箱船航海日誌 2003年04月

日々雑感、出来事などを思いつきに任せて綴っていこう

過去の日誌コンテンツ

’03/04/30 (水)

怪しGOLD


 久しぶりに家族で買い物に出かけた。忙中閑あり。目的は愚息1号のコレクション・アイテムであるところの「デュエル・マスターズ・カード」である。知っている人は知っているらしいが、僕には何だかさっぱりワカリマセン。僕らの世代で言えば「べったん」(メンコの関西バージョンです)みたいなモンか。コアなマニアから抗議が来るので、そーゆーことをゆってはイケナイのである。

 愚息がカード選びにヒッシな間、閑を持て余しCDショップへ。碌な品揃えじゃねえなあなどと文句を言いながら「輸入CD1枚980円!」というコーナーを見つけた。そこで買ったのが上のCDである。

 「STIEVIE WONDER〜SONG REVIEW/A GREATEST HITS COLLECTION」(米 MOTOWN 530 757-2)。(P)1996。全21曲、78分41秒収録、しかもご覧の通り「LIMITED EDITION GOLD CD」と銘打って980円はバカ安だと、思わず手が出たのだった。

 「ISN'T SHE LOVELY」「SIR DUKE」「SUPERSTITION」「EBONY & IVORY」など、スティーヴィー・ワンダーの曲だと知らなくても誰でも知っているような曲ばかり21トラック、正にベスト盤である。「SIR DUKE」(邦題は『愛しのデューク』)が大好きで、高校生時代には死ぬほど聴いた。最近ではトヨタ「ノア」のコマーシャルソングに使われていた。昨今、そういう場面で70年代のヒット曲を聴くことが多くなったように感じる。ネタ切れか、或いは僕などと同世代が流れを決めているのか。

 さて、980円で本当にゴールドCDなのだろうか。開けてみると、如何にもアヤシイのである。確かにレギュラーCDよりはやや金色がかって輝いている。だが、ホンマモンゴールドCDに比べると随分薄っぺらい色である。あやしいな〜、コレほんまにゴールドかぁ?

 いやまあ、文句は無いのだ。安いし収録曲は多いし、音もそこそこだし、オマケにこうして日誌のネタにもなるし。CPはヒジョーに高いのである。

 同じようなシリーズにポール・マッカートニーのベスト盤もあった。今度はそれを買ってみようかな。

’03/04/29 (火)

どちらも優秀


 夜のこらえ性が著しく低下しているのは何故なんだろう。格別に疲れているわけでもないと、自分では思うのだが。やはり季節の所為かな。と、責任転嫁しておこう。またまた更新が遅れてしまった。ご容赦を。

 1月10日に載せたaudioquestの「MOKAVE」Vol.1が手に入った。写真はCDジャケットである。ADも同時に買った。CD番号はAQ-CD1006、ADはAQ-LP1006、180g盤である。

 『長岡先生もダイナミックソフトでCDを取り上げておられたと記憶する、のでFMfanのファイルをヒッシで繰るのだが、どーしても見つからない』と書いたが、その後ワガママおやじさんから「FMfan'93年8号に取り上げられている」とご教示いただいた。ありがとうございました。

 記事中、先生は「特にトラック7は抜群でテストにもよく使っている」と書いていらっしゃる。確かにこの曲は素晴らしい。厚み、切れ、トランジェント最高。マルチマイク収録というが音場感も豊かである。最初にCDのほうを聴いたのだが、これではADを聴かずには居られないではないか。

 ADになると繊細感と艶が増し、尚更に実在感が出てくる。SNでは明らかに劣りながら、細かい音までちゃんと聴き取れるのはADであるという、フシギな現象が起こる。もちろん以前からそう感じているわけだが、やはりフシギなことに変りない。

 このタイトルの後に、以前紹介したVol.2、Vol.3が続くわけだ。処女作がいちばん優れているのは、こういうシリーズモノの常である。一枚だけ買うなら文句なくこの「Vol.1」だろう。CDも優秀だが、AD再生環境をお持ちの方にはADをお薦めしたい。

 などと今さら僕が言わなくたって、すでにお持ちの方は多いと思う。何と言っても紹介されてから10年以上経つのだから。

 旧聞に過ぎるのである。

’03/04/28 (月)

知足


 昨日の日誌は無断欠勤してしまいました。「特別な事由がない限り毎日更新の縛りは守る」というポリシーを崩してしまったのは極めて遺憾であります。申しわけございません。

 村中はお祭りである。正に「お祭り騒ぎ」であって、非常に華やぎおめでたい雰囲気でいっぱいなのである。この時にも俗に言う「おめでたくない」ことは起こり得るわけで、そうなれば僕は業務上即時出動しなければならない。賑やかであったりしめやかであったり、高速スイッチング電源並みに忙しい仕事なのである。

 「正月は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」とは彼の有名な一休禅師の歌、とされているが疑わしいと見る向きもあるようだ。健全で居られることを「めでたいこと」と見、死を「めでたくない」ことと見る、つまり、物事を二元論的に語ること自体が禅的ではないように思えるのは僕だけではないだろう。

 「生」=「幸」、「死」=「不幸」と、単純に置き換えてしまってよいものかどうか、僕は非常に疑問を持つのである。生きる(或いは生まれる)ことには喜びがあり、死ぬことには恐れと悲しみがある。それは確かなことである。だが、そのいずれもが自分の力、或いは選択によって決定し得る事柄ではない。生命の始まりも終わりも、唯在るがままに受け容れざるを得ない自己不可避の真理なのである。

 であってみれば生死そのどちらも「幸」と言わず「不幸」と言わず、共に分け隔てなく受け容れることを潔しとすべきではないのかと、考える。のだが、現実的にはそれが極めて困難なことを重々承知してもいる。

