箱船航海日誌 2006年03月

日々雑感、出来事などを思いつきに任せて綴っていこう

過去の日誌コンテンツ

’06/03/31 (金)

救済


 analog誌最新号(vol.11)を読んだ。今や数少なくなった、毎号購読を楽しみにするオーディオ誌である。

 炭山アキラ氏の自作記事、レコードショップ巡りは楽しく拝読した。「チャック・マンジョーネ/フィールズ・ソー・グッド」300円、「TOTO/ハイドラ」315円、「小澤の四季」(テラーク)600円。中古盤とは言えなんちゅうハイCPか。やはりレコードとは、足で買うのが本来の姿なのである。ウラヤマシイ。

 今号の特集「蘇れ! レコードプレーヤー 修理とメンテナンスへの道」は、大いに参考になった。「保守部品の保持期間」が切れる装置が次々と増える中、修理メンテを専門に実施する会社(ほとんど個人営業みたいだが)が存在するのは非常に心強いのである。

 写真は、僕がスペアに保持するSP-10MkIIIのモーター部である。10数年前に中古で手に入れたものだ。当時、アナログ機器は粗大ゴミ同然の扱いで、驚くほど安かった。今では考えられないことである。

 このモーターも、保守部品に欠品が出始めている。一応修理を受け付けてはくれるけれども、故障部位によっては修理不能の場合もあるわけだ。前回は'03年8月にメーカー修理依頼している。この時は大変丁寧な対応で、不グワイは完璧に修理されて帰ってきた。それからすでに3年近く、現在も同じように行くかどうか、いささか不安である。

 トーンアームEPA-100MkIIは、随分前にメーカーへ問い合わせたら「保守部品はまったくありません。大切にお使いください」という返事であった。サポート部のメンテも、おそらく受け付けてはくれまい。この仕事は電気屋さんというより、機械屋さんの範疇である。エンジニアがいないんじゃないかしらん。

 analog誌の特集によれば、このアームをほぼ初期性能に復活させてくれる会社があるという。これは朗報だ。現用のEPA-100MkIIは、'88年1月から18年間に渡って酷使してきたものである。サポート部に問題が出ていると見るのが自然であろう。早速連絡を取ってみるべし。救われるような思いである。

 代わるものがない以上、慈しみながら使うほかないのである。

’06/03/30 (木)

切れが悪い


 真冬の風景である。今、外は猛烈な雪降りだ。予報では確かに「雪」であったが、チラつくくらいのものだろうと高を括っていたらとんでもない。あっという間に一面真っ白である。まさか除雪必要、とまでは行かないだろうけれど、明日の朝は数cm積もるかもしれない。なんちゅうことだ。3月30日ですよ。

 村の古老曰く、イニシエには4月18日に40cm積もったことがあると。満開の桜に大雪。さぞ不思議な光景だったことだろう。体験したいとは思わんが、ちょっと見てみたいような気はする。昔のことだからオオゴトにはならなかったようだが、今ならそこらじゅう事故だらけ。ヒトジニが出ること間違いなしである。

 やはり4月が来るまではスタッドレス・タイヤのままでよかった。14日に降った雪が消えた後、よほどノーマルに換えようかと、考えたが思い直したのは正解である。明日はまたあちこちで車が飛んだりひっくり返ったりするかな。

 昨年にも増してフン切れの悪い冬である。これでは3月中の開花など、望むべくもなし。どころか、花芽が寒さで傷んでしまわないかと心配になってくる。

 寒さも雪も、もう沢山である。

’06/03/29 (水)

LOW RIDERS


 某日、愚息1号たちのバンド練習準備風景である。どこまで続くかと、やや懐疑的に見ていたところが、それなりに盛り上がっているようである。グループ名も「LOW RIDERS」と決め、継続して練習している。ケッコウでございますな。学問は、大丈夫か。

 格好だけは、一流、っぽく見える。ギターの彼は新しくギブソンSG(モデル)とマルチ・エフェクターボード(いろんなエフェクターが一つのボードに合体したヤツ)を買い込み、ボーカル君はマイクスタンドを持ち込む。愚息1号はヴィンテージ(?)スネアに「音がデカい!」と喜び、ベース氏は、どうだったかな。

 これで演奏がバッチリ、だったらホンモノだが、ま、なかなかそう上手くは行かないのである。それでも初練習の時からすれば、随分と音楽になった、ように聴こえる。ビート感が出るにはまだまだだが、4人が同じリズムに乗れるようなった、くらいのレベルには達しつつあるようだ。お稽古は、大切です。

 バンドはドラムが一番のキモである。ドラムがイモだと、他のパートがどんなに上手くてもそれはイモバンドである。楽曲の基本、最も重要な骨格を成すのがドラムだ。1号ウカウカしてられん。責任重大である。

