箱船航海日誌 2006年10月

日々雑感、出来事などを思いつきに任せて綴っていこう

過去の日誌コンテンツ

’06/10/31 (火)

知らず、こうなりました


 「たかがオーディオに、ここまでやるか」とは、箱船を訪れた人からしばしば言われることである。当の本人としては、当初からこんなに大袈裟なオーディオをやるつもりはなかったわけで、好きな音楽を好きな音量、好きな音で聴こうとして、気がついたらこうなっていた、というだけのことなのである。

 軽い機器より重いほうが好みの音が出た。細いケーブルより太いほうが豪快で良かった。撚り線より単線のほうがリアルな音が出た。華奢なラックより頑丈なほうが音にフンバリが利いた。鉛のカタマリを載せたほうが力感に優れていた。ユニット1発より2発のほうが音の崩れが少なかった。20cmウーファーより38cmのほうが圧力があった。部屋は広いほうが音に伸びがあった。床も壁も丈夫なほうが瞬発力があり音場が広く定位が良かった。

 と、相反するものを聴き比べ、良いと感じるものを採っていったら、知らずこーゆーことに、なってしまった。極めて個人的な嗜好による選択の結果である。一般性はまったくないし、他者に薦めるつもりもない。ただ「このようなことをやったら、このような音になりました」という一つのケースが、ここにあるだけである。

 箱船の音を聴いて「こりゃカナワン」と感じた人は、こういうことをしては遺憾、とも言えるわけだ。単純に逆手を行けばOK、というほどオーディオは簡単でもないと思うけれど、ある意味反面教師にもなり得るだろう。

 先ず以って重要なことは、どんな音楽をどんな音で聴きたいか、だと思う。それを求めて行くのがオーディオという趣味であって、しかも100人いれば100通りの音があるからこそ、なお面白いのである。

 大切なのは機械ではなく、己が支配力だ。

’06/10/30 (月)

好みのルーツ


 僕は広く天井の高い部屋で、スピーカーから距離を取って聴く音が好きである。箱船という環境で聴いているからそうなのではなくて、大昔、まだごく一般的な6畳間でオーディオしていた頃からずっとそうなのである。

 そいういう好みになったには、理由があるはずだ。オーディオ原初体験がそのような環境だったのか。たぶん違う。オーディオとは直接関係のない、どのような音環境で育ったかが、大きく影響しているように思われる。

 僕は生まれつき寺のムスコである。この世に生を受けて45年、そのほとんどを寺で暮らしてきたわけだ。規模の大小はあれど、一般的な住宅に比べると、寺は広く天井が高い。しかも、実家は当地以上の山間部で、雑音人工音は少なく自然音に溢れていたのである。

 オーディオ云々以前から僕は、開放的な空間で抑圧されない音(音場と言ってもよい)に囲まれ育ってきたわけだ。この生い立ちが、現在のオーディオ嗜好を決定付けているものと、僕は考える。愚妻にしばしば「アンタは不必要に声がデカい」と叱られるのも、その所為だろう。どーもスミマセン。

 以前、箱船にやってきたある友達は、持参したソフトを聴いてこう言った。「音が遠すぎて落ち着けない」。彼は4.5畳の部屋に20cmBHを置き、至近距離で大音量再生する人だった。「もし自分がオーディオ専用の部屋を作るにしても、ここまでの広さは必要ない」とも言う。彼の生い立ちを詳しくは知らないけれど、少なくとも僕とはかなり違った音環境で育っただろうことだけは、わかるのである。

 寺に生まれ育った人間がオーディオすれば、必ず僕のような好みになる、などということはゼンゼンない。ただ、個々のオーディオを語る時、それぞれ過去の音環境体験は無視できない要素だと感じるのである。

 己が音の好みを、深く掘り下げて考えてみるのも、また一興。

’06/10/29 (日)

不思議な魅力


 このレコードも、探して探して、探し続けたけれどこれまで手に入らなかった、僕にとってはレア盤の一つである。「ノートルダム・ド・パリのクリスマスイヴ」(仏fy FY006)。録音は古い。1973年、33年前である。外盤A級セレクション第2集139番収録。

 僕が渇望(熱望、ではない)した理由。それは「このレコードの録音は必ずしもA級とはいえない。しかしめったに聴けないもの」という長岡先生の評である。優秀とは言えないのに滅多に聴けない音、とは、どんなものなのか。「文句なしの優秀録音」と言われるよりもなおさらに、僕は好奇心をそそられたのである。

 今、ようやく手に入れて聴くことができた。実際に自分の耳で確かめてみて、納得である。盤質なのかプレスの所為なのか、SNはかなり悪い。歪みも多めだし埃っぽくもある。内容が類似する「カンターテ・ドミノ」(瑞proprius PROP7762)に比べても、分解能、透明感などはイマイチ、イマニである。

 しかし、このレコードの音には「だからダメダメ」とは言えない、不思議な魅力があるのだった。はるか彼方四方八方から渦巻きながらやってきて、部屋いっぱいに充満するエコーの凄さ。これは大袈裟でなく「めったに聴けないもの」だ。濃密なエコーの霧に包まれるような感じは、実にいい。ヒッシになって捜し求めただけの価値は、充分にあったわけである。

 但し、万人向きかというと、それは疑問だ。リスナーによっては「なんだコリャ」で終わってしまう可能性もある。聴いた人すべてが拍手喝采するわけではないけれど、しかし価値が高いレコード。こういうものがあるから、オーディオは面白いのである。

 僕は、大喜び。

’06/10/28 (土)

家訓そのまま


 秋深まる。すでに晩秋の風情である。しかし比較的暖かな秋で、「くずてつ家コタツの日」である10月10日を大きく過ぎた今も、コタツは出ていない。

 箱船脇にある2株の柿も、すっかり熟して食べ頃を過ぎてしまった。1本は一般的(東京以北ではそうでもないと聞く)な富有柿、もう1本は与謝柿(よざがき)という、京都府北西部〜兵庫県北東部に限定して分布する種である。

