箱船航海日誌 2004年05月

日々雑感、出来事などを思いつきに任せて綴っていこう

過去の日誌コンテンツ

’04/05/31 (月)

実り


 今回のお客様ご来訪は、とても実り多いものになった。貴重な音の記録が残せたこと、滅多とない出会いがあったこと、そのおかげで新しいオリジナルアイテムの実現に目途が付いたこと、入手困難なソフトをお借りできたこと、等々。すべてご来訪の方々のおかげさまである。またまた感謝。ありがとうございました。

 上の写真は、ご厚意によりしばらくの間お借りできることになったADである。「XYLOPHONIE」(独RBM RBM3080)。長岡先生の外盤A級セレクション第3集273番に取り上げられる、優秀録音盤である。ベナ・ハヴルのシロフォン(木琴)、ルドルフ・ロートのピアノの二重奏。

 CDは数年前に店頭で見つけて買った。ADのほうがどうしても手に入らない。ことある毎に捜し続けてはいるのだが。中古市場でもあまり見かけない、たぶん入手困難盤なのだろうと思う。

 CDがあればそれでいいじゃないか。と、僕も一時は思った。だが、ADを聴いてしまってはもうイケナイ。ゼンゼン音が違うのである。特に差が出るのは、音のイムパクトである。バチが木琴に当った瞬間、ADでは音が瞬時に立ち上がり抜けがヒジョーに良い。木の微妙な堅さ、柔らかさ、要するに質感が極めてリアルに出るのだ。CDではこれがイマイチ。ややプラスチッキー(こんな言葉はないケド)になってしまうのである。

 僕は、とてもうれしい。オーナー氏も中古で入手されたようで、キズはほとんど無いが多少の汚れはあるようだ。聴かせていただける御礼に、できる限り綺麗にしてお返ししよう。

 持つべきものは、仲間、である。

’04/05/30 (日)

画策 Mk II


 なにやら良からぬことを相談中の二人である。ご持参のノートパソコン上で怪しげ(失敬!)な図面を開き、怪しげなブツを設計中。何ができるんでしょーか。こうして箱船オリジナルアイテムは生み出されて行くのである。

 お三方とも、今回は本当にお疲れさまでした。皆さん、大変ご遠方からお集まりくださって、僕はありがたすぎてナミダが出そうになりました。そのわりにまともなおもてなしができず、申しわけないことでゴザイマス。ありがとうございました。再会できることを、楽しみにしております。

 ひたすらに、感謝感謝。

’04/05/29 (土)

画策


 画策とはこういうことである。OCORAならぬOTERAレーベルを立ち上げようという、神、イヤ仏をも畏れぬ行為に出てみるわけである。

 その第一作、仕上がりや如何に。それはまた後日、改めて報告したい。録音エンジニアには何の問題もない。あるとすれば、音源の側である。

 どーだったかなァ。

’04/05/27 (木)

移動しただけ


 明日は、とても遠くに住む友達が、2年ぶりにやってくる。今回は音を聴くだけでなく、他にもいろいろ二人で画策していることがあるのダ。これが上手く行ったら、また報告したいと思う。今のところ、それはヒミツです。って、そんなにモノスゴイことではないのだけれど。

 お客様を迎えるというのに、相変わらず箱船は雑然としている。散乱した雑誌類を、これでも片付けた、つもり。マンガ週刊誌の類は全部しばって外へ放り出した。要するに、片付けた、というより置き場所を移動させただけである。整理がヘタクソなのは、ヒジョーに困る。整理の極意は捨てることと見付けたり。捨てられないンだなあ、僕は。

 というわけで、明日、明後日は画策実行に忙しく、日誌は更新できないかもしれない。よろしくご了解いただきたいのである。

’04/05/26 (水)

おっさん殺し


 500,000アクセス、ありがとうございます。こんなに沢山のご閲覧をいただけるなんて、ページ立ち上げ当初には思いもよりませんでした。皆さんのおかげさまです。今後とも、どうかよろしくお願い致します。


 さて今夜は、昨日載せたタイトルについて、少々補足しておきたい。

 「Frampton Comes Alive!」の演奏者、ピーター・フランプトンは、最初からソロ活動していたわけではない。知る人ぞ知るハードロックの雄「ハンブル・パイ」のオリジナルメンバーなのである。彼とスティーヴ・マリオットが中心となって結成されたグループである。

 最初は仲良くやっていたわけだが、だんだんやりたい音楽に相違が出てくる。ピーターはロックというよりはライトなポップ派、スティーヴはヘヴィーなゴリゴリ骨太ロック派。たぶん二人で主導権を争ったのだろう。勝ったのはスティーヴのほうだった。

 他のメンバーもスティーヴ同様ゴリゴリ好きだった所為だろう。ピーターはやがてグループ内で孤立し、ついには独り脱退するのである。上の画は、ピーター脱退後、'72年に発表されたハンブル・パイのアルバム「Smokin'」(米A&M SP4342)だが、この楽曲はあまりにもピーターのイメージとはかけ離れている。箱船の音が好きな人の中に、タンノイファンが混じっているようなものである。それとはちょっとチガウか。

 ピーターの脱退は、双方にとって結果的に大正解。両者とも、それぞれが思いのままに好きな音楽を演れるようになったのだから。メデタシメデタシ。

 商業的に見ると、これはもうピーターの圧勝である。確かにハンブル・パイは玄人好みのするグループで、マニアの評価は高い。しかし、何100万枚というようなアルバムセールスは挙げていないはずだ。一発屋の感もあるピーター、それでもライブ盤1,000万セットは凄い。何が幸いするか、分からないのである。人間万事塞翁が馬。