 名前負け、ルックス負けしないように、ルーディメンツもがんばろうね。

’06/03/28 (火)

コレを聴け


 年度末の事務処理に手間取り、日誌更新が後手後手に廻っております。申しわけございません。平に御容赦を。

 26日の最後のほうに書いたFREE2ndアルバム「FREE」の復刻盤180gAD、web上で発見したのは1月初めだった。イーグルスの「HELL FREEZES OVER」やダイアー・ストレイツの「BROTHERS IN ARMS」などと同じく、英SIMPLY VINYLレーベルからのリリースである。レコード番号はSVLP 165。原盤の(C)(P)1969、新盤はたぶん2005年のリリースだから、実に36年ぶりの復刻になるわけだ。

 古さは感じない。というよりも、却って新鮮でさえある。今時のやたらと音数が多くグチャグチャしたロックとは違い、実にシンプルでストレート、ハッタリやコケ脅し的なところは皆無である。数少ないFREEのアルバムのうち、この「FREE」が最高傑作とされているのも充分頷けるものである。J-ROCKしか聴かず、それで全部わかったようなカオをしている今時の若え衆に、是非とも聴かせてやりたいものだ。ホンモノの8ビートたァ、こーゆーものだと。

 以前に比べて復刻が上手くなったSIMPLY VINYLレーベル、このレコードもなかなかヨイ。ディジタル・リマスターCDに比べてもより自然で強調感がなく、非常に素直な音に仕上っている。歪み感も少なく見通しも良い。もちろん、従来から持っている国内再発盤などは足許にも及ばないのである。

 3rd「FIRE AND WATER」と5th「FREE LIVE」は、米ユニバーサルから180g盤で復刻されている。もちろん手持ちにあるが、これは音が生硬くてイマイチだった。あとは1st、4th、6th、7thの4タイトルが残っている。個人的には6th「FREE AT LAST」が大好きで、是非とも復刻(できればSIMPLY VINYLで)してくれんかと、思うのだが、ダメかしらん。

 期待しましょう。

’06/03/27 (月)

知ってしまった


 5日の日誌に「CDはまだ入手可能なようである」と書いたのは、最近になってから実際に入手された方がいらっしゃるように仄聞したからである。僕自身は検証してなかった。これでは無責任である。遅まきながら調べてみた。「Mary Stallings / Fine and Mellow」(米CLARITY RECORDINGS CCD-1001)。

 Amazonで歌手名検索してすぐにヒットした。当然ながら輸入盤のみ、発送まで3〜5週間と少々時間がかかるものの、確かに入手可能である。

 写真は僕が'94年7月に買ったCDである。「CLARITY RECORDINGS」のロゴマークの左には「FIRST GENERATION DIRECT MASTER CD」という表記がある。

 ガラスマスター → メタルマスター → マザー → スタンパー → CD。これが一般的なCDの製造工程である。そこをこのCDでは、マザー、スタンパーの工程をすっ飛ばし、メタルマスターからいきなりCDをプレスしてしまうのである。ちゅうわけで「DIRECT」、しかもマスターテープは第一世代、劣化の少ないものが大元になっているわけだ。

 このCDは極めて優秀である。AD(CNB-1001)にまったくひけを取らない。艶と色気では一歩譲る感じだが、SNの良さと鮮明感はCDの勝ちだ。こだわりが見事に結実しているのである。

 第一世代メタルマスターから直接プレスする、ということは、あまり数が取れないはず。(C)(P)1991、初出から既に15年経っている。現在入手可能なCDも、これと同じバージョンなのだろうか。

 ショップサイトにある現行CDのジャケット写真を見る限りでは、やはりバージョンが違うようでもある。レーベルロゴ左の表記が「Naturally Balanced Two Microphone Recording」となっている。CLARITY RECORDINGS謳うところの「DIRECT MASTER CD」ではないということか。

 さらに別バージョンがもう一つ。「Original recording remastered」と銘打たれたゴールドCDである。ロゴ左には「FIRST GENERATION〜」の表記を隠すように短い文言(写真が小さく読めない)を書いたシールが貼ってある。もしリマスター盤であるならば「第一世代ダイレクト」でないことだけは確かだと言える。

 現状、CDには少なくとも3バージョンあることが分かった。今回ヒットした2バージョン、知らなきゃよかったものを、知ってしまってはもうイケナイ。どんな音かしらん。例によって好奇心を刺激され、ムズムズするのである。

 これはもう注文してしまう流れなのである。

’06/03/26 (日)

リマスターFREE


 '60年代後半から'70年代前半にかけて活躍したブリティッシュロックバンド、FREEのファンであることは、これまでに何度も書いた。しかし、リアルタイムでは聴いていないのである。彼らが最も人気のあった頃、僕は小学1〜5年だったのだから、仕方ないのである。