 小ぶりでお尻がとんがった形状は、あたかも渋柿のように見えるがそうではない。甘さ、味の濃厚さだけで言えば富有柿を上回る、とてもおいしい柿なのである。おいしい柿ならば、分布域が狭くともその地方のみの商業ルートに乗りそうなものだが、店頭でこの柿を見ることは、まったくない。

 残念ながらこの柿、一旦収穫してしまうと日持ちが極めて悪く、あっという間に傷んでしまうのである。以前、これを食べてみたいという遠方の友人がいて、それならばと箱に詰めてクール宅急便で送ったら、1日で着いたにもかかわらずほとんど傷んでしまって食べられなかった、ということがあった。これではとても商売にならないのである。

 獲ったらすぐ食べる。こうでないと遺憾のである。魚で言えばサバかイワシみたいなヤツなのだ。与謝柿は、鮮度が命です。

 うまいもんは早く食え。くずてつ家家訓そのままである。

’06/10/27 (金)

カメムシ予告2006


 毎年恒例のカメムシ降雪予告の季節がやってきた。いよいよ今年もお出ましに、なっているのである。

 2005年秋は、それまでにはちょっとなかったくらいの異常発生であった。そこらじゅうカメムシだらけ。外へ干した洗濯物には例外なくくっつき、窓を開ければすきまからバラバラ落ちてくる。ゴハンの最中には照明の周りをブンブン飛び回り、ついには味噌汁の中に墜落、僕はカメムシエキス入りミソシルを食べることに、なってしまうほどだった。そりゃあもう、臭くて臭くて。

 大雪に、なる。と思ったら、大当たり。偏西風の南方蛇行を予測していたかのように、昨冬は2mを超える積雪を見た。昔の人はよく言ったものである。しかし、これほど見事にカメムシ予告が当るのも珍しいことではあった。

 さて、2006年秋の出現状況は如何に。2005年に比べると、激減、である。印象としては1/10、或いはそれ以下、という感じだ。いることはいるのだが、密度が低い。今のところカメムシ味噌汁は食べずに済んでいる。この調子で行けば今冬は少雪。なら、僕は嬉しいのだケレドモ。

 少なくとも、気象庁発表の長期予報よりは、高信頼性。かな。

’06/10/26 (木)

絶筆


 僕は、オーディオ評論家瀬川冬樹氏が健在であった時のことをよく知らない。氏が最も活躍されていた頃、僕はオーディオに最も距離を置いていた時期だったからである。

 ヤクザなドラマーに一区切りをつけ、オーディオに戻ってきたとき、氏はすでに鬼籍に入っておられた。長岡先生のファンであると同時に、瀬川氏のファンでもあった親しい友人から「非常に優れた評論家だった」と聞かされることしばしばであったが、どういうわけかこれまでは縁遠く、文章に触れることもできずにいたのだった。

 先日、また別の友達から氏の著書をもらった。上の本である。「オーディオの系譜」(瀬川冬樹著 酣燈社刊 ISBN4-87537-000-X)。1982年6月1日初版発行。共同通信社発行のFMfanに連載されていた「オーディオあとらんだむ」(1977年1号〜1981年9号)を、筆者自身が加筆訂正し1冊にまとめたものである。

 25年以上前の、オーディオ評論集である。取り上げられているオーディオ機器は、今から見れば当然古いものばかりである。しかし、文章そのものにはまったく古さを感じない。切れがよく、けれども独善的ではなく偏りもなく、極めて沈着冷静な評論集である。おそらくアプローチはまったく違っていたと想像するが、長岡先生の評論に似たものを感じた。友達が両者のファンであることも、充分納得できるのである。

 瀬川氏は、残念ながらこの本が出版されるより前に、この世を去っている。1981年11月7日、享年46。S字結腸に原発を見た癌の、肝臓転移による死去だったという。夭逝、とは言えずとも、若すぎる去り様だと思う。僕は今、45歳を過ぎている。

 加筆訂正も、後半は病床で行われたそうだ。最後まで健康を取り戻せると信じて。しかしついに未完である。最終章第4章「スピーカー」の項で、最後に氏は次のように語り本は終わっている。

 「かりに現代の新しいモニターの音でなく、例えばイギリスの古い時代の音であったとしても、その人にとって、それが真の音楽の世界であるなら、誰もそのことに異議をとなえることはできない。

 同じ1枚のレコードが、スピーカーの数だけの違った音で鳴る。そのスピーカーを選んだ人が、さらにそれを自分の理想の音に鳴らし込めば、レコードの音は、鳴らす人の数だけ種類の違った音で鳴る。これがオーディオの面白さだ」

 
25年前の評論に、僕は勇気づけられるのである。

’06/10/25 (水)

JENSEN CAPACITORS


 コンデンサーと言えば、僕も他人事ではないことに気がついた。スーパーネッシーMkIIの導入にあたっては、容量をどの程度にするか、再考せねばならないのである。

 FE-208ES×3、ということになれば、現状に比べて能率は上がりハイは早めに落ちるだろう。単純に考えれば、Cの値を増やす方向になるわけだ。

 どれくらい増やせばよいのか、それは分からない。208ES×3、なんてスピーカーの音は、聴いたことも見たこともないから仕方ないのである。

 一つはっきりしているのは、手持ちのJENSENコンデンサーだけでは賄えないこと。少なくとも1.0μF/1000Vを、あと2本は確保したい。

 ところが困ったことに、以前利用していた海外パーツショップが、JENSENの取り扱いを止めてしまったのである。国内ショップでも買えないことはなさそうだが、1000V耐圧タイプはとんでもない値段なのである。こんなに高価だったかと、ちょっとビックリしてしまった。

 さても困ったことである。背に腹は替えられぬと、高価を承知で国内調達するか、検索しまくって海外ショップを捜すか。送料を考えれば、そんなに違わないかと、思ってみたり。

 WELBORNE Labsは、良かったのになあ。

’06/10/24 (火)

