箱船航海日誌 2006年05月

日々雑感、出来事などを思いつきに任せて綴っていこう

過去の日誌コンテンツ

’06/05/31 (水)

構造強度向上を狙って


 ベース部平面図である。バッフルを階段状にしたため、平面図では18mm厚の板を5枚重ねにしたように見える。何だか凄いことになっているようだが、実際には最も厚いところで18mm×3の54mm厚になる。充分厚いか。

 特徴的なのは側板である。曲面加工した30mm厚一枚モノの板を使う。前方に向かってすぼんだような形状になるわけだ。第一パイプの内部定在波低減、第二パイプの充分な断面積を確保しながらバッフル幅(面積)をでき得る限り小さくする、などが狙いである。

 第二パイプをはめ込む部分は、管の中に管を押し込んだような三重構造になる。断面積が決定される最も内側のパイプはコーナーを曲面とし、共振効率と構造強度向上の一石二鳥を狙う。管の断面形が円に近づくことはメリットかデメリットか。両者表裏一体、たぶんメリットのほうへ傾くだろうと、これは希望的観測。

 前後縦方向に2本ずつ入る補強桟は、第二パイプ最下方から第三パイプ(トップパイプ)最上方まで同寸法で一直線につながる構造になる。これもまた構造強度の向上に寄与するはず。上から下まで1本の背骨が通ったようで気持ち良い。

 以上のような構造を、シロウト自作で実現するのは到底不可能である。特に板の曲面加工、それを応用した工作技術と精度は、山越木工房さんの独擅場だ。ありがたいご縁に、感謝したい。

 板材はカスタムラックと同様、すべてバーチでの製作を依頼する予定である。ラックの重量は約60kgあった。スーパーネッシーMkIIの重量はどれくらいになるやら。板の使用量からして1本100kgを超えることは間違いないと思われる。さらにDFリング、インナーリング、ユニットのセットが3組くっつくわけだから、プラス40kg以上。こうなると現用スーパーネッシーのようなヤバンな重量付加は必要無し、か。大重量は大いに結構、だが、搬入が大変だろうなあ。

 どんなスピーカーになるのか、ヒジョーに楽しみである。

’06/05/30 (火)

プレ最終形


 原始的図面を書いてから1年半近く、ようやく本番製品に近づいてきたスーパーネッシーMkIIである。今までグズグズしていたのは僕なのであって、製作を依頼する山越木工房さんには随分と御迷惑をおかけしてきたのである。申しわけございません。にもかかわらず、極めて誠意あるご対応をいただき、本当に感謝している。ありがとうございます。

 写真は本体ベース部分の断面図である。これに最も長大な第二パイプをはめ込む形になるわけだ。高さは1,200mm、現用Sネッシーより100mm高い。FE-208ESを3発使用ということで、例によって共鳴管断面積を拡大して対応する。最大奥行き601mmで151mm増。加えてできるだけ強度を上げるため、全体的に板厚を増やした。全幅345mm、45mm増しである。結果、底面積は約53%アップ、これは大きなメリットである。安定感は格段に良くなるだろう。

 最大の変更点は、バッフルを階段状にしたことだ。下方へ行くほどユニットが前に出る設計になっている。愚鈍な僕にこんなアイディアが出せるわけはないのである。信頼すべき友達からのアドヴァイスによるものだ。多少なりともリニアフェイズ効果を狙う、と同時に、トゥイーターとの位相ズレを少しでも減らすための対策でもある。ルックス的にもなかなかのものだと思う。持つべきものは友である。ありがとうございます。

 副産物として、第一パイプが下に向かって徐々に広がる形となった。これが吉と出るか凶と出るか、それは聴いてみてのお楽しみ、というところだろう。何となく上手く行きそうな気はする。確固たる根拠があるわけではないのだが。

 長岡先生から「アナタの音量では20cm1発じゃとても足りない。3発くらい要るね」と言われてちょうど9年。ご命日に合わせたかの如く最終形に近い図面が上がってきた。これも何かのご縁である。今年は何としても実現させたいと考えている。

 明日は、ベース部分平面図をお目にかけたい。

’06/05/29 (月)

超祥忌


 今日は長岡先生のご命日である。もう早6回目、七回忌になるわけだ。

 僕らの業界では、一回忌を「小祥忌(しょうしょうき)」、三回忌を「大祥忌(だいしょうき)」、七回忌を「超祥忌(ちょうしょうき)」という。

 「祥」という字の意味を漢和辞典で調べてみたれば、「さいわい。めでたいこと、よいこと」とある。仏事なのにさいわいでめでたいとは、コレ如何に。意味合いを鵜呑みにすれば、1年目の仏事はちょっとめでたく、3年目は大いにめでたく、7年目はチョーめでたい、っちゅうことになるわけだが、まあはやりそんなワケはないのである。

 さらに意味を深く読むと「喪明けのまつりごと。喪礼から吉祭に移るかわりめのまつりごと。大祥は3年目、小祥は1年目」ともある。

 肉親が亡くなった時、昔は喪に服する期間は、亡くなった年を「1」と数えて3年間であった。実質2年間。その間、慶事には一切出てはならない。ただし、1年経過すれば、身内の慶事には出てもよいとされた。これが「小祥」。3年目ですっかり喪が明けて「大祥」と、こういうわけである。年末に「新年の御挨拶を欠礼させていただきます」という断りの葉書を出すのは、その名残だ。本来ならば、3年目まで続けるべきところを、昨今は1年目だけに短縮しているのである。いつからそうなったか、僕は知らない。

 厳密に言えば上記のようなことになるわけである。しかし、僕としては「祥」の意味を「しみじみと味わう幸せ」と取りたい。

 近しい人、自分が寄る辺とした人が亡くなってしまったことは確かに悲しいできごとである。だが、亡くなったことを契機に新たなご縁が結ばれることもある。今回の「偲ぶ会」では、初めて方舟を訪れた方もいらっしゃったと仄聞する。長岡先生が亡くなったことで、新たなご縁が生まれたのである。これを「御仏縁」という。

 「御仏縁」を皆でしみじみと味わい喜び合うこと。これが本来仏事の意義である。大酒呑んで怪気炎を上げるような喜びや幸せではない。先師の御遺徳を偲び喜び合い、向後を前向きに生きて行くための糧とする。それでこその「超祥忌」である。

 未だ喪失感は拭えねど、ともかく前を見て、歩いて行きましょう。

’06/05/28 (日)

借りたら買わねば


 C-2810、いろいろ調べてみるが今のところ情報が極めて少ない。6月下旬の発売、価格は50,000円アップ(税抜き)、ということくらいしか分からない。あまつさえ音についてなど分かろうはずもなく。尤も、何も慌てる必要はないわけである。今後そこらじゅうで話題に上ることは間違いないのであって、それまでじっくりと待てばよいのダ。

 今が一番楽しい時なのかもしれない。どんな音なんだろう、自分のシステムに組み込んだらどーなるンだろう、実物はどんな印象なンだろうかと、あれこれ想像する時。嬉しい事柄は、起ってしまってからよりも起る前のほうが幸せなのである。