 28年前、15歳の僕はピーターのほうが好きだった。ハンブル・パイは重くて暑苦しくて、特にドラム(ジェリー・シャーレイさんといいます)がドッタンバッタンしていて厭だった。明らかにノリ遅れているのにちゃんと合ってる、というフシギなドラムなのである。

 43歳にならんとする今、「こりゃあカッコエエ」と感じるのは、ハンブル・パイのほうなのである。このダウン・ビート感が堪らん。ティーンエイジャー向けピーター・フランプトン、おっさん殺しハンブル・パイ。

 ルックスも、そんな感じだし。

’04/05/25 (火)

日にち薬


 このタイトルを買ったのは、トゥイーターT-300Aを導入した直後だった。昨年9月下旬のことである。「Frampton Comes Alive!」(米A&M B0001017-26)。SACDである。このタイトルは、ご存知の方、お持ちの方も多いと思う。

 1976年発表、当時AD2枚組で発売されたものだが、おっそろしい売上を記録したことで有名である。確か1年で700万セット、最終的には1,000万セットまで行ったと記憶する。僕はAD発売と同時に買い(つまり28年前)、その数に貢献したわけだ。買っておきながらナニだが、有体に言って何故そんなに売れたかよく分からない。それほど凄いモンでもないと、ボカァ思うのだが。ファンの方、ゴメンナサイ。

 ADは国内盤である。音はイマイチ、一聴してレンジが狭い。ロックならこんなものである。そこへリマスターSACDが出ていると聞いて、少しは良くなったのかと興味本位で買ってみたわけである。

 う〜む、こりゃやっぱりハズレかな。確かにレンジは広くなっているようだが、かなりのハイ上がりである。低域不足、と言うよりは、ハイのエネルギーが強すぎる感じ。8kHz〜10kHzあたりにピークがあるので、ヒジョーに耳に障る。埃っぽさは少ないけれど、歪みが乗る。如何にもヒステリックな音である。

 と、感じたのはT-300A導入直後のこと。コイツは遺憾としばらく放置してあったこのタイトルを、8ヶ月経った今、改めて聴くと。

 ハイ上がりなのは相変わらずだが、歪み感がずいぶん減った。驚くほど少なくなったと言ってよいと思う。ピーキーな感じもあまり気にならない。耳に障らなくなったのである。ツッパリ感とヒステリックさも取れた。優秀録音とは言えずとも、ロックでこれなら立派だ。

 この変化は、偏にT-300Aのエージングによるもの、としか言い様がない。常々エージングエージングとお題目のように唱えていながら、ここまで明らかな差がついてしまうと、改めて思い直すのである。やはりエージングは極めて重要だ、と。

 オーディオに性急さは禁物である。聴き齧って即決し「コリャダメ」と捨ててしまっては、遺憾のである。ひょっとするとその中に、光り輝く自分の音が隠されているかもしれない。

 焦らず、クサらず、諦めず、決め付けず、ゆっくり行きましょう。

’04/05/24 (月)

長いトンネルのむこう


 親しい人に、別れを告げるのも告げられるのも悲しい。しかし、こんなふうにお別れできるのならば、それはそれで素晴らしいことだと思う。「死」は決してすべての終りではない。否、見方によっては「すべての始まり」かもしれないのである。

 「わすれられないおくりもの」(評論社刊 スーザン・バーレイ作/絵 小川仁央訳 ISBN4-566-00264-0)。全24ページの短編童話である。多寡が童話と侮ること莫れ。この内容は、深い。是非ともご一読されることを、お薦めしたいのである。

 「長いトンネルのむこう」とは、どんなところなのでしょう、アナグマさん。

’04/05/23 (日)

生者必滅会者常離

 「インターネットが登場する以前は家族や親戚あるいは友人、会社の同僚など、よほど社交性のある人意外は、人の死別で落涙する回数は限られたものとなっていた。しかし現在我々は人類史上初めてといって良いぐらい、人の死別と接する機会の多い《環境》になっている 。
 もしその時その場面になって人はなんと語るだろう。『こんなに出会いがあって私の人生は幸せだった』と語るのか『次から次へとなじみのHPが閉鎖されさびしい』と語るのか。いずれにせよ我々は人類が今だかつて経験したことのない『数多くの別れ』を体験する最初の世代になることだけは間違いない」


 上記は、先日AE86さん「自作派ホームシアターwforum」にあった、やぴぴの兄さんのメッセージの一部である。やぴぴの兄さん、ご無礼ながら転用させていただきました。ありがとうございます。

 全くその通りだと思う。ネットによるたくさんのご縁を、今のところ喜んでいるが、将来は未曾有の悲しみとなって僕らを襲うのである。別れの時は、否応無しに必ずやってくる。できれば多くの悲しみを味わう前に、オノレが先に逝きたいと思う。しかし、これに自己決定権は無いのである。

 最近すっかりご無沙汰の友達がいる。最初のご縁はネットを通じてのものである。その後、幾度か箱船に来訪、ずいぶん親しくなったのだった。その彼が、昨年末にメールがあったのを最後に、プッツリと音信が途絶えてしまった。以降半年近くの間、何の連絡もない。