トゥイーターとC


 更新が後手後手になってしまって、ご閲覧いただいている皆さんには大変失礼している。22日の行事以来、どうにも疲れが抜けきらず、夜の踏ん張りが利かなくなっているのである。午後9時を過ぎると、生命のキケンを感じるほどの恐ろしい眠気が襲ってくるのだった。

 言い訳はこれくらいにして。

 先日、親しい友達とヨタ話をしている中で、彼が現用するスピーカーにトゥイーターを付加しようと考えていることを知った。未だコレと決めたわけではないらしいので、ウチのラックでアクビをしているT-925Aを、試験的に使ってもらうことにした。

 T-925Aは、かなり辛口サウンドで、どちらかと言えば寒色系の音色である。ハードでシャープな音は非常に痛快だが、しなやかさ、繊細感、瑞々しさなどの表現はやや苦手なほうだと思う。このキャラクターが友達の好みに合うかどうか。

 鋭さ、冷たさが少しでも緩和されればと、JENSENのコンデンサーを一緒に送った。0.47μF/630Vタイプである。組み合わせるスピーカーからすると、たぶん0.33μFくらいがベターだと思うが、残念ながら手持ちにない。とりあえずは0.47μFで、探りを入れてもらおうという魂胆である。

 辛口寒色系のトゥイーターに、しなやか艶やか系のコンデンサーを組み合わせる。長所の相乗効果になるか、互いの短所だけがシャシャリ出てくるか。ちょっと面白い実験である。上手く行けば、いいのだけれど。

 T-925A、ガンガン使って叩き起こしてやってください。

’06/10/23 (月)

ツカレタ


 朝、会計を担当する若い和尚さんと二人で昨日の残務整理を少々。そのあと業務を二つこなして昼前に帰る。一息ついたら、どひーっと力が抜けてグニャグニャになってしまった。

 前回ウチで当番をした時もシンドかったが、それよりさらに疲れが深いような気がする。前回は肉体疲労、今回は精神疲労、の違いかな。僕らの業界では、45歳の住職などハナタレ小僧扱い(!)なのである。イロイロ言いたいこともあるのだが、それをゆっちゃあおしまいよ、と。差し障りがあってはイケナイからやめる。

 ああ、ツカレタ。

’06/10/22 (日)

無事終了


 行事はやれやれ無事に終えることができた。実行委員長兼総合司会、ということで、気力を使い果たしてクタクタである。しかしながら、関係者方々、参拝くださった皆さんのおかげさまにより、大過なく運営できたことを感謝したい。ありがとうございました。

 次の開催は2009年秋である。

’06/10/21 (土)

準備完了


 終日準備に追われる。夜、明日の導師をお勤めいただく老大師を天橋立駅までお出迎えし、お宿にご案内して準備完了。いよいよ本番を待つばかりとなった。

 あとは仕上げをご覧じろ。

’06/10/20 (金)

三年ぶりの


 今日から明後日にかけては、業務関係の行事にかかりっきりになりそうだ。三年に一度の大行事である。

 思えば三年前、ウチがこの行事の当番だったのである。上の写真はその時のものだ。今回は会場を移しての開催だが、僕は実行委員長の任にあって気が気ではない。エラいこっちゃ。しかし、もっと大変なのは開催当番寺院のご住職と、その檀家さんたちである。御心労さぞかしとお察しする。

 無事、大過なく終われることだけを、願うのである。

’06/10/19 (木)

結果待ち


 このタイトルは、2004年5月31日の日誌に載せたことがある。友達の厚意により、一時拝借したものだった。今日の写真は同タイトルのCDである。「XYLOPHONIE / Duo de Praga」(独BAYER RECORDS BR 150 005 CD)。CDとしての(P)は1996。ADの(P)は1985だから、CD化されるまでには随分と間があったわけだ。僕の手持ちには未だコレしかないのである。あれこれ手を尽し捜すのだが、なかなか見つからず今日に至る。

 CDだけを聴いていれば特に文句はなく、これはこれで良い音である。最初からCDのみのリリースならば、素直に喜べて幸せなのだが、元がADとあってはどうもイケナイ。

 実際、友達が貸してくれたADを聴けば、それはもう一聴瞭然ADの圧勝である。それまではCDがあればまァいいか、くらいに考えていたが、完全撤回。何としてもADを入手せねば収まらなくなってしまった、のは、幸せか不幸せか。

 先日、ADをweb上に発見した。すわ一大事と色めきたった。目の色が変わる、とはまさにこのことである。大急ぎで購入手順を踏むわけだが、さて、首尾よく入手に至るか否か。現状結果待ちである。

 待つことも、また楽し。

’06/10/18 (水)

ニホンシカ


 この秋は、これまでにも増して野生ニホンシカとの遭遇機会が多くて驚いている。裏山から「ピューン」と大きな声が聴こえるばかりか、ここ数日は母屋から箱船へ移動するたび毎晩1度はお目にかかれるのである。いつも柿の樹の根元で何かを食べているようだ。虫か、何かの根っこか。

 おそらく同一固体だと思う。ちょうど写真に見えるくらいの、立派な角を生やした大きな牡鹿である。箱船入り口に身を隠すようにそっと覗くと、5mほどのところに、居るのだ。じっくり見たいし写真にも撮りたいし、でも突進してきたらコワイし、などと考えながら見ていると、さすが野生動物、敏感にヒトの気配を察知し、一目散に山へ逃げて行く。

 幼鹿を食糧にする、ホンドキツネの生息数が激減していると聞いた。その所為もあり、ニホンシカが増えているのである。数が増えれば餌に困る。自然の供給量だけでは賄えなくなるわけだ。そうなれば、人里へ出てきて空腹を満たそうとするのは当然である。昨年はトウモロコシを食われ、今年はなんと、観賞用ユリの球根まで食われてしまった。ニガくて美味くないはずだが。よほど困窮しているのかしらん。