 「吾唯知足」(われただ足るを知る)。二元論の対極にあるような禅語である。有る無しの価値観から離れ、「無一物」の価値観からスタートしてみれば、また何か違った世界が見えてくるかもしれない。

 オーディオに血の道を上げるオマエが言うな、っちゅうハナシもあるわけですが。

’03/04/26 (土)

春眠


 八重桜も盛りを過ぎたようだ。季節はすでに晩春である。昨日今日、天気は悪いが気温は高く、非常にけだるい日である。「春眠暁を覚えず」の諺通り、昨日の夜は"春眠更新を覚えず"寝てしまった。最近こういうパターンが多いなあ。遺憾です。

 今日からこの街は恒例の「加悦谷祭り」が始まる。明日までの二日間、屋台(小型の山車)を繰り出し、街を練り歩くのである。愚息二人は張り切っている。合法的に夜遊びが許されるこの時、子供達にとっては貴重な時間なのである。

 午後からは境内に屋台が入ってくるだろう。子供達にはジュース、大人にはビールを用意して待たねばならない。

 手間は掛かるがにぎやかで良いと思う。お寺は公共施設的側面も持つのである。

’03/04/25 (金)

プロバイダ考


 プロバイダの変更を考えている。

 現在世話になっているところは、ノース関西という地方プロバイダである。僕がインターネットを始めた頃はまだアナログ回線でダイヤルアップ接続していたので、アクセスポイントが近くにあることは大きなメリットだった。それがここを選んだ最大の理由だったのである。

 それが今やフレッツADSLになり、アクセスポイントの遠近は問題にならなくなった。メリットが消滅したのである。逆にOCNを始めとする大手プロバイダのほうに分がある時代になったわけだ。

 接続料金もほぼ同じ、コースの選び様によってはやや安くなるかもしれない。サポートも問題ないだろう。そして最大の関心事、IP電話の使用可能である。

 IP電話同士の通話なら無料、相手が固定電話であれば全国一律3分8円という料金体系は、ヒジョーに魅力的である。どんなに遠方の友達へ電話しても、ともかく3分8円。ヨタ話が好きな僕としては大変ありがたいのである。う〜む、IP電話。いいなあ。

 プロバイダを変更すること自体、何ら問題はない。ひっかかるのはwebページのことである。接続利用のオマケに付いている、ノース関西の領域は当然使えなくなる。ファイルの引越しをしなければならない。だがこれも問題なし、全部CsideNetへまとめてしまえばよいのだから。

 URLの変更を余儀なくされること。これが一番気になるのである。公開して2年半、折角定着したものを変えてしまうのは、如何にも忍びない。

 IP電話は確かに魅力的ではある。が、物事すべて一長一短、デメリットもあるだろうことは想像に難くない。そのあたりをキチンと見極めてからのほうが良いような気がする。

’03/04/24 (木)

ネタは有れども


 何がそんなに青息なのか? 毎年恒例の町内托鉢、である。一昨年は「大したことない」と書き、昨年は「すでに死んでいる」と書いた。今年はというと、やっぱり死んでいるのである。あう〜、またぐらがいてえよう。

 グニャグニャになって帰ってみたら、先日来注文しておいたSACDがどさっと届いていた。と言ってもここしばらく購入を控えていたせいもあり、これまで購入したものと合わせてもようやく30枚を超えたところ。満足できる数までは前途遼遠である。ADCDDVDも買わなければならないし、なかなか捗が行かないのである。

 ソフト発掘の達人であるところの友達からアドバイスで選んだり、自分でヤミクモに選んだりしながら外盤国内盤いろいろ買ってみた。ハズレ、凡庸、優秀、超優秀と、今回は随分Dレンジが広く非常に楽しめたのである。

 超優秀盤を聴き、SACDフォーマットの懐深さを改めて思い知らされた形である。CDを遥かに凌ぐ情報量の多さ、音の細かさ、生硬さの無さは、さすがSACDと言うべきだ。もちろん、如何に器が大きくとも入るものが小さくては話にならないわけで、録音を選ぶことが必須なのはADCDと些かの違いもない。

 良い録音に当たった時の感激は極めて大きい。今回は2タイトルほどそういうものに出遭えた。もちろん友達の力添えによるところが大きいのは毎度のことである。順次紹介して行きたいと思えども、浅薄な知識と限られた表現力では、これまた捗らないのだった。

 深い知識と豊かな表現力。無いもの強請りである。

’03/04/23 (水)

青息

 吐息である。今月の仕事の多さは一体何なのだろう。などと言ってみたところで、言い訳にしか過ぎないわけだ。誠に申しわけない。今日の日誌はこれにて失礼させて頂きます。

 自己のキャパシティを超えた業務ってのは、苦しいモンですねえ。シクシク....。

’03/04/22 (火)

踏ん張れば


 実際の使用にあたっては少しく仕様変更が必要だったP-700専用WAGC支持器。またしても友達の大いなるバックアップのお陰を以ち、めでたく然るべき場所に収まるの圖、である。ありがとうございます。

 真鍮ムク材から成る頑丈な雲台部分と、三本の太い脚をしっかりと踏ん張ってWAGC302を支える姿は如何にも頼もしい。キツ過ぎずユル過ぎず、ちょうど良い高さに調節した時の安定感は抜群、ガタは皆無である。三本脚の効果と、忘れてはならないのが工作精度の高さである。

 P-700側ピンジャックに対してWAGCのプラグがホンの僅か下がった角度で入っているのがずっと気になっていたが、それも綺麗に解消された。これは音にも影響大だと思う、ので早速試聴する。