 手持ちには全タイトルのADがあるものの、それらはすべて'80年代になって再発された国内廉価盤である。どんなマスターからプレスされたのかも判然とせず、音はいささかプアである。元々があまり良いとは言えない録音だとしても、中には壊れたラヂオみたいな音のものもある。

 これではあんまりだ。何とかならんかと、ちょっと検索してみれば、ADではないけれどオリジナルマスターからのディジタルリマスターCDが出ていることがわかった。デビューアルバム「TONS OF SOBS」から7th「HEARTBREAKER」までの7タイトル。それぞれに6〜10曲のボーナストラック(未発表ライブテイクやスタジオライブテイク)付きで1枚1,749円とハイCPである。すべて(C)(P)2002。

 1月末にAmazonで注文し、今月になってようやく全部揃った。国内盤もあるが、今回は輸入盤を選んだのである。その理由は、写真の通り。1st〜7thのCDを順番に並べると、背の写真がつながってポール・コゾフの横顔が浮き出るのダ。国内盤にはない仕様である。ツマランことだが、ちょっとウレシイ。

 内容は何年にもわたって聴きまくり、よくよく知っている。肝心なのは音のほうだ。これがなかなか立派なもので、かなり向上している。タイトルによっては意識的に高域をブーストしてある感じのものもあるが、概ねヨロシイ。ボーナストラックも興味深く聴けた。

 特に4th「HIGHWAY」(英ISLAND IMCD 283/586226-2)は優秀である。ロックというよりはトラッド・フォークのような感じで、リマスターによって静けさと透明感のある楽曲がさらに際立っている。やはり彼らは、イギリスのバンドなのである。

 リマスターADは出ないだろう。と思っていたら、SIMPLY VINYLから2nd「FREE」の180g復刻盤ADが出ていてビックリした。

 こちらも是非コムプリートして欲しいものだが、さて。

’06/03/25 (土)

間に合うか


 この季節が来れば、話題は決まったようなものだ。例によって桜、である。今日25日は非常な好天で、気温も随分と高かった。彼岸中日にはまだまっ茶色でカチカチだった花芽も、一気に大きくなった感じだ。

 5年前4月3日、4年前3月29日、3年前4月6日、一昨年3月29日、昨年4月9日。ここ5年間の開花日である。早い年と遅い年が交互に並んでいる。この周期からすると、今年は3月中に咲かねばならんわけだが、残りあと6日、ちょっと間に合わないような気がする。この冬は、ことのほか厳しかったからなあ。

 重い雪がたくさん降った所為で、小枝がたくさん折れてしまった。何となく樹に勢いがないようにも見える。花の密度イマイチ、ちょっと寂しい満開風景になるかもしれない。残念だが、これも自然の営みなのである。

 そうではあっても、やっぱり春の桜は、いい。

’06/03/24 (金)

眺めるだけで


 腰を据えて音楽を聴けない時でも、一日一度この風景を見るだけで僕は癒されるのだった。ほんの数分、オーディオ装置の周りをグルグル歩いて眺めるだけ。サウンド・リスナーではなくサイト・シーカーである。それである程度気が収まるのだから、我ながらヘンなヤツだと、思う。

 音楽が好きでオーディオを始めた。これは確かである。しかし同時に機械好き、金物好きであることも事実で、メカメカしいものに囲まれていること自体で欲求が満たされるのである。

 しかもそれは、一見してソリッド感がないといけない。ガワや価格だけが立派で中身カラッポ、みたいなキカイでは許せないのである。「価格が同じなら重いほうを選べ」という長岡流選択方法を知る以前から、僕は頑丈そうで重いものが好きだった。僕が長岡イズムをすんなりと受け容れることができたのは、そのあたりに大きな理由がありそうだ。

 オーディオファンであれば、誰しも大なり小なり機械マニア的側面を持っているのではないかと思う。車マニア、カメラマニアを兼務(?)している人が多いのも、その証左かもしれない。僕のもう一つの趣味であるドラムも、他の楽器に比べて圧倒的に金物が多くメカメカしている。長岡先生もカメラマニアだったし。

 夜中にシステムをマジマジと眺め、独りニタニタしたこと、ありませんか。

’06/03/23 (木)

愚息2号卒業


 愚息1号の小学校卒業から2年、今年は2号が卒業した。女子5名、男子7名、12名一クラスの卒業生たちである。6年間、みんなよくがんばりました。おめでとう。

 2年前の時点で84名だった全生徒数は16名減の68名となり、2号のクラスが卒業して56名。4月の新入学児童は10名で、さらに2名減。平成18年度からは全生徒数66名の、如何にも寂しい小学校となるわけである。1学年平均11名。

 ベビーブーマー世代が小学生だった頃、この学校には250名以上の児童がいた。1955年〜1961年頃のことである。愚息1号が入学した時(1998年)の児童数は120名だった。約半数まで減るのに40年ほどかかっているわけだ。それがさらに半数になるのには、たったの8年である。少子化と過疎化が、大きな影を落としているのである。