 まだ導入を決定したわけではないけれど、今回は是非とも自分のシステムで聴いてみたいと思う。販売店を拝み倒し、試聴機借りられんものか。

 借りたら買わねば遺憾ことに、なっちゃうかしらん。

’06/05/27 (土)

15年にして


 近頃減退気味の購買意欲を、著しく刺激される機器が出てきそうな気配だ。アキュフェーズの新しいフラッグシッププリ、C-2810である。詳しいことはまだ何も知らない。しかし、ヒジョーに気になる存在であることだけは確かだ。

 現用プリC-280Vを買ったのは、1991年9月である。圧倒的な音の良さにナミダを流して大感激し、以来15年間(一時C-AX10へ乗りかけたが)、メンテナンスしながら大切に使い続けている。強力な電源、頑丈なコンストラクション、高品位ボリュームなどの恩恵で、唯一無二の馬力感と切れ、輝きと艶を持つ優れたプリである。

 フォノイコライザーは、アキュフェーズ最後の内蔵型である。次作C-290からは外部ユニットプラグイン方式に変った。どちらが優れているか、それは一概に決められないとは思う。けれども各方面の評を窺い知るに、どうやら組み込み内蔵型に一日の長があるようだ。その意味でC-280Vは、本当に最後のアナログプリ、と言うべきかもしれない。

 僕個人にとっては大いに存在価値のあるプリである。しかし、殊ライン入力に限定して考えれば、最早過去のアンプということになるだろう。実際、C-290Vの時代からラインアンプとしては完全に負けていたし、あまつさえC-2800とは比べるべくもない。290Vが出た時も、2800が出た時も食指はピクピクしまくったわけだが、諸般の事情(オモに経済的な理由である)を鑑みて入れ替えを見送ってきた。さて、今回は、どーしよーかなー。

 最も信頼する友達がC-2800を導入した時「僕は次作を狙います」と言った。その時期が、思いのほか早くやってきてしまったのである。もちろん、購買意欲をかきたてられる製品が出てくることは、大いに喜ぶべきことだ。久しぶりのワクワク感。これが味わえるのが、趣味の良いところである。

 ぶっちゃけた話、僕は今、物欲のカタマリです。

’06/05/26 (金)

活動期


 毎年のように写真を載せている、箱船脇にある柿の木である。結構な樹齢のはずだが、今年も青々とした若葉を繁らせている。冬枯れに雪の写真と見比べれば生命の息吹がよく感じられ、今の季節のありがたさが益々強くなるのである。初夏は、いい。

 けれども何事もメリットデメリットは表裏一体。良いことばっかり、などということはあり得ないのである。柿の木だけでなく、境内の雑草も息吹全開、ちょっと気を抜けばたちまち原野のような有様だ。

 さらにいろんなムシたちもどんどん出てくる。ついでにSネッシーに棲まうところのヒラタキクイムシ一家も、そろそろお目覚めの様子である。一度取り憑かれると駆逐は困難、という定評(?)に間違いはない。やはり、今年こそは、メインスピーカーの新調を実現したいのである。

 何年前から言ってるンでしょうか。

’06/05/25 (木)

マヌケる者は探知機つかむ


 僕は臆病者だから、スピード狂ではない。けれどもマヌケだから、時々速度取締り(イワユルネズミ捕り)に引っかかるのである。現状ゴールド免許保持者だが、最近とんでもないところでとっ捕まり、次回更新時のゴールドはなくなってしまった。ヒジョーにクヤシイのである。

 その時、レーダー探知機はまったく無反応。寝ぼけていたのか。いや、違う。12年モノの御老体、すでにケーサツさんの機械のほうが上手だったわけである。そりゃそうだ、あんなものはイタチごっこであって、12年も経っていれば反応しないのも当然である。

 そこで最新型へ乗り換え。いろいろ調べてみると、今やGPS内蔵型が常識だという。取り締り電波を探知するだけでは不充分、GPSによる位置情報から警告を発するというわけだ。なるほど、オーディオ界だけでなく、こういう世界でもディジタル技術による進歩が著しいのである。12年前なんか太古のことである。

 ンで、仕入れたのが写真のヤツ。ユピテル 4FC-Si 。同社最新最上機種である。それでも12年前に買った探知機よりずっと安かった。やっぱり太古の世界だ。

 機能はてんこ盛りで、まだどうやって使ったらいいのかよくワカラン。ともかく電源を入れて車に積んである。「GPSをサーチ中です」「測位しました」「測位できません」「緊急車両遠方受信しました」「近接受信です」「通過します」「レーダー警告です」とまあ、よく喋ること。僕の車の中は、この他にナビとETCが喋ってくれる。ニギヤカなのである。さて、これで取締りを逃れることができるのか。

 問題は、僕のマヌケさ加減である。

’06/05/24 (水)

ハイ落ち


 エジソンレコード版CD「la Spagna」(32EB-1012)である。昨日のCDに続き、これまた箱船では初試聴となる。

 BISのオリジナルCDと比較試聴するつもりが、どうしたことか(と言うより、例によって)見つからない。入手した気になっていただけか。最近こういう思い違いがヒジョーに多くなって情けないやら悲しいやら。仕方がないからともかくエジソン盤だけを聴いてみる。完全に企画倒れである。

 昨日のタイトルとは違い、カッティングレベルが目立って低いという感じはない。ただし、オリジナル盤が聴けないから保証の限りに非ず。一般的なカッティングレベルの範囲には収まっていると思う。

 1曲目が始まった瞬間、これは何かが違うと、感じた。違和感があるのである。2曲目になって違和感の正体が判明。ハイエンドが伸び切らず、早めに落ちている。「爽快に伸びきってしかも歪み感ゼロ」という長岡先生の評とは随分違うのである。

 どうも聴き心地が悪い。ので、オリジナルADを聴いてみる。これはもう最高。目の前の霧がいっぺんに晴れたように、活き活きとした音だ。ハイもローもレンジがぐんと広い。これはもう格が違うのである。ADと比べるのは気の毒だが、勝負あり。

 しかし、あると思い込んでいたCDがなかったのにはマイッタ。オカシイナー。もう一回ラックを捜して出てこなかったら、買わんと遺憾のである。

 いい加減、してます。

’06/05/23 (火)

稀少


 長岡ファンなら皆さんご存知のタイトルである。スエーデンBISの「The Kroumata Percussion Ensemble」。外盤A級セレクション第1集68番に取り上げられているし、CDはダイナミック・ソフトに掲載された。お持ちの方も多いはずだから、取り立てて珍しいものではないのである。

 上の写真は同タイトルCDのジャケットである。よーく見て欲しい。左上に見えるのは、見慣れたBISのロゴマークである。では、右上のロゴマークは。ジャケット下部中央には黄色い文字で「EDISON RECORDS」と入っている。このCDは、ナンダ?