 やはりオーディオは面白い。支えの曖昧さを減らすことがどれほど重要なことなのか、良く分かった。輪郭がより鮮明になり瞬発力が上がる。まさに踏ん張りの利いた音である。太く力強い低域、透明感高い中域、細かく散乱する高域。こりゃあイイ。

 支点力点作用点を明確にすべきはスピーカーシステムのみならず。オーディオ全てについて極めて重要なファクターだったのである。今さら気付く僕は、やっぱり粗忽者なんだな。

 もうこれで充分と思えるところに立ってみると、まだ上がある。そこへ登れば満足する、かと思いきや、またまた上が見えてくる。登ったと思い込んでいたら実は以前より下っていたりもする。げに恐ろしくも楽しいオーディオ無間地獄の真っ只中で、僕はのた打つのである。

 欲は果てしなく、何処までも煩悩多き破戒ボーズなのだった。遺憾なあ。

’03/04/21 (月)

新緑に和む


 夜のカエルがケロと鳴き、ふと気が付くと柿の木は新芽を出している。その新芽の上で緑色のクモが巣を張るのに忙しく、ソメイヨシノが散ると同時に間髪を入れず八重桜が咲き始める。

 ようやく暖かい春が来たと思ったら、あっという間に晩春の風景が展開されている。と言いながら、今夜はファンヒーター無しでは過ごしにくいほどの冷え込みである。何が何だかよくワカランのである。

 多少なりとも季節の移行に違和感を覚えれども、この新緑を見ていると心がおおいに和むのである。これから5月末頃までの一ヶ月強、一年のうちで最も素敵で最も好きな季節がやってくる。樹が芽吹くのと同じく、草もどんどん伸びるのがいささかうっとおしくもあるわけだが、それでも僕はこの季節がヨイ。

 箱船も今からがいちばん良い時期である。エアコンもファンヒーターもホットカーペットも必要無し、極低暗騒音状態で試聴可能。天候は安定して雪降りの心配もない。お出かけになるのなら、この季節がヨロシイかと存じます。

 政府登録国際観光旅館(死語か?)、ではないのんである。

’03/04/20 (日)

大馬力音


 「おおば りきね」という人名ではない。

 思ったより早く届いて喜んでいる。ピンク・フロイド「狂気」発表30周年記念リマスタリングADである。先日載せたSACDと一緒にHMVへ注文したら、「発送はADに合わせて5月2日になる」と返信が来た。そんな悠長なことはイヤだからSACDだけ先に送ってもらったわけだが、これなら一緒でも良かったなあ。通販のムツカシイところである。

 レコード番号は'93年に買ったものとまったく同じ、SHVL804となっている。海外ショップでは「new heavy vinyl LP edition」と表示している店、「180g vinyl LP」と表示している店が混在する。いずれにしてもレギュラー盤ではないようだ。

 ヴァージンフィルムに包まれ届いたものを持ってみると、異様に重い。こりゃあ180g盤どころか200g盤並み、或いはそれ以上の重さだと、驚いたがそんなわけはない。A1版(新聞見開きってA1ですよね?)厚手光沢紙ポスター3枚、その1/4サイズのステッカー1枚、はがきサイズのステッカー2枚が付録として同封されていた。これが異様な重さの原因である。ある意味でコレクターズ・アイテムなのだろう。

 盤そのものは180g盤並み。英EMIプレスとクレジットされているが、RTIのHQ-180よりやや軽くやや硬い感触である。'93年盤に比べると明らかに重く硬い。

 「Remaster」と明記されてはいるものの、どのようなプロセスでリマスタリングされたのかはまったく表記なし。マスタリングエンジニアについても同様である。音を聴けば分かる、ちゅうことか。ワカランかったらどーしようか。

 思った以上に音の差が大きい。ヨカッタヨカッタ。一聴して驚くのは、厚みと力感の凄さである。低域が極めて厚く押し出しが凄い。SACDはもちろん、'93年盤をも上回る馬力である。中高域の鮮度は高く、埃っぽさが少ない。反面、繊細さ、伸びはやや後退した感じ。時計の音はもう一息伸びが欲しい。超低域もちょっと早めに落ちている印象で、全体的には僅かにレンジが狭まった感じがある。しかしこの馬力は捨て難いのである。

 僕の「狂気」は国内CD、SACD、'93年盤AD、'03年盤ADと、4種類になったわけだ。一般的にはこんなに要らないと思う。今後の発展性と期待感を込め、SACDが1枚あれば充分である。

 但し、ジャケットはADの圧勝である。やはり1枚は持っておくべき、だろうか。

’03/04/19 (土)

入り口

 更新が遅れました。どうか御容赦を。

 掲示板にいただいたJionさんのメッセージに、炭山さんを始め多くの方から返信があるのを楽しく拝読している。斯くの如くに掲示板を利用していただけることは、管理者として大変嬉しいのである。ありがとうございます。

 さて、自作オーディオを始めるにあたっては、先ずはどの辺りが入り口になるのだろうか。

 僕の場合、出発が自作ではなかったので余り参考にはならないかもしれない。ペア5万円の小型スピーカー、10万円のプリメイン、5万円のCDプレーヤー。まともなシステムと呼べるものは、こんな始まりだった。正に「20諭吉」である。

 その後、スピーカーがペア20万円程度の物になり、アンプをセパレート化し、CDプレーヤーは10万円を超え、アナログへの思いを断ち切れず導入。思えばこの辺りから箱船へ繋がる泥沼化の兆しが、既にあったわけだ。

 前にも書いたが、オーディオとは極めてインディヴィジュアル(個人的、個人専用)なものである。ハイCPを徹底するのも立派な見識、ハイエンドを目指すのもまた趣味である。方法論に相違はあれども、思いは皆同じだろう。「好きな音楽(に限らないかも知れない)を好きな音で」聴きたいという思い。