 今後、児童数が回復増員することは望めない。ますます減ってゆく一方であることは、入学予備軍がいる地域保育所の園児数を見れば明らかである。将来的には、統廃合を含めた存続論議が持ち上がってくるのが当然の流れだろう。

 僕が卒業した小学校は、今も存続している。しかし、中学校と高校は廃校、どちらも名前が消えた。中学校に至っては校舎すら残っていない。京阪神のベッドタウン、人口35万人を数える高槻市でさえこの有様なのだから、合併してなお2.5万人に満たない地方都市では語るに及ばず、ということなのかもしれない。

 僕が入学した時の小学校(1968年)には1,500人以上の児童がいて、体育館から教室へ移動するのに迷子になってしまったことを覚えている。そこら中コドモだらけ、廊下の向こうがモヤに霞んでました。

 二度とない光景、だろうなあ。

’06/03/22 (水)

二代目ドラマーへ


 愚息1号のドラム熱は冷めることなく継続している、どころかますます盛り上がっているように見える。病膏肓に入りつつあるのだろう。僕にも身に覚えがあるから、よく分かる。道理を踏み外さない程度に、がんばってください。

 写真は、僕が高校生の頃に買ったものである。日本三大ドラムメーカーの一つ、TAMA製。当時の最高グレード「IMPERIAL STAR」シリーズのスネアドラムである。14インチ(径)×6.5インチ(胴の深さ)、シェル(胴)にはカバ、要するにバーチ材が使われている。高3の夏休み、勉強もせずにヒッシでバイトし、買ったものだ。確か48,000円、当時の僕にはモノスゴイ高級品だった。

 高校生のお遊びバンド時代から、ライブバンド三十三間堂時代まで、苦楽を共にした思い出深いスネアドラムである。シェルやフープに付いた傷跡一つにも思い出がある。柱の傷はおととしの。現在はすっかりリタイヤし、静かな余生を送っていたわけだが。

 楽器というもの、使わなければ衰えて行くものである。人間の体と同じだ。久しぶりに叩いてみたら、随分と抜けの悪い音になっている。懐古趣味も結構だが、楽器は飾っておくものではないのである。使ってナンボのものだ。

 そこでこのスネア、愚息1号に譲ることにする。一旦金物を全部外し、掃除をしたらばすっかりきれいになった。多少サビが出ている部分もあるが、実用上問題はない。1979年製、ギターで言えば「ヴィンテージ物」である。残念ながらドラムにはそういうジャンルはないけれど。

 現役のドラム小僧がバンバン叩けば、やがて目覚めて再び良い音で鳴り始めるだろう。それでこそ楽器である。

 積極的にビョーキを悪化させている危惧も、あるわけだが。

’06/03/21 (火)

春の訪れとともに


 例年になく寒い彼岸中日だった。と書いてみて、気がついた。昨年もまったく同じことを書いているのである。そうか、去年の中日も、寒かったンだ。すっかり忘れているのである。いい加減ですなあ。

 お盆ほどではないけれど、やはりこの時期は業務繁忙になるのである。昨日から今日にかけては特に業務が混み合い、オーディオにもwebにも手が回らなかった。極めて健全と言えるわけである。業務完遂してこその、趣味なのだから。

 お彼岸が明ければ季節はすっかり春、になる予定。時候がよくなれば、仏事を営む御家も多くなる。お寺参りのお客様も増え、しばらくは多忙な日が続きそうである。雪に降り篭められ、家の中で鬱々としているよりは、よほど健康的だ。本堂に鎮座ましますご本尊様のご尊顔も、心なしか明るく見える。ような気がする。

 どんどん光を浴びて、冬の鬱憤を晴らしましょう。

’06/03/20 (月)

「おはぎ」か「ぼたもち」か


 お彼岸である。18日が彼岸の入りだから、20日は3日目、明日21日がお中日となるわけである。暑さ寒さも彼岸まで、というわりにはエラく寒いのである。12〜13日に積もった雪は消えてしまったが、今日もまた雪降りだ。異常に低温なお彼岸になりそうである。

 お彼岸といえば、おはぎ。否、春のお彼岸だから、正確には「ぼたもち」である。最近「おはぎ」と「ぼたもち」の違いをマスコミなどが取り上げることが多いから、ご存知の方も多いと思う。同じものか、違うものか。

 実質的には同じものである。季節によって呼び方が変るだけだ。春彼岸は牡丹の花が咲く頃だから「牡丹餅」、秋彼岸は萩の花の頃になるから「お萩」と、こういうワケである。漉し餡が「ぼたもち」でつぶ餡が「お萩」、と思っていらっしゃる方も多いだろう。ひょっとするとその逆のほうがマジョリティかもしれない。これにもちゃんと理由があるのダ。