 BISがまだ現在ほどのメジャーになり切れていなかった1988年、このレーベルだけを専門に販売する国内レコード会社が立ち上げられた。それが「EDISON RECORDS」である、マスターはBISから提供を受け、CDプレスジャケット印刷はすべて日本製である。番号も独自の国内番号で「KK-1008」となっている。もちろん日本語解説つき。

 レコード芸術か何か、そういう雑誌に広告が載っていた。直接通販もあるという。当時関西では今ほど容易にBISのタイトルを買うことができず(無論ADなど)、僕は渡りに船とリリースされた他の4タイトル(『ラ・スパーニャ』も含まれていた)とまとめて買ったのだった。

 大喜びで聴いたのはもちろんである。ところが何だかイマイチ冴えのない音に、当時は聴こえてしまったのだった。やっぱり国内盤、しかもCDではダメかと、その後ADを入手してからはまったく聴かなくなってしまった。

 フと思い立ち、何年ぶりかに聴いてみた。たぶん箱船で聴くのは初めてではないかと思う。

 18年前、冴えない音に聴こえたそのワケが分かった。このCD、カッティングレベルが異様に低いのである。ちゃんと測定してはいないから、正確なところは不明だが、BISの正規CDに比べて10dB以上低い感じである。当時はおそらくそんなことも分からず、充分にボリュームを開かず聴いたに違いない。

 今、ボリューム位置を12時ちょっと過ぎくらいまで開いて聴けば、いや、なかなかよく出来たCDである。ほんの僅か、切れが悪いような気もするけれど、台無しにはなっていないのである。こりゃア「ラ・スパーニャ」も聴いてみないと遺憾。

 後年、BISは日本の大手、キング・レコードがディストリビュートするところとなり、メジャーへの道を力強く歩き始めるのである。結局エジソンレコードからリリースされたのは、5タイトルだけで終わってしまった。会社がどうなったのか、僕は知らない。

 エジソンレコードが作って売った純国内盤BIS。珍品だと思うが如何。

’06/05/22 (月)

先祖返り


 昨年末、FOSTEXから限定販売された20cmフルレンジユニット、FE206ES-R。僕は聴いたことがないのだが、なかなか優れたユニットだとウワサに聞いた。

 ES、E買Vリーズで採用されたHP振動板、UDRタンジェンシャルエッヂは、使われていない。FE-208SSまでに使われていた、波型クロスエッヂとサブコーン付きカーブドコーンを復活させているのである。とはいえ、漫然と同じものを復活させたのではない。新しい「旧型コーン」(?)には、ちゃんと新技術が投入されているのである。

 「206」という型番からして、もしかするとフレームは角型新作かと期待したが、そこは円形である。2発並べるには角型のほうが有利でルックスも良いのだケレドモ。磁気回路はφ180mmフェライトで、全体のプロポーションは昔のFE-208Sに似ている。

 208ES発表からほぼ6年経ってから、先祖返りしたようなユニットが発売される背景には、サブコーン付きFE人気の高さが、あるのだろう。実際、僕の友達にも208ESやE狽謔閧208S、SSのほうが好きだと言う人が、少なからずいる。ESシリーズの音の良さ、質感の高さは充分承知していながら、その一方で旧型ユニットのなりふり構わず威勢良く鳴りまくるようなところがタマランと言う。イワユル「FEサウンド」に魅力を感じているわけだ。

 僕もそれはよく分かる。FE-206狽ノ始まり208SSまで、すべてのバージョンを使ってきた者として、あの音の魅力は充分に理解しているつもり。だが、現状僕は208ESの歪み感の少なさ、Dレンジの広さ、質感の高さにメリットを見ているわけだ。どちらを取るかは、人それぞれである。

 ともあれ、ES派の僕としても206ES-Rは是非とも聴いてみたい。鳴りっぷりの良さと質感の高さが両立した、良いユニットなンじゃないかしらん。

 限定100セット、発売から5ヶ月。もうどこにもないわなあ。

’06/05/21 (日)

確かな仕事


 今年の5月には珍しいような超快晴の日曜日、とある檀家さんのご法事であった。最高のご法事日和である。これもご先祖様とお施主さんの功徳だ。ありがたいことでございます。

 仏事を終えた後、お施主さんお薦めの料亭で、お斎をいただいた。宮津市溝尻の「雪舟庵」という。開店して1年ほどの新しいお店だが、ご店主さん(=板長)は若いながらも腕の確かな板前さんである。店の構え、インテリアは非常にシンプルで上品、しかも清潔感がある。マスコミにも取り上げられたことがあると聞く。詳しくはwebページをご覧いただこう。

 肝心の料理、これがまた素晴らしい。魚料理が中心で、どのメニューも必ず一工夫されている。写真はアマダイ(こちらでは『ぐじ』と呼ぶ)のから揚げである。白く見えるのは鱗だが、これがヒジョーに香ばしく、食感もサクサクしている。元の大きさはどれほどかと驚かせるような肉厚の白身はふんわりと柔らかく、サクサク鱗とのマッチングが絶妙である。

 他にも沢山の料理をいただいたが、何を食べても文句なし。必ず一仕事してある。目にも舌にも大満足である。帰り際には、お店目の前の阿蘇海(天橋立の内海)でとれた天然ウナギの蒲焼をオミヤにいただき、シアワセな気持ちでお斎を終えたのだった。これまたご先祖様とお施主さんに大感謝。今日は、ありがとうございました。

 当地は日本海が近いおかげで、魚が美味い。それは大変結構なことである。しかし、それにあぐらをかき、お座成りの料理でお茶を濁す料亭が多いのもまた事実。客に美味しく食べさせる工夫を忘れてしまっては、料亭の名が泣くのである。「客足が悪い」とぼやく老舗に限って、企業努力を怠っている。悲しむべきことだ。

 僕は「雪舟庵」のファンになってしまった。今後、特に贔屓にしたいのである。

’06/05/20 (土)

余計な心配


 現在、箱船にはADが約2,500枚ある。買い始めから30年でこの枚数だから、年に均して83枚程度買ってきたことになる。月に7枚。まさか学生時代にはそんな割合で買えるはずもなく、実際には'87年頃からペースアップ、それ以後はおそらく年100枚くらいになっているのだろうと思う。

 もし僕が70歳まで寿命があるとすると、あと25年。同じペースで進めばちょうど現在の倍、5,000枚くらいのライブラリーになる勘定だ。

 せっせと増やしたAD、持って死ねるわけじゃなし、お棺に入れて一緒に焼いてもらうわけにも行かず。やはり後の者が何らかの方法で処分することになるのである。

 首尾一貫した意思を持って集めたAD群なら、立派なコレクションになり得るわけで、そうであれば保存するネウチもあろうかというものである。たとえば本家方舟のADコレクションなどは、非常に価値が高いのである。

 しかしこちらは違う。何の一貫性もなく、ただ欲しいものを漫然と集めただけのものである。ジャンルも何もあったもんじゃない。単品で見ればそれなりに価値のあるものも含まれていようが、全体としては「コレクション」と呼ぶにはあまりにもおこがましいようなものなのだ。