 ある程度の先行投資は必要になるだろう。それをどれくらいに設定するかは人それぞれである。が、最初の自作でD-70を作ってしまった僕としては、D-55を作ろうとなさっているJionさんを心から応援したいと、思うのである。

 末、くずてつみたいになっちゃったら困る? ご尤もですスミマセン。

’03/04/18 (金)

つかの間の


 こんなに綺麗だった今年の桜も、昨日今日の異様な暖かさですっかり散ってしまった。冬の入り口から待ち焦がれてたった5日間、つかの間の美しさだった。

 散ってしまった後に残るのは、一抹の寂しさと後悔の念、それに懐かしさと悲しさが入り混じった複雑微妙な思いである。

 「願はくは 花の下にて春死なむ その如月の 望月のころ」。有名な短歌である。西行法師の作。毎年桜が咲く度に、僕はこの歌を思い出すのだった。法師はこの歌の通り、文治6年(1190)2月16日(旧暦)、花の咲く中で亡くなったそうである。

 短い命ながら綺麗な姿を見せる桜に送られて逝く。なんという素晴らしいことでしょう。自分も斯くありたいと思う。

 さすがにまだ早いかな?

’03/04/17 (木)

軽輩

 一つ重要な業務を無事終えることができた。周囲の方々からの大いなるお力添えをいただいてこその結果である。ありがとうございました。

 さて、僕の業務というと、専ら仏事に関わることのみのように思われがちである。実はそうとばかりも言えず、時にはネゴシエーター的立ち回りをを要求されることもあるわけだ。その内容をここに詳しく書くわけにも行かず、非常に抽象的な表現になるのが申しわけないことを承知の上で述べるのであるが。

 好むと好まざるとに係わらず、或いは能力の有無にも関係なく、与えられた責任は命懸けで果たさねばならない。これは至極当然のことである。今回の件、自己の容量をいささか超えているようなキライはあれども、やるべき事をでき得る限り実行するのみ。その他に僕は方法を知らない。

 交渉人と呼ぶには余りにも軽輩である。だからこそ、今後も誠意を以ってコトに当たるべしと、考えるのだった。

’03/04/15 (火)

弱った


 のである。境内に棲みつく半ノラニャンコがお産をした。ペルシャの血が多く入った真っ白のバフバフネコである。無事生まれたのは真っ白、黒白のブチ、灰トラ白のブチ、の短毛3頭である。オヤジは何処のどいつだ。

 性別は今のところ不明。もう1頭は初産の所為か死産だった。母ネコが留守のうちに取り上げ、昨日載せた桜の樹の根元に埋葬した。来年、花になって還っておいで。

 さて困ったのはこれら3頭の処遇である。方法は3つ。1.放置する。2.全部(或いは一部)ウチネコにする。3.保健所へ持ってゆく。

 1がいちばん簡単、だが、後で困ることになるのは目に見えている。メスがいればさらに増えるのだから。2ははっきり言って非現実的。これ以上家の中に極悪ネコが増えるのはヒジョーにマズイ。愚息はそうしろというが、キミタチが世話するんじゃないからな。何とでも言えるのよ。現実的には3、ちゅうことになるのだろうが、う〜む、この解決方法は極めて気が重い。なまじネコ好きだから遺憾のである。

 あっ、4番目の方法があった。今この日誌を読んでいらっしゃる方、どなたか里親になっていただけませんか。近畿圏在住の方なら、キャットフードを嫁(ムコ?)入り道具にお届けいたします。里親ご希望の方はメールください。....ダメかな。

 いずれにしても、今後はバフバフネコをとっ捕まえて箱に押し込み、避妊手術せねばなるまいて。可哀想なようだが、放置すればもっと可哀想なことになるのだから。対応が後手に回ったのはしくじりだった。

 人間様って、驕ってますねえ。


 〜閑話休題〜

 業務の都合上、明日は日誌の更新をお休みします。17日付けから再開するつもり、ですが、ひょっとすると連休になるかもしれません。どうぞよろしくお願い致します。

’03/04/14 (月)

11日遅れて


 満開2003である。蕾の少なさを心配したが、それはどうやら杞憂だったようだ。なんのことはない、咲いてみれば近年になく美しい花になった。日誌に取り上げるのは今年で3回目、これまででいちばん綺麗な花になったと思う。ヘボカメラマンの所為で、この美しさをトランジェント良くお伝えできないのが残念である。御容赦ください。

 昨日(12日)は雨でイマイチ、今日が頂点である。日中の陽気で既に散り始めているところを見ると、明日はもう下り坂になるだろう。花の命は短くて。だからこそ価値があるのダ。

 それにしても今年は開花から満開までがヒジョーに長かった。一週間である。こんなことは珍しい。待ち遠しくもワクワクする日々、なかなか良い時間だったのである。

 明日の天気はほぼ晴れ、気温は今日よりかなり低めになるらしい。風と雨さえなければ、今しばらくは楽しめるかなあ。

 いやあ、やっぱり桜はイイ。

’03/04/13 (日)

聴いてください


 さっさと書けば良いものを、なかなか思うに任せない状況がもどかしいのである。ともかくも「秋庭歌一具」である。

 第一曲/参音声(まいりおんじょう)、第二曲/吹渡(ふきわたし)、第三曲/塩梅(えんばい)、第四曲/秋庭歌(しゅうていが)、第五曲/吹渡二段(ふきわたしにだん)、第六曲/退出音声(まかでおんじょう)の6曲で構成される、雅楽組曲である。51分24秒。元々1973年初演の「秋庭歌」だけが独立した曲だったものに、6年後の1979年に5曲が書き加えられ「秋庭歌"一具"」となったものである。