 ここまで書いて今、箱船階段室の窓から外を見たら、今夜も、居た。やはり件の牡鹿のようだ。何とか写真に撮ってやろうと、デジカメのスイッチを入れたら、レンズが開く「ジーッ」という動作音に気付かれ逃げられてしまった。残念。窓は閉めたままだったのに。おそろしく鋭敏な聴覚と警戒心なのだなあ。

 でっかい野生ニホンシカと遮りもなく空間を共にするのは、えも言えぬブキミさがあり、しかし忘れ去っていた何かしらを思い出させてくれるような、不思議な気持ちになるのだった。

 ニンゲンも、等しく動物なのである。

’06/10/17 (火)

巡り巡って


 このレコードもまた、最近手に入った外盤A級セレクションものである。「Enchanted Carols」(英SAYDISC SDL-327)。(P)1981。第3集282番に収録されている。実はこのレコード、これまでヒジョーに悔しい思いをしてきたものなのである。

 最初の出会いは1989年、第3集が出版されて間もない頃である。秋葉原の石丸電気本店AD売り場(が、まだあった)「外盤A級セレクションコーナー」で。一度手に取ったが、たぶん他のレコードへ目移り(できるほどあったのだ)したか、当時SAYDISCレーベルは関西でも比較的容易に入手できたから後回しにしたかで、その時は買わなかったのである。

 次の出会いは1990年、京都市内のマイナーレーベル専門店で。「オルゴールのレコード」と書いたラックに、幾枚も重ねて置いてあった。もちろん新品である。まだ何枚もあるからこの次にしようと、他の入手困難(だと、その時は思われた)レーベルを買ったのだった。

 最後に新品を見たのは1992年。1回目に同じく石丸電気、この時は「SOFT 1」だった。やはり一度手に取りながら、何故買わなかったのか、僕はこの時のことをずっと悔やんでいる。それきりまったく見かけなくなってしまったのである。悔し紛れに同タイトルCDを買ってみたところで、ますます慙愧の念が深まるばかり。そうこうしているうちに、SAYDISCレーベル(実質同一レーベルだったAMON RAも)そのものが消滅してしまった。

 僕はこのタイトルには縁がないのかと、半ば諦めかけていたら、今回ひょんなことから入手できてしまったのである。純然たる中古盤だが文句はない。大喜びである。裏ジャケットには石丸電気の値札が貼ってあるままだ。ひょっとしたら17年前、僕が手に取ったあのレコードかもしれない。巡り巡って僕のところへ。

 一度実物を手に取りながら、逃してしまったレコードは他にもたくさんある。それを思うと悔しくて悔しくて、夜も寝られないのである。

 今後も諦めず、1枚1枚探して行こう。

’06/10/16 (月)

二代目へ


 「くずてつさんも是非パソコンを導入してください」と強くお薦めくださったのは、現在オーディオ評論家としてご活躍中の炭山アキラ氏だった。6年前の初夏のことである。

 氏によってもたらされたパソコンは、6年半経った今も現役で、しかし、さすがに御老体なんなんとして不グワイが多くなってきた。OSはすでにメーカーサポートも終了してしまったWindows98SEで、新しいアプリケーションなどは使えないものも多く、極めて不自由である。当時としては高速大容量だったCPUも古色蒼然、YouTubeの動画などはカクカクしてほとんど見ることができないでいる。そりゃあそうだ、導入した2000年当時は、アナログ回線テレホーダイ全盛の時代だったのだから。

 最近困っているのは、特定のwebページでブラウザが頻繁に強制終了してしまうことである。当初はI.Eでその症状が現れ、ネットスケープナビゲーターに乗り換えたのだが、近頃はそれでも同様の不グワイが頻発するようになってきた。原因は、わからない。アプリケーションの再インストールを実行すれば、正常に戻る可能性もあるのかもしれない。だが、メンドクサイのである。

 こりゃアそろそろ本当にパソコンの新調を考えねば、と思案投げ首していたところへ、心強い助っ人登場。自作PCファンの友達が、最新のマシンを譲ってくれるというのである。OSはちゃんとインストールしておくから、あとは好きなように使えばよい、と。

 6年間苦楽を共にしてきた現用パソコンには大感謝、このマシンのおかげで僕ははかりしれないほどの縁を得ることができた。無論、お薦めくださった炭山氏にも大大感謝である。

 役目を終えたPCは、二代目へ。

’06/10/15 (日)

歪まない音


 一言で「大音量」と称しても、やはりイロイロあるわけである。ただヤミクモにデカい音、よく調整された大音量。箱船で聴く大音量オーディオとは、どちらだろうか。願わくは後者でありたい、わけだが、さて。

 昔は間違いなく前者だったと思う。殊に箱船以前、母屋の2階でD-55を鳴らしていた頃は、自分が若かった所為もあり鬼面人を驚かせるような大音量をぶちかまし、大喜びしていた。それはそれで楽しかったのである。

 威勢の良さ一辺倒から、歪みを減らすことの重要さを意識し始めたのは、箱船へ移ってからである。しかもFE-208ESの出現がそのきっかけとなった、というと、2000年春くらいからになるわけだ。気付くのが遅いのである。

 それ以降の箱船オーディオは、専ら歪みを減らし、しかも鮮度、切れ、トランジェントを殺ぐことなく、大音量再生しても耳が痛くならないサウンドを目指してきた、つもり。あくまでも「目指す」のであって、今に至ってなお実現までは前途遼遠なのである。けれども方向としてはあながち見当外れでもないようだ。

 昔はどうにもこうにもカスカスでゴチャゴチャして聴くに堪えなかったロック系のソフトが、それなりの分解能、透明感を以って案外素直に聴けてしまったりするのである。それでいてかったるくもなく眠い音でもない。そのソフトがもともと持っている歪みは如何ともし難くとも、システムとしての歪みを減らせばこうなるわけかと、独り納得したり。

 もちろん優秀録音であれば効果はなお顕著である。シャープな切れ込みが身上だと感じていた録音に、しなやかさと繊細感が加わって鳴った日には、スケベな顔でニタリとしてしまうのである。ハタから見たらさぞ気色悪いことだろう。