 一度気になりだすと心配で夜も寝られない。1週間ほど前にメールを送ってみたが、これまた返信がない。益々気になるのである。もし、万が一のことがあっても、おそらく僕には連絡などないだろう。以前、体調を大きく崩したことのある人だけに、いよいよ心配で心配で。

 と思っていたら、ありました。返信が。ああ、ヨカッタ。どうやら無事に生息(失敬!)していたようである。仕事がメタクソに忙しかったのだそうな。「便りのないのは元気な証拠」というのは、自分に対する言い聞かせ、自己欺瞞だということがよくわかった。やっぱり音沙汰がないと心配するのである。今後は時々連絡チョーダイ。お願いしますよ、ほんとにもう。

 今回は笑い話で済んだけれど、20年、30年後には確実に悲しい知らせが増えるだろう。そのとき僕は「我が人生は幸せだった」と言って終わりたいと、希う。

 だからこそ、今のご縁を大切に。

’04/05/22 (土)

働けるありがたさ

 忙しい忙しいと、言うヤツほど大したことをしていない、という話がある。だからあまり言いたくないのだケレドモ、ついゆーてしまうのである。ああ、忙しい、と。

 先々月くらいからずっと思っている。来月になれば少しは楽になるかと。しかしその予想はことごとく外れているのである。僕のボヤきを聞いた隠居は言うのだ。「オマエくらいの歳にヒマでヒマで仕方がなかったら、人生終わっとるぞ」と。

 ナルホド。今僕は、働けるありがたさを、須らく味わうべし。なのだろうなあ。

’04/05/21 (金)

思うこと


 日誌のネタの困ったとき、僕がすることはいつも決まっている。ADを聴くのである。そうして頭にネタが浮ぶのを待つわけだが、どうやっても思いつかないことも多い。そーゆー時はどうするか。苦肉の策、困っていること自体をネタにしてしまうのである。今日は正にそれである。ご勘弁のほどを。

 原則毎日更新し始めて、既に3年半が過ぎた。よくやってるねとホメられたり、よほどヒマなんだなと揶揄されたりしながらの3年半。できるだけ休まないようにしているのにはちゃんと理由があるのだ。ヒマだから毎日更新しているのでは、一応ないのである。

 読んでくださる方々がいらっしゃるからなのはもちろんだが、もう一つは自分のためである。僕は生来意志薄弱中途半端な人間で、スキあらば怠けようとするタチである。もし、シンドイからネタが無いからといって安易に休むと、きっとそのままずーっと休んでしまうに違いないのだ。子供の頃から今に至る人生のテンカイを見ると、それは明らかである。

 ので、せめて好きなことくらいは続けてみようと、思うのだった。駄文でも、拙文でも、ネタ切れでも、恥曝しでも、ともかく書き続けること。僕にとってそれは、極めて重要なことなのである。

 こうした個人的事情により垂れ流す低品位日誌を、毎日読んで下さる方がいらっしゃるという事実。忸怩たる思いでいっぱいである。平身低頭、心から感謝するより他にない。

 ADを聴きながら、つれづれ思うことである。皆さん、ありがとうございます。

’04/05/20 (木)

シツコさも天賦の才


 このCDを買ったのはリリースとほぼ同時、'98年8月末のことである。既に6年経ったわけである。しかし次作は未だ出ない。このヒト、山下達郎が寡作なのは周知の事実だがそれにしても、インターバルが長い。旧作の焼き直しやベスト盤はいいから、そろそろ新譜をリリースして欲しいものである。

 尤も、この作品「COZY」(日ワーナーミュージック・ジャパン WPCV-7450)の前というと、'91年6月リリースの「ARTISAN」になるわけで、そのインターバル実に7年。周期の上から考えれば、まだ1年足らないのである。来年かな、新作のリリースは。なんちゅう悠長なヒトなのだろうか。

 もちろんその間何もしていないわけはないのであって、この「COZY」は、インターバル7年の間にせっせと録り溜めた40数曲の中から15曲を厳選したというものである。タツローさんが音マニアなのは有名な話。仄聞するところによると、凄い録音機材を揃えた専用スタジオを持つとか持たないとか。そういう環境下、こだわりぬいてCDを作ろうとすると、7〜8年かかっちゃうンだろうなあ。アメリカにはトム・ショルツ(BOSTONのギタリスト/リーダー)という、似たような人がいる。

 「天才は悉く粘着質である」。くずてつ大センセイの迷言である。天賦の才もあろうけれど、僕が見るところ一大事を成し遂げる人は、異常なまでにシツコイ。と言って悪ければ、絶対諦めない、何があってもメゲない人である。浮世離れした時間感覚を持つというか。それそのものが才能と言えなくもないわけだが。

 だからきっと、タツローさんもやっぱり天才なのだろうと思う。悠長なのではない。シツコイのである。メゲないのである。諦めないのである。

 その伝からすると、長岡先生も間違いなく天才である。年中「トカトントン」とかボヤきながら、ン十年に渡って600種にのぼるスピーカーシステムを設計されたのだから、これはもう諦めないヒトとしか言いようがない。

 先生のサル真似拡大版スピーカーを一つ二つ作り、ああもうシンドイ、などとは片腹痛い。これでもかというほど凡庸だ。「すぐ諦めるヒト」とは、僕のこと。

 幾千万の努力あってこその、天才である。

’04/05/19 (水)

新しいもの


 新しいデジカメは、旧いものよりかなり広角に撮れるようだ。前のデジカメでは、同じ撮影位置でここまで広い画角は取れなかった。部屋が異様に広く見えるのも、なんだかうれしい。考えてみれば全く無意味なのだケレドモ。実際にはこんなに広大な部屋では、ナイのだから。