 2001年4月30日〜5月1日、サントリーホールで収録。DSDレコーディングである。

 写真は全曲を通して採ったF特である。一見ハイ落ちに見えるこの形、実は極めて自然なのである。聴感上では全くハイ落ちには聴こえない。64、125、200Hzのピークは、第三曲で豪快に鳴り響く太鼓によるものである。50Hz以下にレスポンスがあるのはホールの暗騒音だが、これがまた音の実在感を際立たせているのである。

 透明感絶大、見通し抜群、響きの美しさは比類がない。作為はまったく感じられない。極めて自然でしかも広く高く深い音場には声が出ないほどである。Dレンジ極大、笙のかそけき響きから太鼓の強大な圧力まで、細大漏らさず見事に収録されている。

 第一曲冒頭、広い音場空間に木鉦が響く。その定位、距離感たるや恐ろしいばかりのもので、いちばん遠くで鳴るものは部屋の壁を完全に無視して遥か彼方に定位する。いやもうこれは本当にギョッとするものであって、ここを聴くだけでもこのCDを買う値打ちがあるというものである。

 第三曲で活躍する太鼓の音も素晴らしい。皮の厚みと張りグワイ、胴の深さが分かるような圧倒的実在感と圧力がある。ふやけたような部分は皆無で、ソリッドにしかも独特の柔らかさを持ってホールに鳴り響く様は一聴、否、百聴の価値大である。

 第四曲が"一具"の中心である。この曲だけが17分24秒と、他の五曲に比べると突出して長い。雅楽というと何だか間延びして退屈な印象を受けがち(僕だけかな?)だが、この曲は退屈しない。少なくともロックオヤジの僕が、ヒジョーに面白く聴けた。後半、龍笛、笙、篳篥が一斉にfffで鳴り渡る部分も、混濁や歪み感は皆無。これは凄いことなのである。

 ともかくお聴きになることを強くお薦めしたい。好みの差はあろうけれども、オーディオファンを以って認ずる人ならば、これを聴かなきゃウソである。どうか「雅楽なんか辛気臭くて聴けるか」とおっしゃらずに。

 毎度のことながら、このCDを紹介してくれた友達には心から感謝を申し上げ、深々敬意を表したい。ありがとうございました。

 今後、SACD盤のリリースも予定されているという。期待感極大。絶対買うぞ。

’03/04/12 (土)

落ち着けない

 今日は「秋庭歌一具」の全曲F特写真などを載せ、試聴感想を書く、つもりだった。そこへ朝からドシャドシャと急な業務が殺到、更に連日の夜会議が予定外に長引き、結局私事は何にもできない日になってしまった。何だか今月は落ち着けないのである。

 明日はちゃんとした日誌更新にできる予定です。どうかご容赦ください。

’03/04/11 (金)

またジャケットだけ


 僕が絶対の信頼をおく友達から「優秀だから是非聴いてみて」と紹介してもらい、早速に注文したCDが届いた。「武満徹/秋庭歌一具/伶楽舎」(日SRI SICC85)である。(C)2002。

 夕方に届き、すぐに全曲聴きたかったところだが、今夜は重要な寄り合いがありホンの数分聴けただけ。それでもこのCDが超優秀録音盤であることは、音が出た瞬間に分かった。

 後ろ髪(無いケド)を引かれる思いで寄り合いに出かけ、帰ってきたのはついさっき。完全に午前様である。ちゅうわけで、全曲聴いての感想はまた後日。

 いつも忙しい時にばかり届くのは、一体どういうわけだ? そりゃアンタの行いが悪いから。いや、失礼イタシマシタ。
 

’03/04/10 (木)

花祭り


 8日は花祭り、我が大恩教主釈迦牟尼世尊の誕生日だった。在N田川、K悦両町寺院24ヶ寺で構成される超宗派団体「K悦谷仏教会」では、毎年恒例行事として花祭りを開催する。会場は加盟寺院持ち回り、今年はウチが当番である。

 花祭り、別名「降誕会」(ごうたんえ)、或いは「潅仏会」(かんぶつえ)。写真は正に潅仏する参拝者の姿である。はて、潅仏とはナンゾヤ?

 早い話が、誕生仏(右手で天、左手で地を指し『天上天下唯我独尊』と叫んだ時のポーズ)像に甘茶を注ぎかける行為のこと。釈尊誕生を祝い、二匹の龍が甘露の雨を降らせたという伝説に基づく仏教的行事である。各寺院の檀家さん約70名の参加があり、盛会裡に終ることができた。

 日本人の(おそらく)大半は仏教徒である。にもかかわらず、キリストの誕生日であるところのクリスマスの盛り上がりに比べ、釈尊誕生日は些かマイナーである。4月8日がその日であることさえ、知らない人が多いのではないか。

 恰も空気の如く存在するのが現代仏教、特別に意識する必要もないほどに人々の心に浸透している証左である、という見方は楽観的に過ぎるだろう。その意味では一年に一度、こうして釈尊誕生日を祝う行事も意義深いことであると、ボウズのハシクレである僕は思うのである。

 さて、「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんげゆいがどくそん)という言葉、昨今ではかなり曲解して使われているようだ。「あの人は〜だから」と言った場合、多くは「他を意に介さず我が道を行く」「強引にマイウェイ」、どちらかと言えばネガティブな意味に解釈されている。極めて狭義、浅薄な解釈と言わざるを得ない。