 つまり、後の者から見れば聴くにも聴けず、売り飛ばすにも二束三文、保存するにも面倒臭い、如何にも厄介なものを遺してくれたと、いうようなものである。借金でないだけマシ、くらいのものだ。

 では、今後増やすのをヤメるか。そんなことはできないのである。聴きたいレコードはまだまだ山のようにあるし、死んで後のことまで心配するのもバカバカしくもある。ので、今後も生活に支障のない程度に買い続けるのである。

 あとは愚妻なり愚息なりがいいようにするだろう。それもメンドクサイと言うのならば、僕の信頼するオーディオ仲間に処遇を委ねるのも一つの方法である。僕よりお若いKさん、Mさん。ひょっとするとお願いするかもしれません。

 などとゆってるヤツが、いつまでも世に憚ったり、するのである。

’06/05/19 (金)

見た目はオトナ


 長岡先生が亡くなってからの6年間で、何が変わったかといえば、最も目立つのはインターネットの拡がりではないかと思う。

 1998年ごろだったか、方舟に導入されたパソコンで、ネットを開いて見せてもらったことがあった。当時はまだ自作派オーディオ系のwebページも少なく、ネットオーディオの黎明期という印象であった。

 それが今や凄い数である。幾つあるか、数えることすら不可能なくらいだ。blogまで含めたら、どれくらいあるのだろうか。誰か調べてみませんか。

 数が多いことは、オーディエンスにとって幸いだと思う。多くの情報を、家に居ながらにして仕入れたり楽しんだりできるからである。大変結構。しかし最近、ちょっと気になり始めたこともある。

 他のwebページ(もちろんオーディオ系)への誹謗中傷雑言悪口を、公然と行う人が散見されることである。ちょっとしたケチをつける、くらいならまだ可愛い。酷い例では、相手の人格を完全に否定するような表現もある。

 書いている本人さん、如何にハンドルネームとは言え、オーディオ業界なんか狭いもんである。個人特定するにさほど難しくはないわけで、こういうことをやっていると友達無くすなあと、余計なことを考えてしまったりもする。まあそれはご本人納得の上だろうし、ひょっとすると友達なんか要らんという人かもしれないから、大きなお世話なのである。記名で悪口叩くのと同様な行為になるわけだから、ある意味卑怯者ではないと、言えなくも、ないか。

 ただ、それを読む僕としては、やはりヒジョーに不愉快なわけである。自分に向けられたものではなくとも。結果、こういうwebページはもう二度と閲覧しないでおこうと、思うのだった。それでもリピーターはいるようだから、一緒になってワルクチ言いたい人も沢山いるのかしらん。なーんだか不健康なのである。

 インターネットの世界に限らず、他者を貶めることで自分の値打ちを上げようとする、とんでもない思い違いをしている人が、昨今非常に多いように感じている。「アイツは馬鹿だ」と貶せば「それに比してアナタは優秀だ」と、周りは思ってくれるとでも考えているのだろうか。あまりにも下品で幼稚な感性である。「オマエも馬鹿だ」と思われ信頼を失うが関の山。

 オーディオ系webページ百花繚乱である現状は、喜ぶべきことである。しかし、それが罵りあいの場に成り下がってしまうのならば、不幸悲しむ他はない。大いに不愉快でもある。皆いい歳をしたオトナである。今さら「みんな仲良く」などと言うつもりはない。しかし、互いの違いを認めながら、それぞれの立場を尊重し穏やかで平和な関係を持つ、くらいのことはできて当然であろう。

 「見た目はオトナ、中身はコドモ」。これでは、困るのである。

’06/05/18 (木)

忘れ得ぬ思い出


 毎年5月17、18日がやってくると、思い出すのは「オーディオ諸国漫遊記」である。長岡先生のご来訪から、早くも9年経ってしまった。「十年一昔」というから、おおよそ昔話になってしまうわけである。

 もし先生が今もご存命(80歳である)だったならば、これほどに懐かしく思い出すこともないのかもしれない。

 写真は、1997年5月17日の夜、お宿にした天橋立のホテルでのワンシーンである。浴衣にハオリでリラックスして夕食。お宿の女将から挨拶を受け、恐縮する先生は何だかカワイイ。「わざわざ挨拶があるンだね。アナタって、この辺じゃちょっとした顔なの?」と言われて赤面したのも懐かしい。

 「お酒は、如何ですか」と言うと「うん、今日はわりと体調がいいから、ちょっと呑もうかな」と、写真でもなかなか良い顔色でいらっしゃる。「日によってずいぶん体調が違ってね。肝臓の数値なんか乱高下するんですよ。BHと同じでDレンジが広いんだな」と笑っていらっしゃった。当時71歳、今から思えばすでに無理がきていたのだろう。何だか切ないのである。

 この時のことは、僕にとって一生涯忘れ得ぬ宝物のような思い出になった。僕の「自分なりのオーディオ」は、このとき始まったと言ってよい。まさに、決定的転換点となったわけである。長岡先生の懐の深さは、計り知れないのである。

 ただ、感謝するばかりである。先生、ありがとうございます。

’06/05/17 (水)

僅差


 ジャケットの違いはわずかだが、CD本体のレーベルディザインはずいぶん違うのである。左の'94年盤は「FIRST GENERATION DIRECT MASTER CD」と、誇らしげに謳ってある。ディザインも何となく高級な感じ。それに比べて右のほうは、のっぺりしていて高級感イマイチ。見た目のイメージはあまり良くない。

 意匠がどうでも、肝心なのは音である。比較試聴してみよう。僕が一番好きな曲、トラック8の「Lazy Afternoon」を聴いてみる。ピアノとボーカルのデュオ、それにチューブラーベルズがキラキラと響く静かな曲である。

 うーむ、1回ずつ聴いただけではほとんど違いがワカラン。もう1回、順序を逆にして聴いてみる。ううーむ、ほとんど同じではないか。強いて言えば、ほんの僅か'94年盤のほうが生に近くリアルに聴こえるか。ボーカルの伸びと抜けが、良いように聴こえなくもない。

 もう1曲、トラック5「You'll See」を聴く。ピアノ、ベース、ドラムのトリオにボーカルが乗る、スローなジャズだ。やはり、僅差である。ハイハットの切れと透明感で、やや'94年盤有利。ぼんやり聴いていたら分からないくらいの差である。ブラインドで聴かされたら、おそらく僕には判別できないと思う。

 いずれにしても'94年盤は現在入手不可能である。これを殊更に惜しむ必要はないと感じた。現在買えるバージョンで何ら問題はない。このタイトルの良さを、充分に味わうことができる。非常によくできたCDである。

 残るはゴールドCDだが、さて、どんなもんでしょうか。

’06/05/16 (火)

分かるかな


 3月27日の日誌に触れたCD、「これはもう注文してしまう流れ」と書いた時点ですでに注文済みだったのである。「発送まで3〜5週間」の但し書きよりさらに遅れ、7週間弱でようやく届いた。同時に注文したゴールドCDバージョンはまだ届かない。まァ、気長に待ちましょう。