 箱船1階の照明は白熱球によるものなので、色温度が非常に低いのである。撮影時にはホワイトバランス補正が絶対必要。「電球」モードで撮るわけである。

 ところがそれでも補正し切れないほど色温度が低い。前のカメラでは真っ赤、新しいほうではまっ黄色になってしまう。それを画像処理ソフト(といってもフォト・ショップのような上等なものではない)でさらに補正をかけるわけだ。新しいカメラで撮った画では、補正の効きが良いように感じている。前のカメラでは、真っ赤な画を補正するのに四苦八苦したものだが。安物のソフトも、相手が良くなればそれなりに働きが良くなるのである。

 使いもしない画を撮りまくっては補正して喜んでいる。バカですな。ディジタル関連機器は、新しいもののほうが優れていると、また思い知るのだった。

 そう言えば、僕のPCも丸4年が経とうとしている。OSはWindows98のまま。間もなくサポートも終わるというし、いささか古くなった感が強いのである。

 炭山さん、時が経つのは早いものですねえ。

’04/05/18 (火)

いささか手直し

 幾久しく放置してきた「スピーカー達」ページを、少々手直しした。ページ冒頭、Sネッシーの写真が旧く、新しく撮りなおして入れ替えた。それに併せてキャプションも加筆、完成直後から今に至るを分かり易くした、つもりである。

 サブウーファーの記述も加筆した。未だにユニット交換していないことの言いわけである。メンドクサイだけでした、と言えればらくちんなのだが、実はそればかりでもない。7年酷使のE-145、今もエージング進行中らしいことが分かってきたのである。丈夫なユニットですこと。

 よろしければ、ご一読ください。

’04/05/17 (月)

精進せよ


 モスビンさんから再びシェルリード線が届いた。先日送ってくださったもののうち、僕がまだ試聴していない2種の、改良版である。既にこれを使っていらっしゃる方々からのイムプレッションを参考に、ご自身でも確認しながらの改良である。モスビンさん、ありがとうございます。

 最初のモデルを聴き始めて10日、さっさと次へ進め、という声も聴こえてきそうではある。が、ここは時間をかけて判断したいと思う。AD周りは、経時による変化が大きいのである。これまでにカッコつけて即決し、しくじったことしばしば。要するに、タコ耳なのである。

 実際、AD周辺パーツの良否判断は困難だ。僅かな条件の違いが大きな音の変化となって現れることが多いからである。四六時中いじり回していては、何が原因で音が変わったのか、ゼンゼン分からなくなる。繊細微妙敏感至極な耳の持ち主ならば、それも分解して聴き分けられるのだろうけれど、僕には絶対不可能。お恥ずかしいことながら、もう少し時間をいただきたいのである。

 まだまだ修行が足らんな。

’04/05/16 (日)

これもコレクション


 常用1個のクセに11個も持っているADスタビライザー、これを以って「コレクター」と謂うのならば、僕はホーントゥイーターに関しても同様だと言えるのかもしれない。

 写真に見えるのは、左からFT-90HG、T-500A、T-925Aである。アレ? 全部FOSTEX製だな。この他にJA-0506II(ヤマハ/うち2組現用)を3組、EAS-5HH10(テクニクス!)、H-105(コーラル/鳴らない)、T-300A(現用)、FT-90H、FT-66H、T-925Aをもう1組、持っている。全部あわせて9種12組、こりゃもう完全にコレクターですな。

 コレクターと言っても、一度も聴かずにデッドストック、みたいなものは一つもない。すべて必要に応じて買ったものばかりである。そんなん自慢にもならんね。それがいつの間にやら12組24本、現用3組6本という馬鹿げたことになってしまった。稼働率25%。例によってモッタイナイオバケが出るのである。ウチはオテラだからまあいいか。

 ADスタビライザー同様、ホーントゥイーターというブツも、鳴らす楽しみと同時に所有する楽しみを、僕は感じるのである。ホーン部分のソリッド感が堪らない。聴きもしないのに見ただけで欲しくなる。ちゅうことは、今後も増える可能性大。なんだ、やっぱりコレクターじゃねえか。

 と言っても、今や選択の余地はあまりないのだけれど。

’04/05/15 (土)

クールに見えて実は

 Bswanさんから掲示板に、先日のご感想が届いた。ホストとしては、こうしてイムプレッションを挙げていただけるのが最もの喜びである。ありがとうございました。

 「面白いソフト」とおっしゃるものの正体は、おおよそ下記のようなものである。

 テラーク「火の鳥」、ノンサッチ「真夏の夜の音楽」、DG「武満徹/小鳥は五角形の庭に降りる」、MMG「オールスターパーカッション」、シェフィールド「ジェイムス・ニュートン」、独HM「ミサ・エスピリチュアル」、M&K「フランメンコ・フィーバー」、仏HM「ヴィリャンシーコ」、デロス「アメリカ金管五重奏団」、米RR「ジョン・シャープ/ベター・ザン・ドリームス」(以上AD)、独クラフィンス「クラフィンス・ピアノ」、独トロフォン「イムパルス」、FIM「オータム・イン・シアトル」(以上CD、SACD)など。あと、今井美樹、さねよしいさ子、宇多田ひかるなど、J-POPも聴いた。もっとあったに決まっているのだが、すべては覚えていないのである。