 本来の意味は全く違う。「唯我」の「我」は、釈尊自身を指すと同時に一切衆生(生けとし生けるものすべて)をも指すのである。一人称でありながら同時に二人称、三人称でもあるわけだ。「この世界の中で、私(あなた、彼ら)の存在は唯一無二のものである。互いの相違を理解し合い存在を尊重すべし。他を差別し害してはならない」と理解するのが正しいのである。

 互いの相違を理解し存在を尊重する。至極当然、しかも極めて重要なことである。だが、現代社会に目を遣れば、これが全く無視されている現実に直面するのである。国際社会にこの考えを生かす、などと青臭いことを言うつもりはない。そんなことはどうやったって不可能である。しかし。

 せめて個人レベルでは、何とか実現できないのだろうか。他を貶めることで自己の価値を上げようとする下品な輩、オノレの手柄を誇示し他を見下す尊大不遜なヤツバラ。

 自ずから省み、自戒しなければ遺憾のである。

’03/04/09 (水)

両雄双び立つ


 「DARK SIDE OF THE MOON」(邦題/狂気)。ビルボードTOP200に850週15年間以上チャートイン、知らない人はいない(今は大勢、いる)のではないかと思われるほど超有名なタイトルである。売上枚数世界一と言われているが、正確な記録が無いのは残念。公式に認められているのはマイケル・ジャクソンの「スリラー」(4,500万枚)である。イギリスでは5人に1人が「狂気」を所有しているそうだから、たぶん「スリラー」どころの騒ぎではないはずだ。

 さて、発売30周年記念リマスタリングSACD「狂気」(英 EMI 7243 582136 2)。これがどれほどの音を聴かせるのか、大いに期待するのである。僕が持っているのは日本盤CD(1985年購入)と、外盤AD(恥かしながら1993年購入)である。

 国内CDのほうは一聴して音が良くないので今回は試聴せず。外盤ADとの比較をしてみた。但し、A級外セレに紹介されているものはアメリカプレス(米HARVEST SMAS11163)、手持ちはイギリスプレス(英HARVEST SHVL804)である。超々ロングセラーであるからして、他にも各種各国プレス盤が山のように存在するはず。その全てが同じ音である保証はまったくない。

 上のF特写真は、左がSACD、右がADである。どちらもトラック4(AD/A-4)「TIME」の冒頭。目覚し時計、柱時計、チャイムなどが入り乱れて鳴り渡る部分である。

 カッティングレベルはSACDの方が4〜5dB高い。全体の形としては良く似ているが、4kHz以上での違いが顕著である。SACDでは1kHzと4kHzのレベル差が約10dB、ADでは15dB近くある。この形からするとSACDのほうがけたたましく聴こえそう、だが、聴感上ではそうならないから不思議である。

 ADに比べて上品な印象である。音がきれい。低域と中域のレベル差が少ないのも影響しているようだ。各楽器、効果音のセパレーションは良く、音場感も良い。ディジタルフォーマットにありがちな生硬さはなく、繊細でしなやかである。この辺りはさすがSACDというべきだろう。ただし、厚み、深み、力感という点ではADに分がある。SACDはやや音が細い感じ。

 その差が良くわかるのはトラック7(AD/B-2)「US AND THEM」である。サビの部分、深々とした低音がグーンと迫ってくるのが快感なのだが、SACDでは迫力不足。残念である。特に有名な、タイトル冒頭「SPEAK TO ME」の鼓動も、圧力と堅さ(硬さ、ではない)でADがSACDを凌ぐ。

 ではどちらが良いのか、と問われると些かムツカシイのである。システム環境によって評価が分かれそうだ。どちらも良いというか双璧と言うか。個人的には...う〜む、やはりADを採るかなあ。

 SACDに後れて30周年記念リマスタリングADもリリースされる予定である。「new heavy vinyl LP edition」(180g盤とは違うのかな)だそうである。そちらにも期待したい。

 手持ちのADを買ったのが1993年っちゅうことは、ひょっとすると20周年記念盤だったのかしらん。そんなこと何処にも書いてないし、重量盤でも何でもないんだケド。

 今、気が付いたのである。

’03/04/08 (火)

30周年


 早速聴いた。SACDとADの比較感想などをノベるつもりだったが、昨晩はまたまたキゼツしてしまった。遺憾である。

 今晩、やります。

’03/04/07 (月)

開花に思う


 予報通り、今日は大変良いお天気だった。昨日との気温差は、おそらく10℃くらいあったのではないか。少なくとも体感的にはそれくらい暖かかった。こうなれば桜は大喜びである。気温が上がった午後になってようやく咲き始めた。写真は6日16時頃の状況。一分咲にも及ばない。一厘咲、という感じである。

 桜の色を言葉で表わすとき、何色といえばよいのだろう。そりゃアンタ「桜色」。当たり前である。当たり前すぎて面白くないので、いろいろ考えてみよう。

 「ピンク色」。そんなにどぎつい色ではない。「春色」。これもイマイチ。なんともたよりない色なので「儚色」。字面はなかなかだが何と読むのか。ならば「脆色」。これも読みに困るし語感が悪い。夜の桜は「薄墨色」。これは良いな。「霞色」。ちょっと穿ち過ぎ。「夢色」。キザである。「幻色」。どうも遺憾。

 どう表現しても言い切れないのが桜の色である。咲き始め、満開時、散る寸前、その時々で微妙に色を変えるからでもあるわけだが、僕にとって桜の色は、とても不思議で美しいものに思えるのである。

 「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 應作如是観」。金剛般若波密多経(こんごうはんにゃはらみたきょう)の一節である。

 「いっさいういほう にょむげんほうよう にょろやくにょでん おうさにょぜかん」と読む。「一切の有為の法、夢の如く泡の影の如し。露の如くまたいかづちの如し。まさにかくの如き観をなすべし」。