 春に使う小豆は、前年の秋に収穫したものである。年を越して乾燥が進み、皮が固くなっている。ので、餡にするとき固い皮を取り除く。結果、春は漉し餡の「ぼたもち」となる。秋の小豆は収穫したてで皮が柔らかい。ので、つぶ餡仕立ての「おはぎ」となるわけだ。それがいつの間にか、漉し餡「おはぎ」、つぶ餡「ぼたもち」と逆転してしまったのである。ああ、ヤヤコシイ。

 現在は保存技術が進み、季節にかかわらず美味しいつぶ餡が作れるようになった。だから余計にヤヤコシイのである。ともかく、餡や中身のグワイに関係なく、春「ぼたもち」秋「おはぎ」と覚えておけば間違いないのである。

 古来、小豆の赤い色には破魔除難の力があると信じられてきた。その信仰が仏教儀式にある彼岸供養と結びつき、お彼岸に小豆餡の餅を仏前にお供えするようになるのである。本来は自分達が食するためのものではなかったわけだ。仏様のお下がりをいただくことから、今の習慣ができあがって行ったのである。

 毎彼岸欠かさず、必ず自家製のおはぎ(ヤヤコシイからこれで統一する)を届けてくださる篤信の方がいらっしゃる。継続すること数十年、僕が知る限りでも現在3代目である。この彼岸も、今朝方いただいた。ありがとうございます。

 古式に則り、先ずはご本尊様、庫裏の守護神で在らせられる韋駄天様にお供えし読経一巻。晩ゴハンのあとにお下がりを美味しく頂戴した。勿体無いことである。

 「おはぎ」「ぼたもち」。どっちゃでもエエがな、っちゅう話でもあるわけだが、これも伝統的日本文化の一つである。今後、召し上がる時には、宗教文化とも深く結びついていることに思いを馳せてみてください。

 何かいいこと、あるかもしれません。

’06/03/19 (日)

諸行無常


 長岡先生が初めてKLAVINS Mod.370のCDについて書かれた「レコードえんま帳」が掲載されている、レコード芸術1990年12月号である。ばっかすさんからのご教示により判明したものだ。ありがとうございました。

 僕がこういう古い雑誌を捜して、一発で見つかることは滅多にない。一応捨てずにすべて保存してあることは確かなのだが、大概は素直に出てこず大捜しするのである。そして必ず、1号前、1号後(この場合なら11月号、翌年1月号)が発見できて目当ての号だけが見つからない。こうなる確率は恐ろしいほど高く、いつもイライラするのである。マーフィーの法則と言うべきだ。

 今回は極めて稀なことに、一瞬で見つかった。レコ芸はあの本棚に仕舞ったか、と目を遣ったそこにあったのである。これもご縁の成せる業か。

 1990年12月号というと、もう早15年半ほど前の刊行になるわけである。当時長岡先生65歳、まだまだバリバリである。オーディオコーナーに執筆されているお名前を見ると、今では先生を含めて5人の方が鬼籍に入っておられるのである。

 長岡先生、若林駿介氏、山中敬三氏、高城重躬氏、入江順一郎氏。このほかにも少なくない数のオーディオ評論家氏が亡くなっている。最近では、MJ(無線と実験)誌に執筆されていた川崎克己氏が逝去されたばかり。悲しいことである。顧み、改めて感じ入る。諸行無常である。

 1990年、僕は29歳だった。箱船もまだ建っていない。今から15年先というと59歳、昔風に数えで言えば還暦なのである。いい歳になる、というよりも、生きていられるのだろうかと危惧する思いのほうが強い。

 識らず、短くない時間が、過ぎ去っているのである。

’06/03/18 (土)

実用派


 腕時計の世界も奥が深く、こだわる人は徹底的にこだわるようだ。僕はソチラ方面には全く無頓着で、要するに時間が分かればよいという、面白くも何ともない実用派である。実際これまで使ってきたのは、メーカーさえ判然としないクロノグラフタイプのテキト〜なヤツである。それで充分なのだ。

 ところがやはりいい加減なものはどこまでもいい加減なのであって、そんなに年数も経たないのにアッサリと動かなくなってしまった。電池を交換してみるも、無反応。修理するほどのものでもないから、さっさと見切りをつけて新調する。腕時計を買うなんて、何年ぶりのことだろうか。

 さて、新調すると言って何を選べばよいのか。滅多とない機会だから、ある程度はこだわりたいとも思う。もちろん、実用的にという意味で。

 比較的安くて丈夫で、電池が長持ちして正確で、少し重めで基本的にはアナログで時刻が読みやすく、ゴツゴツした男性的なディザインのものが良い。無頓着と言いながら、やたらと注文が多いのである。だが、そんなに都合の良い腕時計が、あるのか。