 ご持参のソフト以外は、完全に僕の好みで選ばせてもらった。妙なモノを押し付けては遺憾、と思いながらも、Bswanさんの反応は実にハイスピードで明確である。ので、ついついうれしくなってしまい、かなり偏った選曲になったのだった。他にもお聴かせしたいタイトルがあった(オケをもう少し鳴らすべきだった?)わけだが、残念ながら時間切れ。それでも5時間ほとんど聴きっぱなしである。

 僕が見たところ、Bswanさんは音にウルサく間口の広い音楽ファン、という感じである。大編成オーケストラがお好きなようだが、よくある頑ななクラシックマニアとは程遠い。御自身でも「私は雑食性で、何でも聴きます」とおっしゃっている。でなければ、こんな妙な音楽ばかり5時間も、耐えられないのである。物静かで熟慮型、クールに見えて実は温感の高い人、というのが、Bswanさんに対する僕のイムプレッションである。変人の要素、大いにアリ。イヤ、失敬。

 ここのところヒジョーに多用で、これだけまとめて音を聴くのは久しぶりだった。僕も大いに楽しめたのである。Bswanさん、ありがとうございました。

 暴言多謝。

’04/05/14 (金)

使いよう


 新しいデジカメを買った。これまで使ってきたものが、不調を訴え始めたからである。4年間拙webのために酷使し、寿命が来たのだろうか。修理することも考えたが、ここは静かに余生を送ってもらうことにして、新デジカメ君へ乗り換え決定。

 オリンパス/カメディアμ-15 DIGITALというヤツである。何のことはない、ネットでいろいろ調べ、値引き幅の大きいモデルを選んだだけのことである。ケチだ。50%OFF。もっと安いのも、あるンだろうな。

 さっそく箱船の風景を一枚撮ってみる。現状、調整方法がイマイチよくワカランので、色温度とコントラストがやや妙である。しかし、レンズはかなり広角だし、画の抜けも良い。慣れてくればすべての面で旧を圧倒するだろう。ディジタル機器は、オーディオに限らず新しいものの圧勝である。

 それにしても旧デジカメはよく頑張ったと思う。盟友徳さんから譲り受け、これまでに2,000枚近くの画を拙webページに提供してきたのである。永年の功労者として表彰状を授与したいくらいだ。もちろん徳さんにも心から御礼申し上げねばならぬ。ありがとうございました。

 カメラが良くなっても、写し手は相変わらずのヘボなのが最もの問題点。物事すべて、使いようなのである。

 何処かでも聞いたような話だな。

’04/05/13 (木)

Bswan氏来訪


 本日ご来客あり。比較的近く(と言っても片道約4時間)にご在住の、Bswanさんである。初めてのお越しである。ご自身はカネコ木工謹製スーパースワンVer.Kをお使いだそうだが、さて、拙箱船の音は彼の耳にどう響いただろうか。それはご感想に待ちたい。

 AD中心(最近こればっか)に、休憩を挟んで約5時間の試聴。集中的に聴いたので、お疲れだったと思う。ジャンルを問わず何でも楽しんで聴かれるタイプの方だったので、ホストとしてはヒジョーにありがたかったし、楽しかった。佐野元春のファンだと伺い、バカみたいに喜んでしまった。

 Bswanさん、ご遠方をお疲れさまでした。また、お越しください。

’04/05/12 (水)

J-ROCKが骨太だった頃 II


 骨太な国産ロックバンドと言えば、これを外すわけには行かない。「TENSAW」である。'80年9月にメジャーデビュー、たった2枚のアルバムを遺し'82年には解散してしまうという、「カルメン・マキ&OZ」よりもさらに短命のグループだった。加えて、大きなホールでのコンサートが少なく、どちらかと言えば小さなハコ(ライブ・ハウスのような)での活動が多かっただけに、マイナーなグループという印象が強い。写真は2ndアルバム「Delicate Motion」(日ポニーキャニオン D25P6290)である。残念ながらこれはCD。

 このバンドのサウンドは、超強力である。ある一点から一気に噴き上がるようなエネルギー感と瞬発力、何もかも吹き飛ばしてしまいそうなスピード感とスリルがある。たぶん、こんな音を出せたのは、後にも先にもこのバンドだけだろう。楽曲には好みもあろうけれど、国内外含めて、ロックファンなら絶対聴いておくべきサウンドである。

 このCDのライナーノーツが奮っている。

 「今のガキはエイト・ビートさえ知らないんだぜ。横に揺れるビートを知らずに、ロックン・ロールだってよ、ヘッ! プロでもそういうヤツばかりだからイヤんなっちまう。テメエらみんな、丁稚から出なおせってえんだよ!!」

 こう言われたのが十数年前、今の状況はさらに悪化している。こう言った当時の中年ロッカーさん、今ではもう憤死状態だろうなあ。

 カルメン・マキ&OZも、TENSAWも、今後二度とは出てこない稀有のロックバンドだったのである。僕はどちらも小さなライブハウスで聴いているが、なんとも貴重な体験だったのである。

 現在のJ-ROCKは、完全に死に体だっ。

’04/05/11 (火)

J-ROCKが骨太だった頃


 J-POPという言葉はよく聞く。しかし、J-ROCKというのはあまり聞かない、と思って検索をかけてみたら、ちゃんとあるんですね。僕が知らないだけだったのである。不勉強だ。

 最近のJ-ROCK事情は全くと言ってよいほど、知らない。関心がないからである。たまにTVなどでそれらしきものを目にすることはあっても、どいつもコイツも軟弱で聴けたものではない。なんであんなに音も楽曲もフニャフニャしてるんだろう。時代かな。