 花も人も、全ての存在は如何にも儚いものである。栄華を極めているようにみえるこの世も、やがては衰えてゆくだろう。命短いのは桜に限ったことではない。

 満開を待つこの時を大切にしたいと、しみじみ思うのである。

’03/04/06 (日)

求める心


 桜は未だ咲かない。だが、ご覧の通りその寸前である。今日は一日雨模様で、しかも北風が強く非常に寒い日だった。それでも昨日よりは蕾が大きくなったところを見ると、好天の予報が出ている明日には一気に咲いてしまうかもしれない。

 2日の日誌には「蕾の数が少ないように思う」と書いたが、どうやらそうでもないような雰囲気である。そこそこの花にはなりそうだ。写真は庭の桜の中でも樹齢が古いほうの樹である。先日載せたのと同じ樹だ。それがこれだけの数を付けていれば、これは立派と言うべきもの。期待する人の心が伝わるのだろうか。

 園芸(今風に言えばガーデニングか)を趣味とする友達は言う。「何をどう植えても一発で根が付いちゃう人と、いくら注意深くやってもすぐに枯れてしまう人が、いるんだよねえ。すごくフシギ。花や樹に心を見透かされているような気がすることって、よくあるよ」と。

 単なる偶然か、或いは何らかの科学的根拠があるのか、門外漢の僕には分からない。しかし、そういうことはあるのだろうなと、何かしら納得する話ではある。

 ひょっとするとオーディオにも似たことが言えるのかも知れない。機器を擬人化して溺愛する、のは凡そ趣味ではない。しかし仮に、全く同じ部屋、機器、ソフト、使いこなしをしたとしても、人が違えば音が全く違ってしまうことは想像に難くない。そうであってみれば、やはりオーディオにも人の心が反映されると見るべきである。

 「音は人なり」。長岡先生の名言である。僕の経験則(極めて貧弱であるが)からしても、それは確かなことだと認識している。何よりも我が身を顧みれば一目、否、一聴瞭然であるわけだ。おそらく僕がどんな樹を植えても、一発で根付くとは到底思えないのである。

 だからこそ飽きもせず牛歩の如きオーディオを続けているのだろうと、ふり返り思う。技術、ノウハウが重要であることは当然乍ら、それ以上に「求める心」が大切であることを、識るのである。

’03/04/05 (土)

ゴミは溜まるが


 僕は生来ビンボー性で、物を捨てることがどーしてもできない。機器の元箱はもちろん、CDやADを送ってくるダンボール箱、エアパッキンの類に至るまで「また使えるカモシレナイ」などと言って大切に取っておくのである。明治生まれのおばあさんみたいなヤツだ。

 整理能力も無いくせに取っておくばかり、それでどういうことになるかと言えば結果は明白である。箱船の中がゴミ溜め状態となるわけだ。これじゃほんとに「箱」船である。シャレにもならん。

 中でも右リヤスピーカー周辺は特に酷く、最近では見るのも厭になっていた。見るのが厭なら触るのはもっと厭で、そのくせモノはどんどん溜まる一方である。ドラえもんのポケットではないのである。

 そこで友達からCD、DVDラックを貰ったのを機に一念発起(そんな大層なことか)、掃除と整理を兼ねてゴミ捨てに挑む。

 始めてみて驚いた。出るわ出るわ、溜まっていたもののほとんどが使い道の無いゴミである。こんなものを後生大切に溜め込み、一体どーするつもりだったんだろう。これも要らんあれも要らんとどんどん捨て続け、あっという間にゴミの山ができてしまった。見えているとまたぞろ「やっぱりこれは置いておこう」と言い出すので、ともかく箱の中にぶち込んで見えなくしてしまう。「整理の極意は捨てることと見付けたり」とは正に名言である。

 写真の通り、どうやらラックを設置し整理できた、ように見える。ADラックを一部占有していたDVDソフトはキッチリ収まり、床にはみ出ていたADを入れることができた。これで床が見えている部分(!)の面積が大きくなり部屋が広くなった、と感じられるのはたいへん結構なことでゴザイマス。

 但し。

 これはほんの一部についての改善であって、根本的な解決には程遠いのである。まだまだ捨てなければならないものは山のようにある。

 ゴミ溜めるくらいならカネ貯めろ。それはできんなあ。なんでだろう?

’03/04/04 (金)

立ち上がり

 エージングとは正に文字通り「老化」である。人が年老いてゆくのもまたエージングであるわけだ。

 当初の予定によると、今日明日は完全OFF日になっていた。そこへ例によって急遽業務命令が。これはもう待った無しである。休みもクソもない。

 そのこと自体に何の文句もない。当たり前である。それが僕の務めなのだから。もっと厳しい環境下でお仕事されている方はたくさんいらっしゃるのである。困るのは、僕の肉体的精神的トランジェントが、年々劣化していることである。

 今の務めに就いた頃(26歳くらいだった)は、オヤスミモードからオシゴトモードへの立ち上がりが良く、比較的容易に気持ちを切り替えることができていた。ところが近年、立ち上がりが極めて悪くなったことを実感している。サクサク動けないのである。信号の入力があってしばらく経ってからああドッコイショ、と動くコーンの重いウーファーみたいな感じ。これもエージング、つまり老化なのだろうなあ。

 尤も、まだ老け込むような歳ではない(と自分では思っている)し、人生の諸先輩方から見れば、チャンチャラ可笑しく「片腹痛いワ」ということになるのだろうと思う。だが、20代のワカモノと40代のおっさんでは、スピード感に大きな差が出るのも現実である。

 未だ準備が完了していない、のはやはりトランジェント劣化の証左なのである。エージングにもちょうど良い加減のところが、あるわけだ。

’03/04/03 (木)