 ジャケットはご覧の通り、ほとんど同じ。左が'94年盤、右が今回買ったものである。前にも書いたように、レーベルロゴ左の文言に違いがあるだけ。CD番号はまったく同じで、パッと見には判別し難い。ゴールドCDはどうなってるンだろうか。

 さてこの2枚、音に違いはあるのだろうか。製盤過程はまったく違う(はず)し、よく見ると'94年盤はMade in Canada、今回のものはMade in USAである。同じ内容のCDでも、プレスの時期や国によって音に差があることは周知の事実、であってみれば、この2枚には違いがあって当然である。

 などと言い切ってしまって、違いが分からなかったらどーしよー。ナニ、問題はない。どっちも良い音だったと、素直に喜べばよいのである。

 四の五のゆっとらんで、さっさと聴けっちゅう話である。

’06/05/15 (月)

喪失感は大きく


 間もなく、長岡先生の命日がやってくる。今年で6回目、いわゆる「七回忌」である。昨日14日の日曜日、本家方舟において「長岡先生を偲ぶ会」が開かれた。オーディオサークル「ミューズの方舟」主催によるものである。一応会員である僕にも案内があったのだが、すでに業務が組まれていて参加叶わなかった。極めて残念である。

 先生は、終生特定の宗教に帰依されることはなかった。葬儀も無宗教で執り行われたと聞いている。著書を読んでみても、宗教に対しては比較的否定的、或いは冷徹な見方で接していらっしゃったように感じられる。興味は、大いにお持ちであったようだが。

 「長岡鉄男のレコード漫談」(赤本)の「怒りの日」という項には、葬式と坊主に対する怒り(というよりも私怨に近いか)がぶちまけられている。「自分の葬式も出さずにすませることはできないもんじゃろか」とあるが、そりゃ先生、無理というものでゴザイマス。

 「坊主のつける戒名ろくなものはない。学のなさ、センスのなさまる出し」。ヒドイ言われ様だ。しかし、思い当たるフシ無きにしも非ず。ただし、「金額次第でどんなに長い戒名でもつけます」というくだりには、先生一流の皮肉が入っているから鵜呑みにされては困るのである。少なくともウチではそういう「戒名料」は、あり得ない。

 大いなる教えを蒙った者が集い先生を偲ぶこと。これは極めて自然なことだ。そして、「今は亡き人を偲ぶ」という行いは、好むと好まざるとにかかわらず、宗教的色合いを帯びるものなのである。「無宗教」とは「特定の宗教に依らない」ことを意味するのであって、決して「非宗教」ではないのだ。

 亡くなった直後の心の痛みは、確かに癒されつつある。しかし、喪失感は日増しに大きくなって行くような気がするのは、僕だけだろうか。

 未だに僕は、先生の本を、愉快な気持ちでは読めずにいる。

’06/05/14 (日)

失われる風景


 最近、オーディオマニアと称するも恥ずかしいくらいオーディオできていないのである。晩ゴハン後の時間が眠くて眠くて仕方がない。「春眠暁を覚えず」と言うにはもはや初夏である。例年の如く、朝型体質に変る時期なのだろうか。とゆーわけで、今日も田舎ネタである。

 ウチの周りにはまだまだ田んぼが多く残っている。満々と水が張られ、田植もほぼ終わるこの時期、日が暮れると写真の生物(ニガテな方、ゴメンナサイ)の大合唱が始まるのである。トノサマガエルである。

 学名をRana (Pelophylax) nigromaculataという。「黒い斑紋を持つカエル」という意味である。ちょうど田んぼに水があるこの時期が繁殖期で、大合唱のヌシはほとんどが♂である。ゲコゲコ鳴くのは♀へ対するアピールなのだ。体が大きくて声も大きいヤツの勝ち。大型で高能率有利。10cmより38cmのほうに分があるわけだ。

 分布を見ると、あっ、なんということだ。「関東地方にはいない」と書いてある。日本中どこにでもいる最も一般的なカエルだと、僕は思っていたのだが、これはビックリ。関東地方の田んぼでは、カエルの大合唱は聴けないのか。

 と思ったらさに非ず。トノサマガエルとそっくりな別種、トウキョウダルマガエルってえヤツが、ちゃんといるのだった。学名Rana (Pelophylax) porosa porosa。「イボイボを持ったカエル」という意味だそうな。トノサマガエルにヒジョーによく似ているが、比較すると斑紋がイボのように盛り上がりくっきりしている。ダルマガエルというだけあって、体型も丸みがある。但し、ほとんどの人はトノサマガエルと混同しているそうだ。両者のDNAを調べると、まったく違うのである。関東在住の方、ご近所の田んぼでゲコゲコ鳴いているのは、トウキョウダルマガエルです。

 当地はイナカなので、トノサマガエルなどちっとも珍しくない。田んぼや水路にはナンボでもいる。ところが全国的には著しく減少しているらしい。トウキョウダルマガエルも同様である。というより、カエルという種そのものが、生き難い環境になりつつあるようだ。日本固有種のカエルたちは、すべてが減少傾向にあるという。

 そのうち、すべての種がRDBに登録され、天然記念物として保護されるかもしれない。子供の頃、田植前の田んぼを真っ黒にするほどのオタマジャクシの大群を見たことがある。あの光景は、最早失われてしまったのである。

 そのうち、ニンゲン様も消えるのだ。

’06/05/13 (土)

酢酸ビニル樹脂


 殺菌癒合剤「トップジンMペースト」とは如何なるものか。園芸を趣味としない僕には見当もつかないシロモノである。野次馬的興味もあり、早速注文していたものが届いた。

 「ペースト」というだけあって、ご覧のようなチューブ入りの薬剤である。歯磨きを「デンタル・ペースト」と言うが如し、だ。中身の色は鮮やかなオレンジ色で、酸っぱいような刺激臭がある。この臭い、どこかでも嗅いだことがあるような気がする。

 成分を見てみる。「チオファネートメチル3.0% / 酢酸ビニル樹脂、色素、水分97.0%」とある。ナルホド、主な成分は酢酸ビニル樹脂、つまり、木工用ボンドと同じなのである。自作派なら誰でも知っている、あの臭いである。

 ちゅうことは、殺菌剤が手に入れば自作できるわけだ。木工用ボンドに適量のチオファネートメチルを練り込めば、立派な殺菌癒合剤になる。薬剤、捜してみようかしらん。

 先日、いろいろ検索している時「某入れ歯安定剤が殺菌癒合剤の代用になる」という記事を読んだ。入れ歯安定剤の主成分も酢酸ビニル樹脂である。殺菌剤も含まれているだろうし、そう言われてみれば代用品になりそうな感じである。僕は以前、ラックのガタ取りに使えんもんかと「ポリグリップ」を試してみたことがあるのだった。残念、名前のようには上手く「グリップ」しませんでした。入れ歯とラックは違うのね。

 明日は、「天狗巣」を切ろう。

’06/05/12 (金)