 耳のためにも、歪みの少ない美しい音で、聴きたいと考えるのである。

’06/10/14 (土)

耳は大切に


 MJ誌上で、今年の7月号から連載が始まった「音とオーディオの科学」(平田能睦氏執筆)という記事を、毎号興味深く読んでいる。少々難解な部分もあるけれど、なかなか面白いのである。

 今号は第5回「音を聞き分けるしくみ」というテーマであった。人間の耳とは実によくできていて、オーディオ的に言えば「ダイナミックレンジ130dB、自動利得制御装置つきの超高感度マイク」ということになるそうだ。

 外耳道から入った音波は、まず鼓膜を振動させる。この振動は、中耳にある小耳骨を経て内耳へと伝えられ、蝸牛で電気信号に変換されて脳へ伝わる。

 小耳骨は3つのパーツに分かれていて、それぞれ、つち骨(鼓膜の中耳側に付着)、きぬた骨(つち骨とあぶみ骨の中間にあり両者を連結)、あぶみ骨(内耳の入り口にある前庭窓という薄い膜に接続)と名づけられている。鼓膜の振動はこれらの耳小骨の作用によって増幅(或いは減衰)され前庭窓へ、さらには蝸牛内部へと伝えられるわけだ。

 つち骨とあぶみ骨には、それぞれ小さな筋肉(耳小骨筋)がついている。このうち、あぶみ骨筋はあぶみ骨と前庭窓につながっていて、大音量に反応して収縮することで耳小骨の動きを抑える。一種のダンパーとして働き、音を伝わりにくくするわけだ。この反応を「聴覚反射」といい、大きな音によって繊細な内耳が受けるダメージを軽減するのである。

 蝸牛はカタツムリのような渦巻き形の器官である。内部はリンパ液で満たされている。蝸牛の中にあるコルチ器官には、有毛細胞(聴細胞)という特殊な細胞がおよそ20,000個も集まっていて、それにはウブ毛のような小突起(感覚毛)があり、リンパ液の中へ伸びている。

 耳小骨から内耳の前庭窓へ伝えられた音の振動は、このリンパ液と感覚毛を揺らす。蝸牛の各所にある有毛細胞はそれぞれ異なる周波数の音に反応(バンドパス・フィルターみたいだ)し、その振動を神経インパルスに変換する。神経イ ンパルスは蝸牛神経を伝わり脳へと伝達され、ようやく「音」として認識される。これだけのことを、瞬時にやってのけているのである。

 メカニカルダンパー機能の「聴覚反射」による防御作用があってもなお、度を越した大きな音は有毛細胞を破壊することがある。これは深刻だ。

 有毛細胞はひとたび破壊されると二度と再生しないのである。大きな音に長時間、習慣的に曝されていると有毛細胞の損傷が進み、聴覚機能が著しく低下する。いわゆる「難聴」である。インナー型ヘッドフォンによる長時間大音量聴取は、特に危険である。

 斯く言う僕も他人事ではないのである。「ワシは大音量派だ」などといい気になっていては、遺憾。ヘッドフォンとは違い、発音源(スピーカー)と鼓膜の間に充分な距離があれば問題は少ない、という説はあるものの、用心するに若くは無し。聴覚は、極めて繊細微妙な機能とバランスで成り立っている。今後も永くいい音を聴きたければ、馬鹿げた大音量は自重すべきだ。

 耳は、大切にしましょう。

’06/10/13 (金)

やっぱりAD


 「MARSHLAND」を聴いた。6日にも書いた通り、このレコードは外盤A級セレクション第3集のどん尻300番に紹介されている。見出しには「歪み感がなく、リスナーをPerc.群の中に閉じこめてしまうよう」とあり、僕はここを読んだだけでどーしても欲しくなったのである。

 未開封新盤だけに盤は非常にきれいである。当たり前のようだが、米盤はそうとばかりも言えない。あっと驚くミスプレス、というような盤もままあるから、「Factory sealed」の看板を鵜呑みにして安心しては遺憾のである。今回は、問題なしでヨカッタヨカッタ。

 長岡先生の評にある通り、鮮度抜群歪み感皆無の優秀録音である。ほんの僅か、音に冷たさがあるような、どちらかと言えばドライでハードな傾向である。米レーベルにありがちな音だとも言える。「音場感に多少の不満はある」という評もよくわかる。やや水平整列型で、自然な定位、奥行き、高さなどの表現はイマイチである。マイクの数とセッティングに因があるのかどうか、それは僕にはわからない。

 基本的にはドラム、打楽器とベースのデュオだが、全曲飽きずに聴ける。演奏は音同様抜群である。主役はジョージ・マーシュのドラムになるわけだが、メル・グレイヴスという人のベースがまたいい。ぐっと締まってソリッド、脂肪分を削ぎ落とした筋肉質の低域は一聴の価値あり。昨日載せたレコードに同じく、ADでないと聴けない音である。

 やっぱり、ヤメられませんな。

’06/10/12 (木)

時は流れて17年


 いささかの不審感を持ちながらも、無事に届いていれば結果オーライである。

 今回「MARSHLAND」ともう1枚、一緒に買ったのは上のADである。「BASS DRUM BONE / WOOFERLO」(伊SOUL NOTE 121 187-1)。(C)(P)1989。伊SOUL NOTEは、伊BALCK SAINTと実質的に同一レーベルで、ジャズ専門のレーベルである。ジャケットはビニール引きの豪華版、洒落たディザインと美しい発色は、さすがイタリアというところ。優秀な録音が多いのも特長の一つだ。

 このADはその昔、AV FRONT誌(共同通信社刊 休刊中)1989年9月号の「DISC HOBBY」で、長岡先生が紹介されたものである。タイトル通り、ベース、ドラム、トロンボーンのトリオで、ジャズを演奏する。編成はシンプルだが、どちらかといえば前衛ジャズである。取っ付きにくさはなく、比較的ジャスがニガテな僕でも充分楽しめるものだ。1987年11月2〜3日、ミラノのバリゴッツィスタジオで録音。レコーディング・エンジニアの名が「ジャンカルロ・バリゴッツィ」とあるから、この人の持ちスタジオなのだろう。

