開き気味にすることで、接触面積と嵌合強度の増大を狙ったものだと思う。では、どこまでも分割を増やせば良いのか。そんなことをすればプラグ自体の強度が取れなくなる。両刃の刃とも言えるわけだ。しかし、四分割と二分割での単純比較では前者のほうが有利であるはず。なぜ変更されたのか僕には分からないが、少しばかり残念である。

 実際ピンジャックに差し込んでみると、左タイプのほうがしっくりくる感じである。バッチリ嵌まってガタがない、という感じ。右はほんの僅か、嵌合の甘さを感じる。

 販売代理店がパイオニア・インターナショナルからティアックに変わったときに仕様変更があったらしい。これはもちろん代理店のせいではなく、WBT社の事情によるものであろう。二分割になったからといって、このプラグの素晴らしさに些かの不満を持つものではないし、これが原因で音が悪くなったということもない。だが、細部へのこだわりをWBT社が捨てたのは、ちょっと惜しいと思う。

 WBT-0108の取説には次のようなくだりがある。

 「RCAピンジャックの(アース側)外径は、7.95〜8.55mmの間でバラついています。そのため通常のプラグではガタツキが解消されませんでした。WBTではピンプラグにコレットチャック方式を採用することで、その問題を解決しています」

 これほどディーテイルにこだわるWBT、できれば今後は性能向上を狙った「予告なしの変更」をお願いしたいのである。

’01/12/02 (日)

三枚組でお買い得


 すでに輸入盤をお持ちの方には珍しくもないけれど、ともかく国内盤が発売されてうれしいDVD「もののけ姫」(ブエナ ビスタ ホームエンターテインメント VWDZ-8010)である。僕が好みそうな新譜が出るたび必ず御用聞きに来てくれる近くの電器屋さんに、一昨日注文しておいたら今日届いた。速いのである。

 本編ディスクに特典ディスクが2枚付いて合計3枚組4,700円はお買い得である。ケースが分厚いので、間違ってヴィデオソフトが届いたのかと思ってしまった。

 内容は皆さん良く良くご存知のことと思うので省略。LD時代から音も画も優秀だったが、DVDになって画は更に美しく、でも音はやっぱりLDのほうが良いように感じた。

 シャープで明るく、色数も非常に多い。何よりもLDでは気になったカラーノイズが全くないのはヒジョーにうれしいのである。この辺はもう、DVDの圧勝である。僕の場合、LDプレーヤーがMDP-999だったので、余計にそう感じるのかもしれない。

 インターレース、プログレッシヴ、どちらで見ても非常に綺麗である。現状一番大きな画角で見られる16:9ビスタサイズ(いわゆるスクイーズビスタ)であることも有利だ。やっぱりシネスコープサイズは隙間から覗いているような感じがして、あまり好きではない。あれは横長ではなく、縦狭だなゼッタイ。

 特典ディスク、これはあまり必要なモノとも思えないので、本編ディスク1枚で2,000円くらいにしてくれたほうがうれしいのだが、そういうワケにも行かないのだろう。

 いずれにしても素晴らしいDVDソフトだと思う。背景の美しさと描きこみの細かさがウリの宮崎アニメ、DVDになって益々絶好調である。

’01/12/01 (土)

ちょっとした対策


 早くも12月である。いよいよ冬本番である。厭なのである。ああ、ユーウツだ。

 今日の写真、一発でアレかと見破る人はあまりいないのではないかと思う。ごめんなさい、写真に撮ったらなんだかわけ分らなくなりました。

 これは僕がアンプやプレーヤーの底板とラックの隙間に差し込んでいる、フェルトである。ウラはシールになっていて、貼り付けることも可能。本来は自由な形に切り、椅子や机の脚に貼り付けて使うものだ。入っていた袋を捨ててしまったので品番を失念したが、メーカーは接着剤で有名なセメダインである。ホームセンターや東急ハンズへ行けば買えるはず。

 これを使うようになったきっかけは、長岡先生の「ダイナミックテスト」中の記述だった。FMfan'95年3号('95年1月11日発売号)のダイナミックテスト第597回で取り上げられているオンキョーのCDプレーヤー、C-1E Ver.2(180,000円)の評価記事中には次のように書いてある。

 「このプレーヤーは脚が薄いので、底板とラックの間が狭い。狭いすきまでは空気が閉じ込められ、共振を起こしやすいので、フェルトをはさむ(プレイヤーとは非接触でよい)と音質向上につながるそうだ」

 同じ年のダイナミックテスト第603回(FMfan'95年9号)にも、同社のフォノイコアンプH-1E(120,000円)の評価記事中に同じような記述がある。これらの記事を読み、それならどんなアンプやプレーヤーでも、ある程度の効果はあるだろうと適当なフェルトを捜していて見つけたのがこれだった。

 元の大きさはA4版(210×297mm)である。1枚600円くらいだったと思うが定かではない。多分捜せばもっと大きなものもあるはずだ。これを機器の底板に合わせて適当な大きさに切り、ラックと底板の間に置いておくだけ。貼り付けたりしないほうが効果は大きいようだ。

 効果絶大、とまでは行かない。なんとなく透明感が増し、細かい音まで鮮明に聴き取れるようになる、という方向への変化があるようだ。決して音が鈍る方向ではないので、やってみる価値はあると思う。実に安く、カンタンな対策だし。写真はベージュ色タイプだが、どういうわけか白いタイプのほうが音が良いような気がする。ナンデカナ?

 このフェルト、長岡先生にもおみやげに差し上げたら、ことのほか喜んでくださった。後日、オーディオアクセサリー誌上で「お薦めアクセサリー」として紹介されていたのには些か驚いた。

 もしこれが「オーディオ用フェルト」なんて売り出されたら、値段は4倍くらいになるのかな?