てんぐす病


 ウチの桜の中で最も若い樹が、ここ数年なにやら元気がない。全体に生気がなく、花の付きも悪いのである。何が遺憾のだろうかと樹の周りを歩きながら考えていて、異状を発見した。一部の枝先だけが異様に細かく枝分かれし、枝葉が密集した状態になっている。写真はその部分である。これは明らかに異常だ。そういえばこの部分には、花がまったく咲かなかった。何かの病変か。

 早速本やネットで調べてみた。結果、この状態は立派な病気であることが判明。「てんぐす(天狗巣)病」という。枝が異常に多く分岐し鳥の巣状やホウキ状になり、その部分は花を付けない。最初は一部にとどまっているが、放置すると樹全体に蔓延し、やがて枯れてしまう。他の樹へも伝染する。「桜の癌」とも言われる厄介な病気である。

 恰も天狗が巣を作ったように見えることからこの名が付いたわけだ。こんなところに名を使われる天狗さんも、いい迷惑か。さても困った病気に罹ってしまったものである。いずれにしても放置できない。対策はただ一つ、「天狗巣」の部分を切り取って焼却する他にないのである。

 昔から「桜の枝は切っては遺憾」と聞いている。切り口から木を腐らせる菌が侵入しやすく、殊に桜はそれに弱いと。しかしこの場合、切らねば樹が死ぬのである。どーすればよいのか。これまた調べてみたれば、ちゃんと対策があるのだ。「切り口には、殺菌癒合剤(チオファネートメチル塗布剤)を塗るとよい」とある。

 チオファネートメチル塗布剤? ソチラ方面に暗い僕にはさっぱりワカラン。再々度検索。ありました。商品名「トップジンMペースト」、病枝を切ったあとの切り口を殺菌し癒合を促進する、接着剤様の薬剤である。効能書きにもちゃんと「天狗巣病」の表記がある。早速注文し、届いたら病変した部分を切ってやろう。

 かわいそうに、もっと早く気付いてやるべきだった。切る時期としてはすでに遅いのである。花付きの悪さに文句をタレている場合ではなかったのだ。園芸を趣味とする人から見れば、お笑い種だろう。「失笑を禁じ得ず」ってヤツだ。針先や盤面のクリーニングもロクにせず、「ADはノイズだらけで聴くに堪えん」とボヤく人を、僕は笑えません。

 良い音を聴きたければそれなりの手間が要るように、美しい花を見るためには観察力と努力が必要なのである。

 相手が生命ある「樹」であれば、尚更のこと。

’06/05/11 (木)

祝・通巻1000号


 オーディオ誌「無線と実験」(MJ)が、今月号(2006年6月号)を以って通巻1000号を迎えた。創刊号は1924年5月号である。翌年から始まる、日本国内でのラヂオ本放送に合わせ、放送聴取に必要な教養と技術を習得するための雑誌として、創刊されたのだった。

 一言で1000号、年数にすれば82年間である。すごいことだと思う。1924年といえば大正13年である。ここまで継続しているオーディオ誌は、他にないだろう。まったくご立派である。

 僕の買い始め読み始めは、その歴史からすると如何にも浅いものだ。1989年12月号からである。たかだか17年間。全歴史の1/5に過ぎない。MJ得意の回路図も技術解説もまったくチンプンカンプンの僕が、何故に購読し始めたのか。それは、「読者交換欄」の情報の多さに惹かれてのことだった。

 webも何もない当時、この雑誌の個人取引情報は極めて貴重であった。掲載件数は他のオーディオ誌をはるかに凌いでいたし、内容もよりマニアックで興味深かった。毎月目を皿のようにし、欲しい中古機器を捜しまくったのである。その甲斐あってHMA-9500II、同9500、PRA-2000ZR、C-17、ラムダコンデンサー、果てはスペアナSS-30RTまで、貴重な機器をここで手に入れることができた。C-17の時などは、他の人に遅れてなるものかと先方に電報で連絡し、「何事かと驚きました」と言われたこともあった。ヒッシだったのである。今も毎月チェックしているが、時に凄いものが出ていてギョッとすることがある。

 真摯な読者から見れば、僕などは極めて動機不純な輩だと言える。解説記事や回路図よりも、このページだけのために買っているようなものだったわけだから。

 しかしここで知り合った人の中には、現在に至るまで付き合いが続いている人もいる。webページを始めてからは「お譲りした機器が今も使われていて嬉しかった」と連絡をいただいたりもした。動機は不純だが、ご縁は拡がったわけである。少しはオーディオ界の活性化に役立っているはずで、これならカンベンしてもらえるかと、自分勝手に思い込んでいる。

 通巻1000号の次は、創刊100周年を目指して、尚更にがんばっていただきたいものだ。まさに、継続は力、である。

 通巻1000号、おめでとうございます。

’06/05/10 (水)


 今年の藤の花は、随分と遅咲きである。例年なら先月末、ちょうど「緑の日」くらいが盛りになるから、10日程度遅れていることになる。やはり冬が厳しかった所為だろう。それにしては5月中下旬の花がもう咲いていたりして、何だかよくわからないのである。

 藤。マメ科の蔓性低木である。学名Wisteria floribunda、「たくさんの花をつけるフジ属の植物」という意味である。日本原産。万葉集にも数多く詠まれているし、古墳時代の巨石運搬にはその蔓が使われたという。まさに日本の歴史とともにあるような植物なのである。

 その所為か、藤をモチーフにした家門は多い。「上がり藤」「下がり藤」「左藤巴」「右藤巴」「三つ追い藤」など、「藤」と付くものだけで16種類もある。調べてみて初めて知った。沢山あるモンです。斯く言う当家の家門は、「下がり藤」なのである。

 だからと言うワケでもないが、僕は藤の花が大好きである。紫色のほうは気品があってヒジョーに良い。白花は潔くて美しい。これが咲くと、夏への期待感がますます盛り上がるのだった。

 Tシャツ1枚で過せる季節。いいですねえ。

’06/05/09 (火)

箱船のV


 最近、滅多にDVDを買わなくなってしまった。元々、音楽モノはほとんど買ったことがない。専ら映画ソフトである。

 理由はいろいろある。第一に、映像への意欲が減退したこと。フォーマットがゴチャゴチャしてワケがワカラン。ユーザーのことを真摯に考えているとはとても思えない。映像信号のディジタル化だって、i-LINKだのDVIだのHDIMだのと、すごい進化だが互換性はどうなってる? HD-DVD、BDは今後どーするつもりなのか。もう勝手にやってくれという感じである。

 第二に、DVDを買ってまで見たいと思う映画が減ったこと。続編、シリーズものがやたらと多く、僕にはどれも拡大再生産版に感じられ、冷めてしまうのである。壮大巨編も結構だが、作りモンのCGばかりでクソ面白くもない。

 第三に、ハイヴィジョン放送の充実。ヒッシになってDVDを買わないでも、そのうち放送がある。しかもDVDをはるかに凌ぐハイヴィジョンである。僕はリアルハードな映画マニアではないから、多少のタイムラグはまったく問題なし。DVDにパッケージソフトとして持つ喜びが希薄であることも、放送で充分だと思わせる原因の一つだ。