 長岡先生の評を一部引用する。

 「録音は素晴らしい。トロンボーンが厚く力強く、ズバリと切れこんで絶品、シンバルの音像も小さく、ベースもナチュラル。デッドなりに音場感もいい」

 この記事を読み、僕がすぐに買ったのは当然だ。当時、京都市内にマイナーなレコードばかり専門に扱う店が、あったのである。ジャケットも盤も録音も優れたこのレーベル、しかしどういうわけか廉価盤扱いで、新盤なのに800円〜1,000円と、非常に安く買えたのはありがたかった。

 それから時は流れて17年、2枚目を入手したわけである。開封新盤で$20。当時の倍以上だ。馬鹿げていると思うか、よくぞ市場にあったと喜ぶか。僕は後者である。

 久しぶりに聴いてみた。ヒジョーに良い音である。特にシンバルの繊細感は特筆すべきものだ。立ち上がりが良く、生本来の鋭さを持ちながら、極めてしなやかで透明。決して耳障りにならない。この音、CDでは絶対に聴けないものである。

 1989年。この頃が、ADをまともに買えた最後の時代だったかもしれない。

’06/10/11 (水)

開封検査の基準は


 6日の日誌に載せたADが届いた。例によってアメリカからの荷物である。最も安全確実で速く届くのは、UPS(United Parcel Service)、或いは国際宅急便であることは皆さんご存知の通り。国内便とさほど変わらないくらい速いし、荷物の追跡調査も可能である。但し、その分送料は高い。

 何十枚もまとめて買う時には良いけれど、ADを1〜2枚、なんてえ時には現物より送料のほうが高くなってしまってCP最低。僕はほとんどの場合、国際航空郵便で送ってもらうことにしている。これでも1週間、速い時には4日ほどで届く。ただし、トレーサー機能はないから、用心深い人には不向きとも言える。

 今回も例に漏れず国際航空郵便での発送で、注文から6日で届いた。速いほうである。荷物を見ると、ショップが封じたテープが切られ、「JAPAN POST」と刻印されたテープで封じ直してある。写真のとおりである。明らかに一度開封してあるわけだ。

 これは特に珍しいことではなく、今までにも体験している。ただ、ちょっと不審に思うのは、毎回必ず開封してあるわけではないことだ。感じとしては、10回中3回程度、くらいか。

 どのような基準によって開封検査しているのか、それがよく分からない。荷物の大きさ、重さ、荷姿、いずれでもないようだ。税関の検査官が「アヤシイ」と思ったものを恣意的に選んでいるのか、それとも無作為抽出して開封しているのか。

 開封されてヤバいようなブツは入っていないから、開けたきゃ勝手に開けるがいい。文句があるのは再封印のしかたである。

 ショップは、箱の4辺すべてをナイロンメッシュ入りのガムテープできっちりと封じてくれている。それに比して「JAPAN POST」はケシカラン。2辺だけ、しかもなげやりに紙テープを貼ったのみ。箱の口部分は、完全に開封状態である。これで中身に不都合が起ったら、ちゃんと補償するのかJAPAN POST。

 何だか釈然としないのは、僕が世間知らずなだけか。

’06/10/10 (火)

急務出来


 明日11日は早朝から本山〜東福寺へ出かける予定、が決まったのは今年の春である。ある程度まとまった人数での出かけだから、半年間かけてそれなりに準備してきたわけだ。ところが、急な業務が出来し、僕は行けなくなってしまった。

 幹事役が不参加となれば、やはり問題があるわけで、しかし業務はどうしようもなく急を要している。全く以っていつもながら、このパターンには苦慮するのである。

 今日は各方面への調整に追われ、やれやれグッタリである。しかし、本当に大変なのは、急遽僕の代わりに幹事役を務めねばならなくなったところのK氏である。実は昨年も全く同じ状況だったのであって、2年連続で代理をお願いしている。何とも申しわけないことだ。今年も快諾してくれたK氏には、心から感謝せねばならぬ。

 旅の無事を、願うばかりである。

’06/10/09 (月)

1stエディション


 腰を落ち着けてオーディオできないでいる。尤も、まずは業務ありきだからそれでいいわけだが、こういう時に限って良いADが続けて入手できてしまうのは、いつも不思議に思うことである。

 上の写真は彼の有名な、「カメルーンのオペラ」(仏ocora 558536)である。外盤A級セレクション第1集92番。そこに紹介されているものと全く同じ、1978年の1stエディション盤である。

 この盤はocoraレーベル異例の大ヒットになったと聞いている。1978年の初版以来、1984、1985、1986、1989と、4回もリエディションされているのはその証左である。僕がこれまで持っていたのは、1990年3月31日に買った1989年4thリエディション盤で、1stとはジャケットが全く違う。同じ聴くなら1stが良いと思うのは人情、ずっと探し続けてきたがなかなか出会えないでいた。

 先日、親しい友達が「コレ、聴かないからあげる」と、何だかヒジョーに気楽に手に入ってしまったのだった。一瞬拍子抜けしたが、もちろん僕は大喜びである。とても嬉しかった。ありがとうございます。

 ジャケットが違うのはもちろん、プレスも同じではないようだ。盤質はリエディション盤よりも硬めで、やや厚く重い。表面にも艶があり、明らかにこちらのほうが良い音がしそうである。やはり1stに一日の長あり、か。

 早く聴いてみたい、が、なかなか叶わない。行事ラッシュが済むまではオアズケということで、仕方ないのである。

 10月が無事に終われば。

’06/10/08 (日)

行事ラッシュ


 いよいよ行事ラッシュが始まったのである。7日はその第一弾、どうやら無事に終われてほっとしている。中3日で11日は大勢で本山妙心寺へ出かけることになっていて、昨夜からその最終確認と準備でドタバタしている最中なのであった。落ち着いて日誌を書いている時間がありません。