 J-ROCKをよく聴いたのは、およそ30年前。'75年〜'80年くらいまでである。伝説のグループ「四人囃子」が活躍し、「クリエイション」が日和らず真面目にロックしていた頃。当時はJ-ROCKなどという言葉はなかったわけだが。中でも、今日紹介するグループは、大ファンだった。

 「カルメン・マキ&OZ」である。このグループがデビューした時はちょっと驚いた。カルメン・マキといえば「時には母のない子のように」で、暗くデビューした歌手。その人が、バリバリのハードロックバンドで再登場したのだった。写真は1976年発表の2ndアルバム「閉ざされた町」(日KITTY RECORDS MKF1005)である。もちろんAD。

 聴いてみて二度ビックリ。骨太でソリッドな楽曲、重く暗く深く沈み込むようなグルーブ、それにカルメン・マキの暗いボーカルがバッチリはまった、これはホンマモンのハードロックである。傑出したグループだ。ロックファンなら一聴の価値あり。しかし、3枚のスタジオ録音盤とライブ盤1枚を出しただけで解散。短命に終わったのが非常に惜しい。日本人もやればできるのである。なのに現状はどうだ。グニャグニャのジャンク・ミュージックばかり作りやがってからに。

 例によって録音は良くない。だからこそ、久しぶりに聴いてみたわけだ。現状システムでは、どうなるのか、と。やはり大変わりはしないのである。しかし、昔聴いたときに比べれば歪み感は少なく細かい音も出ていて、かなりの大音量再生が可能。前は歪みが目立ってボリュームを上げられなかった。システムにそれなりの進歩はあるようだ。

 個人的には音楽として最高。僕はヤッパリ、ハードロックが好きなのである。

’04/05/10 (月)

替わりべんたん

 標準語なら「替わりばんこ」って言うのかな。これも関西方言か。そんなことはどーでもよろしい。何が「替わりべんたん」かと言えば、今月の日誌だ。写真つきオーディオネタで書ける日と、そうでない日が、である。今日も業務多用でオーディオ時間皆無だった。

 オーディオできなければ、やはりネタはできないわけで、多用だとムシや自然のネタ取材もできない。結果、こういう言いわけ日誌に終わるのである。誠に申しわけない。どうかご容赦ください。

 明日が終われば少しく自由な時間ができる、予定。予定は未定、などというようなネガティブな物の見方は、今はしないでおこう。

 パーマンのコピーロボットかバビル二世のロデムか、どちらかがいてくれたら、それこそ「替わりべんたん」に仕事できるのに。

’04/05/09 (日)

忙中閑あり


 長時間パソコンに向かってキーボードを打っていると、大声でサケびながら辺りを走り回りたくなるような衝動に駆られることがある。ストレスである。仕事は大切だが、こういうのはあまりカラダに良くないと思う。ので、聴きたいものを聴いて発散するのである。忙中閑無いケド作る。

 カスタムメイドのシェルリード線である。第一印象はなかなか良かった。それから24時間以上経過、その間まったく聴いていない。それでも音は変るようで、ずいぶんと音がほぐれた感じ。低歪み、音に芯がある、よく伸びたハイ、はそのまま、そこへ繊細感と艶が加わったと感じた。音離れも良くなっているし、厚みも出てきた。何にもしてないのにこの変化。フシギである。

 MC-L1000は、非常に音の良いカートリッジである。スピード感と分解能が見事なバランスで両立した音は、これでないと聴けない。しかし、ソフトによっては中高域がオーバーシュート気味になってしまうこともあって、そこが唯一の欠点とも言えるわけだ。

 このシェルリード線の持つ歪み感の少なさは、上記の欠点をよく補っていると感じた。中高域に厚みがつくのである。情報量をネグって無難に聴かせている、というのではないと思う。スピード感は落ちないからだ。本質的に優れたものを持っているのだろう。

 スピード感、繊細感と厚み。三点具備は困難である。それからするとこのリード線は、非常に優秀だと言える。「試聴順位第一番」の指定は、伊達ではなかったのである。残るは2種。もうしばらくこの状態で聴いた後、交換してみよう。

 AD再生は、やはり楽しい。

’04/05/08 (土)

小間使い

 昨日(7日)は朝から終日会議だった。山のような会議資料を準備しておけと言われ、シクシク泣きながら半徹夜で作り持って行った。そうしたら、また倍くらいの量を作れと言われたので、「『事務局』なんて名前は立派だが、これじゃ態のいい小間使いじゃアーリマセンカ」と文句を言ったら、顔色一つ変えずにアッサリ「そうだよ」と言われてしまった。

 聴きたいADも聴けず、またぞろエクセルと格闘し、気がついたら真夜中である。僕の一日はこうして終わるのだった。

 事務処理能力ほとんどゼロ、の人間に、こーゆーことやらせちゃ遺憾って。

’04/05/07 (金)

準備完了


 夜になって少しく時間ができたので、ともかくカスタムシェルリード線を実装してみた。製作者氏の指示どおり、まずは「Hi-OFC+Cu」というバージョンから。と言っても、この呼び名が何を意味するのか僕は知らない。詳しい構造や工夫についてはほとんど何も伺っていないのである。バイアスなし、先入観なしで聴きたいのだ。