 と、いろいろ文句を言いながら、結局は気楽に楽しめればそれで吉。最近リリースされた「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(日ワーナー・ホームビデオ DL-59389)も、僕が買い渋っているものだから、愚妻がシビレを切らせて自分で買ってきた。ニガテなのである。こーゆー映画は。と言ったら「あらそう。じゃ勝手に見るから」とどんどん箱船へ入って行く。やっぱり大画面が、よいワケね。準備するのは僕なんだケド。

 箱船のVシステム、今後のテンカイや如何に。

’06/05/08 (月)

eclipseのつもりが


 日食を英訳すると「a solar eclipse」、eclipseといえばピンク・フロイドの「狂気」。というテンカイでは当たり前すぎて面白くない。ので、英DECCAレーベルの廉価盤バージョン、eclipseシリーズへ話を持って行くのである。

 確かモントゥー指揮の「ハルサイ」があったはず。eclipseシリーズからリリースされていたのである。と思ってラックを捜すが見つからない。昨日からずっと探索しているのに、ちっとも出てこないのである。完全に行方不明だ。ひょっとして買ったつもりで買ってないのかな。おかしいなー、キノコのジャケットにも音にも覚えがあるのに。

 これでは完全に企画倒れである。仕方ないから同じ英DECCAレーベルの別シリーズのLPを紹介してお茶を濁すのである。いい加減で申しわけございません。

 headlineシリーズ。DECCAレーベルの現代音楽だけを集めたシリーズである。eclipseほど安くはなかったが、いわゆる純粋なDECCAのタイトルよりは少し安めの価格設定だったと聞く。僕は残念ながらリアルタイムでは知らないのである。

 初めて入手したのは上のタイトル。親しい友達からダブり盤を譲ってもらったと記憶する。「ルトスワフスキー、バークリー、ベドフォード品集 / 作曲者指揮 / ロンドン・シンフォニエッタ」(英DECCA HEAD3)。(P)1973、(C)1974と古いレコード、もちろん中古盤。「長岡鉄男のA級外盤セレクション」第1集69番に紹介されている。廉価盤と言えども、重く硬く滑らかな盤質はさすが昔のDECCAである。

 録音は古いが音は凄い。特にルトスワフスキー「織り込まれた言葉」(A-1、2、3)とベドフォード「暗黒銀河のテンタクルス」(B-3)がいい。オケ、ボーカルとも力と厚みがあり、打楽器のトランジェントは抜群である。わりと難解な曲だが、音の良さで最後まで聴けてしまう。ちゅうことは、音楽ファンにはあまりお薦めできないのである。ゲテモノではないけれど、誰もが楽しめる音楽では、決してないと思う。現代音楽ファン、サウンドマニアにはお薦めだ。

 日食とはゼンゼン関係ない話題に、なってしまいました。

’06/05/07 (日)

一生一度の


 子供の頃からの夢がある。一度でいいから、皆既日食を生で見てみたい。いくつの時だったか、皆既ではないけれど食分の大きな日食を体験したことがあり、その不思議さ幽玄さに魅了されたのだった。通常の日食では観測できないコロナやダイヤモンドリングにプロミネンス。これらをライブで見ることができたなら、どんなにか素晴らしいだろう。一生の宝物になること間違いなし。

 皆既日食というと、如何にも稀な天体現象のように思えるわけだが、実はさほど珍しいものではない。統計的には18年間に10回程度、地球上のどこかで起っているという。2001年〜2100年ではさらに頻度が高く、100年間で75回起きることになっている。1.33年に1回の割合である。

 しかし、観測者を1点に固定したとすると、その場所を皆既日食帯が通過する確率は、平均して340年に1回という、ニンゲンのモノサシではおそろしく稀少な現象となってしまうのである。範囲を日本国内のどこかにまで拡大しても、頻度の高い上記の100年間でさえ2009年7月22日、2035年9月2日、2063年8月24日の3回だけである。

 2035年なら僕は74歳、たぶん鬼籍に入ってます。2063年に至っては102歳、すっかり舎利になって墓の下である。とすると最初で最後のチャンスは今から3年後、2009年7月22日の皆既日食である。

 この時の皆既帯は、東シナ海〜トカラ列島〜小笠原諸島〜南太平洋を通過する。僕が行けそうな場所で、しかも理想的な観測場としては、縄文杉で有名な屋久島がある。10年ほど前、科学雑誌「ニュートン」の記事でこのことを知り、それ以来狙っているのである。

 理論上、皆既状態の最長継続時間は7分40秒である。7分を超える皆既日食は、21、24、25世紀にはまったく起らない。2009年7月の継続時間は、屋久島南部で約5分間。最も長い地点(南太平洋上)では6分39秒と、上記100年間の中では最長である。これを逃す手はない。どうやったって行ってやるぞ。

 あと3年と2ヶ月。鬼が聞いたら爆笑しそうだが。

’06/05/06 (土)

ダイ・ハード


 4日にWOWOWでHD放送があった「エイリアンvs.プレデター」を観た。タイトルを聞けば凡その内容がわかろうかというようなものである。が、映画界二大グロテスクヒーロー(?)のケンカはちょっと見てみたい。怖いもの見たさというか、下品な野次馬根性というか。

 ストーリーテリングは相当に強引である。両者を戦わせるためだけに、ムリヤリ物語を作った感じだ。荒唐無稽の一言。それでよいのである。そもそも、どちらもムチャな存在なのだから。相変わらずのグロテスクさ、特にエイリアンはCG技術が進んで質感向上、これまで以上にヌルヌルグチャグチャしててヒジョーに気色ワルイ。大成功である。幼生が顔に飛びかかる時のスーパースローはヤメてくれ。

 プレデターのほうは、これまでよりも人格のようなものが強く感じられる描写が多いと感じた。その分不気味さが減った。前2作では、観客の感情移入を強く拒否したところが魅力だったと思うが、今回は幾分人間臭くなっている。今後も続編があるのかどうか、願わくば「ガメラ」や「ゴジラ」の如く、安易な正義の味方に転身せざらんことを。

 1125iのハイビジョン放送、優秀であるのは当然。だが、その中でも突出して美しい映像である。例によって舞台は限定された閉空間で、太陽が眩しく照りつけるようなシーンはほとんどない。陰鬱で息苦しい場面の連続である。そうでありながら、見ていて暗さはあまり感じない。発色が良く、物の質感が高い所為である。黒方向のDレンジは非常に広い。闇に潜み蠢くエイリアンの姿が黒つぶれにならず見事に描き出される。

 音もAACのわりには力があってよい。台詞以外に「生音」というものが存在しない映画音声であってみれば、これで充分である。5.1サラウンド→ダウンミックス2ch→スピーカーマトリクス、というワケのワカラン再生ルートでも、音場感は良い。狭い音は狭く広い音は広く再現され、充分楽しめるのである。システムに余分なものが入っていない(いい加減とも言う)良さもあるか。内容はともかく、一見に値する映画だ。