 あるのだった。親しい友達が使っている腕時計を思い出した。Gショックのソーラーバッテリー式電波腕時計である。うむ、と3秒考えてこれに決定。実際買ったのは上のものである。「カシオ Gショック電波時計&タフソーラー GW-1510J-3AJF」というモデルだ。

 常識的な価格、ショック・レジストで極めて丈夫。文字盤がソーラー発電機になっていてバッテリー(二次電池)に充電しながらムーブメントを駆動する。電池長持ちどころか半永久的に交換不要である。電波時刻情報(発信元はセシウム原子時計だそうです)を自動受信して時報と同等の正確さ、かなり大型で重め(厚さ17mm、63.6g)、アナログ+ディジタル表示方式、ルックスは極めて武骨である。ハイ、よくできました。条件にぴったりである。

 イヤ、ちゃんとした(!)腕時計って、よいものですね。初めて買った時くらい嬉しいのである。これを機に、僕は腕時計マニアになる。わけはないのであって。

 おそらく、死ぬまでこれを使うに違いないのである。

’06/03/17 (金)

楽屋ネタ


 新しいCDソフトが届いたので、日誌を書く前にちょっと、と聴き始めたら止まらなくなってしまった。イモヅル式にあれもこれもと聴いてしまい、あっという間に真夜中になっている。今風に言うなら「CD(レコード)サーフィン」である。まとめて音楽を聴くのは、久しぶりなような気がするのである。

 webページを始めてから今年で6年になる。以前に比べるとオーディオしている時間よりもパソコンの前に座る時間のほうが長くなっているのである。これじゃどっちが主だかワカランね。

 日誌を書くに、僕の手順は凡そ次のようなものである。話題を決め、写真を撮り、画像を編集し、フォルダに保存し、日誌htmlファイルにはめ込み、日付曜日を変更し、文章をヒネり、タイトルを決め、最後に過去日誌見出しを作る。場合によっては先にタイトルが決まっていることもあるが、これは稀である。

 作業完了まで、分量にもよるが早い時で1時間半、話題を決め切れぬ時には3〜4時間くらいかかってしまうこともある。ヘタはヘタなりに産みの苦しみが、あるわけだ。

 こうなると、腰を据えてオーディオしている時間がなかなか取れない。趣味に割ける時間には限りがあるのだ。オーディオしないと話題がない。話題がないと日誌が書けない。だからオーディオする。と話題は見つかるが日誌を書く時間がなくなる。堂々巡りである。

 で、今日はじっくり聴いたから話題があるのか。それがですねえ、大喜びで聴いただけで終わってしまいました。はー面白かった、と気がついたら話題がない。なーにやってンでしょうか。

 とゆーわけで苦し紛れの楽屋ネタ。シツレイ致しました。

’06/03/16 (木)

「ン」のつく音が先を争い


 クラフィンス・モデル370の音を聴いていたら、突然上のレコードが聴きたくなった。「MALCOLM BILSON, FORTEPIANO / BEETHOVEN SONATAS / MOZART RONDOS」(米nonesuch H-71377)。(P)(C)1980、録音についての詳細は記載がなく不明。時期はたぶん'70年代後半だと思われる。A面24分45秒、B面20分55秒。B面には「月光」が収録されている。

 外盤A級セレクション第1集35番に取り上げられているから、お聴きになった方も多いと思う。この中での白眉は、やはり「月光」である。

 数ある長岡先生のレコード評のうち、僕はこの「月光」についての表現は最高ランクに位置すると思う。抜粋して引用してみる。

 「このレコードの目玉は月光だ。演奏は熱狂的というよりは発狂的、月光というよりは電光石火。特に第2、第3楽章は猛烈なハイテンポ、ウルトラ・ダイナミックな演奏で、のけぞりそうになる。クラシックというよりはフュージョンに近い。低音は少しボンつく感じがあるが、高音部は壮絶、チンチン、ジンジン、ギンギン、ガンガン、ゴンゴン、ブンブン、ドンドンと、あらゆるンのつく音が先を争って飛び出してくる」

 「あらゆるンのつく音が先を争って飛び出す」なんて表現、長岡先生以外に誰ができようか。これを読んで、聴きたくならなかったらウソである。

 実際に聴いてみると、まさにその通りの音なのである。こんな月光、他では絶対に聴けない。高音弦が猛スピードで振動している様がありありと分かる。弾きまくり、というよりは叩きまくり。打楽器である。弦がハンマーのフェルトにメリ込んでるンじゃあるまいか。いや、凄い凄い。この音はコンサートグランドでは出せない。