 基準にするリード線は、常用しているA・クラフト/CW-Rh1とする。2個のMC-L1000に、リード線を入れ替えながら試聴しようという企てである。

 ご覧の通り、随分太く豪快である。クラフトがヤケに細く見える。全長が長いのももちろんだが、太さは倍以上ありそうだ。重量も倍くらいあって、これだけでも音が変わるのではないか。こんなに頑丈なリード線は、僕の知る限り市販品にはない。太くて弾力があるので、フォーミングにはちょっと苦労する。輪を作ってもビョンと戻るのである。この質感の違いも音に影響しそうな感じ。

 チップと端子の嵌合グワイは、シェル側カートリッジ側ともかなり渋めである。拡張の要はなかったが、差し込むのにはそれなりの力が必要だった。勢い余ってカートリッジをぶっ壊さないようにしなければ遺憾。僕は、そーゆーことをよくやるのである。ともかく、がっちり喰い付くのは音にとって悪いはずはない。

 実装作業に手間取り、まだほんの少し聴いただけである。本格的な試聴は明日以降に譲りたい。現段階では文字通りファースト・イムプレッションであることをお断りして。

 これはなかなかのスグレモノである。歪み感が少なく音に芯がある。超高域の伸びが素晴らしい。特に優秀録音盤で、真価が発揮されるようだ。ただ、今のところ音離れと分解能がイマイチの感はある。製作者氏曰く「エージングで音が随分変る」そうなので、この辺りはまだまだこれからというところだろう。

 向後期待感大。明日からが楽しみである。

’04/05/06 (木)

モード切替

 送っていただいたシェルリード線。今日はゆっくり聴く、つもりだった。のが、火急の業務が発生し、オーディオの「オ」の字もないまま真夜中になってしまった。お休みモードからお仕事モードへ。一気の切り替えを余儀なくされるのは、僕の業務のツラいところである。

 明日もちょっと無理かもしれない。早く聴きたいのはマウンテンマウンテン....イヤ、山々だし、礼儀の上からもそうしなければ遺憾のである。が、業務もまた極めて重要である。

 いい加減には聴きたくないのである。3種の差異もきちんと知りたいし、現用のリード線との違いも聴きとどけたい。真面目に作られたものは、真面目に聴かねばならんのだ。落ち着きのないときにワチャワチャ聴いては失礼千万である。

 申しわけございません。少々お待ちいただけますことを。

’04/05/05 (水)

細工は流々


 オーディオクラブ「ミューズの方舟」のご縁(僕も一応ユーレイ会員なのである)で知り合った方から、写真のモノをお送りいただいた。シェルリード線である。

 この方と面識はないのだが、ウワサはかねがね聞き及んでいる。筋金入りのADファンでいらっしゃる。であってみれば、このリード線がタダモノではないことは、想像に難くないのである。そう、彼の手による、自作品なのである。

 自作離れした逸品である。仕上がりは非常に美しい。透明被膜に金メッキチップ、一端はきちんと4色に色分けされている。市販品、あるいはそれ以上のルックスである。然るべき箱にパッケージすれば、製品として充分通ると思う。実効長35mmと、一般的な市販品より10mmほど長く作ってある。

 これがタダの自作ならそこまでの話。細工は流々である。3種送ってくださったわけだが、それぞれ芯線に工夫が凝らしてある。基本的には銅線だが、素材純度、芯数、断面積、撚り方を変えて3種揃えてある、らしい。僕にわかるのはこの辺まで(違っていたらゴメンナサイ)。実際にはさらに手の込んだ細工が施してあるに違いない。繊細微妙な仕事である。一種の職人芸だな、こりゃ。僕のようなガサツな人間には、絶対不可能な作業だ。恐れ入りました。

 送っていただいたからには試聴しなくては遺憾。ではカートリッジは何を使おうかな。Eminentはようやくエージング第一段階の中ほどにさしかかったばかりで、今のところ環境を変えたくない。そうなればHELIKONか、昔馴染みのMC-L1000か。

 L1000で、聴いてみましょう。

’04/05/04 (火)

マニアとフツーの人


 このタイトルを聴くのは何年ぶりだろうか。買ってすぐに聴いて、それからほとんどラックから出していないと思う。「'96年12月購入」とあるから、たぶん7年以上のご無沙汰か。ひどいもんですな。「BEGONA OLAVIDE/SALTERIO」(M・A recordings M025-AV)。(P)1996。180g盤ADである。M・A recordingsって、日本のレーベルか、アメリカのレーベルか、どっちなんだろう?

 何故にそこまで聴かなかったか。理由は単純明快である。上手く鳴らなかったから。なんちゅうお恥ずかしい話だろうか。

 至って手前勝手ではあるが、やはり上手く鳴らないものからは足(手?)が遠のくわけである。そこを踏ん張って、上手く鳴るようになるまで聴き続けられる、ほど僕は我慢強くないのである。そのうちまた聴くべと、放置するのであった。許せんやっちゃな、チミは。

 Eminent導入以後、色々聴くうち、久しぶりに手を出してみたわけである。うむ、聴いてよかった。以前よりはかなり良くなった。と思う。何やら埃っぽくチリチリした印象だったのが、随分と艶やかな音で出てくる。繊細感もある。歪みは少なく輪郭の強調感もない。にもかかわらず切れ、透明感とも上がって聴こえる。こっちがホンマモンだろうなあ。やはり7年前は、何かが正常ではなかったのだ。その時はわからなかったけれど。7年かかってちゃ、どーしようもないね。