 しかしまあ、エイリアンはなかなかにしぶといのである。彼こそ、ダイ・ハード。

’06/05/05 (金)

COOL


 愚息1号箱船でADを聴くの図。鳴っているのは長岡先生推奨の優秀録音盤、のワケはなく、近頃ご執心のロックバンド、AEROSMITHの1978年ライブ盤「LIVE BOOTLEG」である。この後、彼のリクエストにより、ROLLING STONES、BB&A、EAGLESナド(すべてAD)を聴いた。

 彼は1991年生まれで、僕は1961年生まれだから、ちょうど30年差。僕から見れば30年前の我が姿があり、彼からすれば30年後の我が姿らしきものを僕に見るわけである。まさに今日聴いたレコードは、僕が30年前に買って聴いていたものである。まさかこんなことになるとは夢にも思わなかった。特段にドラムを叩けとかロックを聴けとか、言うて聞かせたことは一切ないのだが。

 彼等の世代にとって、ADとは特別なものであるらしい。音が良いから、ということではもちろんなく、どちらかと言えばファッションとして「カッコイイ」という捉え方だ。然るに、ある程度まとまった数のADを所有しプレーヤーを自在に操るくずてつオヤヂは、「クールなおっさん」ちゅうことに、なるわけである。

 最先端のオーディオマニアから「時代遅れのAD馬鹿」と酷評される僕が、今様ティーンエイジャーからは「流行の最先端」と評価される。一体何を以って「新しい」と言えばよいのか、こうなるとさっぱりワカラン。最先端だの時代遅れだの、かなりいい加減なモノサシで測っているに違いない。

 僕としては酷評されようが評価されようが、ンなことはどーでもよいのである。好きなことを飽きずに続けているものを、周りが勝手にホメたりケナしたりしているだけだ。どうぞご自由に。趣味なんてなものは、人様がどう言おうと自分の好きなことを堂々とやってりゃいいのである。流行や外野に影響されず、ブレのない軸を我が心中に持つことが極めて重要である。と言って尊大不遜頑迷の輩となっては遺憾。

 さて、ADの音を聴いた愚息1号。あっという間に感化されてしまった。手早くも格安中古ADを2枚仕入れ、自分の部屋にもADプレーヤーを置きたいと言う。箱船2階で仮死状態の古いローコストプレーヤーを目敏く見つけ、ヒソカに狙っているらしい。

 協力するにヤブサカではないけれど、本業を疎かにされても困るしなあ。

’06/05/04 (木)

音楽を観る


 HDDレコーダーRec-POT Fを使い始めて半年が過ぎた。「1台で充分」とか言いながら、1ヵ月後にはもう1台増設したりして、その後は快適に酷使している。1タイトル数万円というハイヴィジョンLD時代を知っている人間から見れば、まさに夢のようなキカイである。

 録画して特に楽しいのは、ライブ映像である。もちろん映画もイイけれど、たいがいは一度観て満足してしまい、繰り返し観ることは少ない。その点ライブ映像は何度見ても感激するのである。上の写真は昨年10月に録画した「クール&ザ・ギャング・ライブ」である。もう何度見たかワカラン。カッコ良過ぎですシビれます。

 「イーグルス・フェアウェル・ツアー1」もいい。これも擦り切れる(あり得ないが)ほど見た。昨夜はポール・マッカートニー(残念ながら525i放送)、エリック・クラプトンの放送があった。もちろんチェックである。

 映画も好きだが、やはり僕は基本的に音楽ファンなのである。これからもせっせとライブ映像を集めよう。となれば、HDDレコーダーの更なる増設が必要になるか。

 D-VHSデッキを買ったほうが早いかな。

’06/05/03 (水)

二進一退


 ここしばらく、じっくりと腰を据えて音を聴くことができずにいる。死ぬほど忙しい、というわけではないのだが、細々とした雑事に取り紛れているうち、気が付けば箱船へ行く時間がなくなっているのである。

 この状況がオーディオにとってデメリットばかりかというと、これがそうでもないのである。一日あたりの聴取時間が短いと、却ってその日その日の違いがよく分かったりするから不思議だ。

 前回はさっぱり冴えない音だと感じたものが、次に聴くと随分よい音で鳴っている。今日は音が良かったなーと、2、3日聴けずに放置、したら今度はどん底みたいな音に成り下がっていたり。のべつまくなしに聴いていたら、こういうふうにはならないような気がするのだが。何が違うのか、もちろん僕自身の体調や気分の所為もあるのだろうけれど、それだけでは説明できない差異もある。やはりオーディオは「生きている」ンでしょうか。

 良いと感じたりサイテーだと思ったり、そういうことを繰り返しながらも、総合的には僅かずつ向上し続けているようだ。現用機器が固定されて以来随分と時間が経つわけだが、未だ音は変化しているのである。ハタから見ると進歩がないようで、しかし当事者としては結構楽しんでいる。

 新しい装置を次々と導入し、その違いを楽しむも趣味。装置を固定化し、使いこなしとエージングによる変化を楽しむも趣味。僕は後者である。

 ビンボー人の負け惜しみ、とも言えるわけだが。

’06/05/02 (火)

八十八夜


 春の節分から数えて88日目、今日は「夏も近づく八十八夜」である。だが、昨日30℃まで上がった気温が一気に急降下、−13℃の17℃程度までしか上がらず、体感的にはヒジョーに寒い日になった。夏が近づいたのは昨日だった。

 昼夜の気温差が最も激しいのが5月であることは充分に承知しているものの、日によってここまでDレンジが広いと、ちょっと困ってしまうのである。皆さん、風邪にはご用心を。

 八十八夜になってなお、この桜が咲いている年も珍しい。おそらくは「御衣黄」という品種と思われる黄桜である。たいがいは4月中に散ってしまうものが、今満開である。この樹の隣りでは、ハナミズキが咲いている。これは本来5月中旬の花で、えらく早い開花なのである。この春の花は、何だかよく分かりません。

 ある古老の予測によれば、こういう年はある日突然イキナリ暑くなり、猛暑の夏がやってくる、という。

 気象庁の長期予報より、信頼できるかもしれない。

’06/05/01 (月)

新緑の皐月


 今春の祭りは、合併新町の町長、町議選挙などの関係で、4月最終土日の開催となった。何だか不安定だった天候も、ここに来てやや安定し始めたようで、両日とも好天に恵まれたのである。みんなの願いを、神様も聞き届けて下さったようだ。

 今年も村の神楽組が舞いを奉納してくれた。昨年までは見習として一緒に歩くだけだったY君が、今年は立派な小天狗となって堂々たる舞いを見せる。ひとつき以上前から一所懸命に稽古した賜物である。学校では得難い多くのことを、彼は学んだことだろう。大切なことである。

 つい先日まで冬枯れだった向かいの山も、気がつけばすっかり緑色に変っている。いつになったら暖かくなるンだろうと余計な心配はせずとも、来るべき時に季節はちゃあんと巡ってくるのである。

 新緑滴る、皐月です。