 予想通り今月は、かなりキビシくなりそうである。

’06/10/07 (土)

AD圧勝完勝


 先月28日の日誌で話題にしたレコードが届いた。初めて聴いてから実に29年6ヶ月を経ての入手である。何をか言わんや。「STARCASTLE / FOUNTAINS OF LIGHT」(米Epic PE-34375)。(C)(P)1977。

 純然たる開封中古盤、さすがにジャケットは擦り減ってハゲちょろけであった。30年間歴戦の勇者、という感じ。肝心の盤は、外観に相違して非常にきれい、新盤同様である。センターホール周辺のさぐりキズも皆無で、おそらく前オーナーさんはほとんど聴かなかったに違いない。なのにジャケットがスレているのは、この隣りにあったレコードを頻繁に出し入れしてたのかしらん。

 一聴して、CDとの違いがあまりにも大きいのに驚いてしまった。どこがどう、となど言えないほど、音の成りが違うのである。ズバリと言ってしまえば、AD圧勝完勝である。

 ADはレンジがうんと広く、情報量も圧倒的に多く聴こえる。歪み感もぐんと少なく、大音量でもうるさくならない、と言うよりも、大音量のほうが楽しく聴けるほどである。こーゆーことを書くと「CDより歪みが少ないADなどあり得ない」というご指摘もあろうかと存ずるが、実際聴いてそうなるのだから仕方がない。特にオーディオに関心がない人に聴かせても、同じ印象を持つはずだ。

 尤も、音楽が音楽なので、いわゆる優秀録音盤ではないのである。あくまでも同じ内容のCDと比較してお話だ。

 この差は、フォーマットの違いだけによるものではないだろう。大元のマスターテープ、或いはマスタリングなどの差が出ているに違いない。最近話題に上るところの、'70年代ハードロックディジタルリマスター盤のように丁寧に作れば、CDだって決して悪くないのである。ソフトを作る上で最も重要なのは、「人」というソフトウェアなのである。

 オーディオシステムを生かすも殺すもソフト次第。実は自分自身こそが、オーディオシステムのOSであったりするわけだ。箱船の場合、どうにもバグの多いOSで遺憾。今さらヴァージョンアップもできんし、困ったモンである。

 ともかくも今回のADは、大当たりでした。

’06/10/06 (金)

211


 「長岡鉄男の外盤A級セレクション」全3集に紹介されているレコード300タイトル中、182タイトルを入手できた、と日誌に書いたのは、2001年12月8日だった。それからほぼ5年、ひさしぶりに未入手タイトルが見つかったのを機に、どれくらい増えているのか調べてみたのである。

 第1集76/100、第2集77/100、第3集58/100。計211/300。5年間で29タイトル増えたことになる。入手率70.3%。自分で発見したものの他に、友達の厚意で譲ってもらったタイトルもたくさんある。コムプリートまであと89タイトル、まだまだ程遠い数字である。

 今回見つけたのは上のタイトルである。第3集300番「MARSHLAND / George Marsh」(米1750Arch S-1791)。普段から頻繁にチェックしているレコードショップで、しかし滅多に見ない「Arch」のページを何となく覗いてみたら、そこに載っていたのだった。9月29日の新入荷だそうで、非常なグッドタイミングだったわけである。

 第1集初版が出たのは1984年7月16日だから、もう22年も前になるわけだ。最新の第3集初版('89年6月16日)からでも17年である。掲載レコードの入手は、年々困難になるばかり。おそらく僕が100%に到達するのは不可能だろう。だからと言ってヤメるつもりはゼンゼンないのである。

 レコード探しの極意は、メゲず、腐らず、諦めず、ですから。

’06/10/05 (木)

原盤に一日の長あり


 SCRレーベルによる仏HM180g復刻盤の試聴、の前に、はやる気持ちを抑え、まずはHMオリジナル盤を聴いておこう。

 HM1003は、昨日書いた通りヒジョーにいい音である。文句なし。HM379は久しぶりに聴いたけれど、やはり素晴らしい。どちらも1970年代後半の録音である。まだマイナーレーベルだったこの頃の仏HMの音には、何とも言えない魅力(魔力と言ってもよい)がある。

 で、SCR復刻盤である。先にHM1003から聴いた。冒頭、一聴して明らかに違うのは、低域である。厚みがある、と言うよりは音が太い感じだ。締まりはやや不足気味で、弦の張りがゆるくなったような印象を受ける。だが、ダブついているというのでもなく、なかなかパワフルである。この辺り、180g盤のメリットが出ているのかもしれない。

 中〜高域の切れ、見通しの良さ、透明感などはオリジナル盤に一日の長あり。復刻盤は低域が太いこともあり、ややかぶり気味か。金属打楽器の浸透力、太鼓の立ち上がり、管楽器の伸び、弦楽器の切れ、どこを取ってもオリジナル盤優位。復刻盤もそれだけを聴いていれば何ら問題のない優秀盤だが、オリジナルを聴くと薄いベールがかかったように聴こえるのは否めない。

 この印象はHM379でも同様である。低域は厚く豊かだが、クシの歯を擦って出す「ジーッ」という音の分解能、トライアングルの清澄さ、イビサ島の貝殻の硬さ、要するに質感という点においてもう一息の感あり。

 両タイトルとも音場感の良さが際立つ録音である。復刻盤はその点でもやや落ちるように聴いた。晴々と隅々まで見通せる感じが、もう一息不足する。仏HM魔力が、薄められているのである。難しいものだと、思う。

 結論としては、オリジナル盤の勝利。だが、だからと言って復刻盤はがダメダメ、ということには全くならない。オリジナル盤は例外的に優秀なのであって、復刻盤も一般的水準以上の良い音である。何より新盤で手に入るメリットは大きく、それだけでも存在価値は充分にある。