好きなこと


 年度末〜年度始めは事務的な仕事が多く、些か多忙だった。ここ2週間の総オーディオ時間はほんの数時間。なんだかシステムに埃がかぶったように感じ、少しく掃除をした。久しぶりにスーパーネッシーも裏側を覗いたら。

スーパーネッシーは箱船の三代目メインスピーカーである。初代はD-55、二代目はネッシーIIだった。

 D-55を箱船で使ったのは'93年11月〜'94年5月までの約6ヶ月と、これは非常に短い。ネッシーIIができるまでの繋ぎ的存在だったから、これは仕方ないのである。その後'94年5月〜'97年7月までの約3年間がネッシーIIの使用期間である。

 上の写真はスーパーネッシーの完成日時シールである。裏板に貼ってある。つらつら惟みればいみじくも、使い始めて既に6年経とうとしているわけだ。まだ新しいスピーカーだと思っていたら、一番永く使っていることになる。今やすっかり箱船のヌシになってしまった感じである。

 「共鳴管スピーカーの音はボーボーしている」。うむ、確かに否定できない部分はある。BHから繰り出される筋骨隆々、ソリッドハイスピードサウンドとは明らかに異質である。その反面、共鳴管でしか出せない音があるのもまた事実。これは一度聴いてみれば誰にでもすぐに分かることである。

 抑圧感の少なさ、開放的な明るさ。つまりこれ、言い換えればDレンジの広さっちゅうことになると思う。何の制限もなく出し惜しみもなく、楽に音が出てくる感じ、これがおそらく共鳴管最大のメリットではないかと考えている。

 SPシステムは数あれど、それぞれにメリットデメリットを抱えている。大切なのはメリットがデメリットを上回っているかどうか。それを決定するのは、他でもない自分である。第三者に聴かせて「こりゃダメだ」と評価されたってなんだって、オノレがその音を好きなら全く問題ナシ。オーディオとは極めてインディヴィジュアルなものなのである。

 人に誇れるような音を出している、などと不遜、尊大なことは毛頭思っていないし、もちろん自信などあろうはずもない。僕は何時まで経っても初心者なのである。多分死ぬまでそう思い続けるだろう。だが、一つだけ言い切れることがあるとすればそれは。

 僕は箱船の音が好きである。

’03/04/02 (水)

花未だ固く


 昨年同日の日誌タイトルは「満開 2002」だった。今年はご覧の通り、まだまだである。同じく3月22日の写真よりも、さらに固く閉じているようだ。10日以上遅れているように思われる。やはり少雪でありながら、寒い冬、寒い春だったことが分かるのである。「今年は暖冬でしょう」なんてゆったヤツは何処のどいつだ。

 大阪、京都(ここは京都ではなく丹後である)ではもちろん、東京、横浜(SY-99さん、ご報告ありがとうございます)でも既に満開に近いと聞く。楽しみは後に取っておくほうが喜びは大きい、とは言うものの、桜大好きニンゲンくずてつとしては早く咲いて欲しいのである。桜を見ないと春が来た気がしないのだった。

 ウチは村内でちょっとした桜の見所になっている。以前は近所のオジサンオバサン達が夕方から一杯飲りながら花見をしたものだが、不景気の所為か最近ではあまり見かけなくなった。花に浮かれる姿を「人見」して楽しんでいた僕としては、ちょっと寂しいのである。

 そう思っていたのは僕だけではなかったらしい。今年は有志の人たちによって夜桜のライトアップが実行されるのだそうな。設営は全部やるから電源だけ提供してくれと言う。もちろん僕に異論があるはずはない。二つ返事で快諾した。きっと美しい光景を見ることができるだろう。ヒジョーに楽しみである。

 心配なのは、桜の咲きグワイだ。寒さの為せる業か、或いは老樹の限界なのか、蕾の数がやや少ないように見えるのである。昨年の咲柄(なんて言葉あるのかな)が比較的良かっただけに、尚のこと憂いてしまうのである。杞憂に終わればよいのだが。

 頑張れ御老体。

’03/04/01 (火)

花の月


 大好きな4月がやってきた。今年の3月は、天候が悪く非常に寒かった。よって桜はまだまだ咲かない。この調子で行くと開花は今月10日を過ぎそうな気配である。

 花の月4月、古称では卯月。陰暦4月1日は新暦(現在暦)では5月1日になる。卯の花が咲くのはちょうどその頃、初夏である。したがって4月は「卯月」と、こういうわけである。いずれにしても4月は花の月なのである。

 卯の花、別名空木(ウツギ)、というよりも空木のほうが一般的な呼び方のようだ。「卯の花」とは、どちらかと言えば「オカラ」のことを指すことが多いみたい。

 ユキノシタ科の落葉低木である。学名Deutzia crenata。茎が中空になっていることから「空木」と名付けられたそうだ。ご覧の通り、初夏に白く可憐な花を咲かせる。ユキノシタの花に似ているのである。

 実家のある大阪府高槻市の市花がこの卯の花である。子供の頃、あれは確か幼稚園の入園時だったか、記念にこの花の苗を貰った記憶がある。確かに茎がストローみたいだったなあ。何故だかそのことは鮮明に覚えている。市内に有名な群生地があることから決められた、と、これは最近になって知ったことである。行ったことないケド。

 思い返せばいみじくも、高槻市街地で暮らした昭和40年代の体験が、僕のオーディオ原点だったような気がする。田んぼや草むらに捨て(今で言うところの不法投棄である)てあったTVやラヂオのスピーカーユニットが、現在の行動様式を決定付けた、のかもしれない。三つ子の魂百まで。

 未だにその原点から然程進歩していないところが、些か悲しくもあるわけだが。