 この「ン」のつく音が、モデル370の高音部に相通ずるものがある。立ち上がりが鋭く透明感の高い音。かたや18世紀の古楽器(実際に使用しているのはレプリカだが)、かたや20世紀末に開発されたスーパーピアノである。モデル370は、現代のコンサートグランドを超えるスーパーピアノではなく、18世紀のフォルテピアノから一足飛びに進化したウルトラ・フォルテピアノと言ったほうがよいと思う。

 奏者のマルコム・ビルソン氏は、音楽大学のピアノ科教授(当時)だそうで、特にフォルテピアノ研究の第一人者でもある。是非、ビルソン教授にもモデル370を弾いていただきたいものである。1935年のお生まれだから、このレコードは40台半ば(今の僕と同年代!)の録音になるわけだ。今や70歳を超えようとして、同じような「発狂的」演奏が望めるかどうかは疑問だが。

 下衆な好奇心と分かっていながら、それでも聴いてみたい。

’06/03/15 (水)

ティムさんのおとぎ話


 家族(主に、愚妻)からのリクエストにより、ファミリー・シアターでDVDを上演した。「チャーリーとチョコレート工場」(日WHV DLW-59337)である。本編115分、特典ディスク74分つき。片面2層ディスク2枚組で税込3,980円。

 40年以上読み継がれている児童書を映画化した作品である。ストーリーに詳しく触れるのはルール違反だから書かない。ただ、小憎ったらしいガキ(イヤ失敬、お子様)と馬鹿な親が、お約束の如く手痛い目に遭うのは結構なのだが「児童ギャクタイだ、ケシカラン!」と文句がつかんのかしら。ちょっと心配になってしまった。

 ウチの映像装置では、DVDは525iか525pでしか見ることができない。今では当たり前になったスケーラー機能などというものはナイのである。未だにDVD-H1000なのだから。あまつさえ、DVIやHDMIなんか全く無縁。そういう環境であることをお断りしておいて。

 非常にきれいである。解像度が高く質感がよく出る。特にチョコレート工場内部の風景は最高である。カラフルで明るく抜けが良い。色数が多いので、見ていて楽しくなるのである。CGとセット実写との境い目は、ほとんど判別できない。今時そんなことは驚くにあたらんのかな。最近のDVD、本当にきれいになりました。

 監督はティム・バートンである。彼の作品で僕が見たものというと、「ビートル・ジュース」、「バットマン」シリーズ、「シザーハンズ」、「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」、「マーズ・アタック」など。こうして並べてみれば、なるほど統一感がある。バカバカしくもヒューマンドラマ、おどろおどろしくもチャーミング、おとぎ話でありながら示唆的であったりして、僕は好きである。「マーズ・アタック」でジャック・ニコルソンやピアーズ・ブロスナンに、ああいう役を演じさせられるのも、この監督くらいのものだろう。

 お金持ちの家の子はヒネくれ、貧しい家の子は素直に育つ。現実か幻想か。

’06/03/14 (火)

冬の最後っ屁


 3日前は初夏のような陽気だったものが、今日はこの有様である。前庭の雪がやっと消えて喜んでいたのに。クロッカスやツクシが気の毒である。ウグイスも凍え死にするンじゃないか。天気図は強烈な冬型である。春はどこへ行った。

 過去日誌を繰ってみれば、5年前、2年前にも同じような3月の大雪が降っている。2001年3月9日、2004年3月8日。今回は3月12日からの降り始めだから、3回とも同時期と言えるだろう。積雪量もほぼ同じで、30cm〜40cm。3月には大雪が一度はあると、思っておいたほうがよさそうだ。

 先日、愚妻が「もう夏タイヤに換えても大丈夫かしら」というから「まだ遺憾。4月になるまでは油断できんぞ」と言ったその通りになったわけだ。昨日近くを走ったら、見事スベって電柱にぶち当っている車を見た。たぶん気の早い人で、夏タイヤに換えちゃってたンだろうなあ。お気の毒。

 2001年、2004年とも大雪のあとは急激に暖かくなり、一気に春が深まっている。今回も冬の最後っ屁であることを願って、この雪景色を楽しんでおきましょう。

 なんてったって、3月だから。

’06/03/13 (月)

チェックCD


 極性反転再生の実験で、トゥイーターに少し違和感があった。いささか気になるのである。そこでチェックしてみることにした。取り出だしましたるは上のCD。

 「Michael Ponti Live on Klavins Mod.370」(独KLAVINS MUSIC KM-001)である。(P)(C)1989。1989年4月22日、西ドイツ(当時)ボンのクラフィアハウス・クラフィンスに於いて、B&K4003を2本、ナカミチの1000 PRO(DAT)で2トラックダイレクト録音してある。

 知る人ぞ知る、クラフィンス・ピアノによるカスタムビルトのスーパーピアノ、モデル370をミカエル・ポンティが演奏する。「展覧会の絵」を中心に、ショパンとリストの曲も収録されている。