 個人的には買って大正解。今後リリース予定されている「ロバの祭り」「ヴィリャンシーコ」の2タイトルも、僕は当然「買い」である。「アラブ-アンダルシアの音楽」(HM389)や「「トゥルバドゥール」(HM396〜398)なんかも、出してくれないかしら。

 回を重ねるごとに、良くなって行くのが通例だから。

’06/10/04 (水)

仏HM復刻盤


 以前から気になっていたレコードを買った。米SPEAKERS CORNER RECORDS(以下SCR)による180g復刻盤である。

 SCRは、以前から英DECCAや米MERCURY、独DGなどの名録音盤を180g盤に復刻してきた有名なレーベルである。僕も数タイトル持っている。最近になって仏hamonia mundiレーベルの復刻も始めたことを、海外レコードショップを徘徊していて知った。現在リリースされている(或いは、されようとしている)タイトルは次の4つ。

「DANSES ANCIENNES HONGRIE / CLEMENCIC CONSORT」(HM 1003)、「La Fete de L'ane / 同」(HM 1036)、「Tarentule-Tarantelle / ATRIUM MUSICAE DE MADRID」(HM 379)、「VILLANCICOS / 同」(HM 1025)。このうちHM1036とHM1025は、今のところプリ・オーダー扱いである。

 今回はリリース済みの2タイトル、HM1003とHM379を買ってみた。もちろん新盤である。

 HM379は、長岡先生ファンの間ではよく知られたタイトルである。外盤A級セレクション第1集15番に取り上げられている。HM1003は、セレクションには載っていないけれど、確かどこかで紹介され好評価を得ていたはず、と思って調べるのだが記事が出てこない。これを書きながらもヒッシで考えている。どーしても思い出せないのである。ご存知の方がいらっしゃいましたら、是非ご教示ください。

 両タイトルとも、HM原盤を持っている。HM379は言うに及ばず、1003も非常に優秀な録音であって、僕の大好きなレコードのうちの1枚である。ピチピチと活きが良く、ツヤツヤしていて実にいい音だ。一音一音に伸びと張りがある。響きがとても美しく、「ハンガリーの古いダンス音楽」と題する通り、聴いているとウキウキして一緒に踊りたくなるような楽しい音と音楽である。

 さて、斯くの如く優秀なこのレコードが、SCRの手によって「Hi Quality Pressing / Audiophile Mastering」と銘打った180g盤に復刻されると、どーゆーことになるのか。非常に興味深いのである。

 明日は「Trentule-Tarantelle」も併せたイムプレッションを書いてみたい。

’06/10/03 (火)

六周年


 現在、2006年10月3日午前零時30分。6年前の同じ日、同じ時間、僕は「船長の戯言」を初めてweb上へ転送しようとしていた。今日は6周年の日である。

 毎年毎年、この日には同じようなことを書いている。過ぎ去った時間を顧れば、それはまさに夢の如し。とても6年も経ったようには思えないのである。

 しかし累積カウンターに目をやれば、この日を待たずして100万アクセスを超えているのである。毎日ご閲覧いただいている皆さんが、一つ一つ積んでくださった、貴重な数字だ。おかげさま、と申し上げるほかないのである。昨年からの1年間では220,000件を超える。過去最高である。心から御礼申し上げたい。ありがとうございます。

 この6年、webもオーディオも大きく変ったと思う。それに比して拙「船長の戯言」は何の変化もなく、相変わらず駄文拙文をただ重ねて行くばかりである。申しわけなくもあり、しかし、変化の速度、度合が激しい昨今にあって一つの形を変えずに続けることも、まあいいのではないかと、これは己が無能さを無理矢理正当化しているに過ぎないのである。

 そう、僕如きの者が、曲りなりにでも続けていられるのは、何と言っても毎日ご閲覧くださる方々がいらっしゃるからこそ。7年目に入るに至っても、これまで通りにやって行くよりなく、今後とも、何卒よろしくお願い申し上げたいのである。

 改めて御礼申し上げます。皆さん、本当にありがとうございます。

’06/10/02 (月)

唯一のMM


 僕が持つ唯一のMMカートリッジ、SHURE V-15 TYPE IVである。大昔、友達からもらったものである。その友達も誰かからもらったらしく、箱も取説も付属品も何もない状態だった。

 当時は口頭で「針圧は○○g」と聞いたはず、だったがすっかり忘れてしまい、結局一度も使わないまま大アクビしている。いったい何時から働いていないのか、それすら判然としない。気の毒なカートリッジなのである。

 音元出版社刊analog誌最新号(第13号)を読んでいたら、「SHURE V-15の世界」と題した神崎一雄氏の評論が載っている。ちょっと嬉しかった。

 V-15 TYPE IVの諸元は次の通りである。出力電圧3.2mV、負荷抵抗47〜70kΩ、自重6.4g、ブロックダイヤ超楕円スタイラス、針圧0.75g〜1.25g。となっている。適正針圧を±0.1〜0.2gの範囲に収めねば遺憾ことが多いMCよりはかなりブロードである。ダイナミック・スタビライザー付であることも関係しているのだろう。

 記事のおかげで詳細が判明したことだし、一度聴いてみようかしら。×20ルーペで調べたら、針先には問題ないように見える。あとはカンチレバー、ダンパーなどの振動系と、磁気回路が健全であればちゃんと鳴るはずだ。

 さて、どんなものかな。

’06/10/01 (日)

やたらと忙し


 2006年も、あっという間に10月である。あと3ヶ月足らずで2007年が来るとは。

 先月1日のタイトルに「秋風立ちぬ」と付けたが、今日は本当に秋になってしまった感じ。昨日まで空には入道雲が盛り上がっていたのに。やはり近年の季節交代は、ある日突然起るのがトレンドであるらしい。

 今月は、業務関係の公的行事が山のようにあり、只今それらの準備で頭の中はゴチャゴチャである。すべてを上手くコントロールすることなんか、僕にはできそうにもない。ヒジョーに困っているのだった。

 良寛さんみたいな日常を過しているオボウサンって、ホントにいるのかしらん。