 オーディオに使いこなしなんか不要である。ラックを替え、ケーブルを替え、セッティングを変えたところで音なんか変わりゃしねえ。違って聴こえるとしたら、そんなもなァ出来の悪い宗教と同じだ。愚の骨頂である。

 というムキもあるようだ。それはそれでよいと思う。ワカラン御仁にいくら説明したって、まったく無意味。それは大いなる徒労であって、不毛の議論でしかない。それほどヒマでは、ないのんである。

 何故音が違って聴こえるのか、それを科学的に検証説明できるような知識も技術も環境も、僕は一切持ち合わせていない。しかし、事実違うのだから仕方がない。ドシロウトの僕としては、目の前で起こった事実をそのまま素直に書くことしか、出来ないのである。誰にでもわかるように説明、証明してみせろ。できませんな、そんなことは。

 この違いを面白いと感じる人はオーディオマニア、馬鹿げたことだと思う人は、フツーの人。

’04/05/03 (月)

働け

 年度末の事務作業が終わった、と思ったら、今度は年度初めの書類作成が山のように押し寄せてきた。昨年12月にまわってきたお役目によっての業務である。先日書いた「無理矢理Excel」の話も、この関連である。ああ、ニガテだなあ。

 作成期日がもうすぐそこに迫っているのは先日に同じである。中央からの指令が、何故にもう少し早めに出ないのかと、ついヒトコト言いたくなる。が、中央も多忙なのだろう。

 文句は言うまい。元気に働けるとは、ありがたいことなのである。

’04/05/02 (日)

Dレンジ広大ニューワールド


 全世界にレコードレーベルが幾つあるのか、僕は知らない。おそらく天文学的数字に上るのだろう。そのうち僕が知っているものはもちろん、持っているものに至っては正に氷山の一角、一握の砂。ほんの僅かばかりでしかないのである。

 その限られた手持ちの中でのお話であることを、まずことわっておいて。僕はどうやらアメリカ・マイナーレーベルに惹かれることが多いようだ。

 アメリカのマイナーレーベルを思いつくままに挙げてみれば。MMG、キャンディード、ターンナバウト、リファレンス・レコーディングス、ノンサッチ、ニューワールド、シェフィールド、テラーク(は今やメジャーかな)、デロス、シャルフォント、ヴァレーズ・サラバンド、M&K、クリスタル・クリア、トレンド、センチュリー、ウィルソン・オーディオ、ライコ、ニューアルビオン、モード等々。まだまだ山のようにあるだろう。

 列挙しながら一つ一つレーベルの音を思い返してみると、どことなく共通点があるように感じるのである。総体的に音がドライでアッサリしている。欧州系レーベルにあるような脂っこさは少ない。艶や色気には欠けるしやや埃っぽさもあるが、音の切れ、爆発力、クソ力はある。あっけらかんと開放的に鳴ってしまうような印象。音場感には独特の距離感と立体感がある。どちらかといえば明るい音が多い。僕は陰気な音がキライなのである。

 中でも、ニューワールドの音は大好きである。このレーベル、以前はノン・プロフィット・ビジネス(NPB。NPOとはチガウ)を掲げ、アメリカ音楽文化の記録と保存に熱心だったが、現在はどうなのだろうか。

 採算度外視だからかどうか、優秀録音とそうでない録音の差は、ヒジョーに大きい。製品としてのDレンジが広いわけだ。ハズレ盤には、モノーラルカセットテレコで録音したようなモノスゴイものがある。そりゃあもう酷いものなのだ。「ニューワールドだっ!」と飛びついたものの、聴いてみたれば奈落の底、みたいなレコードが何枚もある。

 当った時は、これまた凄い。圧倒的Dレンジ、三次元的音場感、ギョッとする生々しさ、リアルさ、超強烈な爆発力と底力は、他では絶対に聴けない音である。この落差が魅力、とも言えるか。バクチみたいだな。長岡先生の推奨盤にも頻繁に挙がっているし、それ以外にも優秀盤は多い。

 カタログがCDに代わって以降は、昔のような面白さ(要するにバラツキ)が少なくなり、フツーのレーベル然としてしまったようで、ちょっと残念。音楽文化を遺そうとする姿勢には変わりないようだが、音としては凡庸になった印象である。旧譜のSACD化を期待したいところだが、今のところ見当たらない。

 がんばってくれ、ニューワールド。

’04/05/01 (土)

僕のコレクション


 Y31さんが新しい製品を発表されたようだ。今回はADスタビライザーである。銅-砲金のハイブリッド版、仕上げはヒジョーに美しく、きっと音も良いだろう。

 では、僕も求めるか? う〜む、上の写真をご覧になれば、逡巡するのをお分かりいただけるだろう。市販品、作ってもらったもの、ただ貰ったもの、各種取り混ぜて10個。ここに写っていないヤツが1個あって11個。こうなると最早スタビライザーコレクターである。このうち常用するのは1個だけであってみれば、オマエは一体ナニを考えておるのかと、言いたくなるのである。

 ADスタビライザーには、使うと使わざるとにかかわらず、モノとしての魅力がある。以前にも書いた通りである。アクセサリーのページに載せた写真では6個だったものが、3年ほどで5個増えた。使いもしないのに欲しがるわけだ。馬鹿じゃないの。モッタイナイオバケが出るぞ。

 アクビさせているスタビライザー達には申しわけないことこの上ない話である。しかし、こうして眺めているだけでも僕の心は豊かである。いつも心にスタビライザーを。Y31さん、いずれお世話になる。かも、しれません。

 懲りないのである。