 写真は裏表紙である。このホールがクラフィア・ハウスだ(と思う)。左にあるのが一般的なグランドピアノ、右のパイプオルガンのようなヤツが、モデル370ピアノである。高さ3m70cm(これが型名の由来)、幅3m80cm、奥行き2m80cmの巨大なピアノである。完全作り付けで、一度据えたら移動はできない。最長低音弦の長さは3m03cm、これを通常のピアノを遥かに超える強大なテンションで張ってある。もちろん高音弦も通常より長く、テンションも強いわけだ。

 長岡先生の紹介記事で初めて知った。初出は確か、レコード芸術に連載されていた「レコードえんま帳」ではなかったか。1991年頃だと思う。

 音は強力壮絶である。中高域は立ち上がりが鋭く、美しく澄み切っている。低域は恐ろしいほどの力感と重量感を伴い、ガーンとくる。大きなフライパンで顔を叩かれたような、しかし暴力的な音ではない。フツーのピアノでは逆立ちしてもこんな音は出せない。サウンドマニア向けピアノ、でありながら、音楽性も極めて高く、知り合いのピアニストに聴かせたら「私も弾いてみたい」と目をギラギラさせていた。ベートーヴェンが生きていたら狂喜乱舞したかも。

 このCDが、トゥイーターにとってはヒジョーに厳しい試金石となるわけである。不グワイがあると、高域にジンジンとした付帯音が纏わり付き、折角の透明感が台無しになる。他のCD、ADでは見つからないトラブルが、なぜかこれを使えば明らかになるのである。

 結果はOKだった。全曲再生してみるも、問題なく鳴っている。ヨカッタヨカッタ。久しく聴いていなかったが、改めて思った。このCD、すごくいい音である。長岡先生は同じシリーズのKM-008(奏者はトーマス・ドゥイス、ベートーヴェンの『熱情』が入っている)を推奨されているけれど、個人的にはこのKM-001のほうが好きだ。

 残念なのは、入手困難なこと。「クラフィンス・ピアノ」という会社は今も存在するし、ホールとモデル370もこのままのようだが、CD販売はしていない様子。元々のプレス数も少なかったとも聞く。マスターはあるのだろうから、再プレスしてくれんものかと思う。

 このまま埋もれてしまうのは、惜しいのである。

’06/03/12 (日)

NG


 さて、昨日の続きである。プリアンプで極性を反転させ「DISCOVERED AGAIN !」を聴いてみるのである。

 結論から先に言うと、箱船環境では残念なことに、なってしまったのである。すべての音が奥に引っ込み、低音は影が薄く、中高域はやたらと埃っぽくカスカスになる。音離れが極めて悪く、音像はスピーカーに貼り付き立体感がきれいさっぱり消え失せる。異様なまでに平面的である。これは遺憾。悪いほうへの激変だ。なぜこうなるのかさっぱり分からない。

 考えていた以上に差が大きい。何か間違いでもあるのかと思うほどである。ので、P-700(Sネッシードライブ)をOFF、SWのみで切換え試聴してみた。やはり差は明らかである。極性反転再生では、低域の力感が著しく損なわれる。好意的に聴けば、締りが良くなると言えなくもないが、質感量感が大幅に低下するのは我慢できない。やはり反転させないほうが良いようだ。

 ある環境でベリー・グッド、またある環境ではベリー・バッド。僕の(数少ない)体験からして、オーディオにおいてこういうことは珍しくも何ともないのである。よくあることだ。

 スピーカーのみに注目すれば、動作が逆になるだけ。音が出る時にコーンが出っ張るか、引っ込むかだけの違いである。しかし、再生音とは部屋のアコースティック環境込みで決まるもののはず。だとすれば、部屋が変れば結果も変るのが当然とも言えるわけである。スピーカーシステムの方式による差異も、あるかもしれない。

 その環境にマッチングの良いほうを選べば良いのだと思う。優劣の問題ではないのである。実際クレジットにも「必ずしも上手く行くとは限らない」とあるわけだから。試しに「THELMA HOUSTON & PRESSURE COOKER / I've got the music in me」(LAB-2)、「James Newton Howard & Friends」(LAB-23)も反転再生してみたが、やっぱりダメだった。

 ただ、ちょっと気になるのは反転の方法である。プリで反転させるのは間違いではないと思うけれども、スピーカー接続で反転させる実験もやってみるべきだろうと、考える。昨日も書いた通り、これはヒジョーに面倒だし、それ以上にあまり触りたくないところでもある。余裕がある時に、試してみるべし。課題として残しておこう。

 現状ウチでは、そのままがイチバン。飼い主が単純だからだろう。

’06/03/11 (土)

ひっくり返してみよう


 拙掲示板へのご投稿にある通り「Dave Grusin / DISCOVERED AGAIN ! 」(米sheffield lab LAB-5)のジャケット内側には「AUDIOPHILE NOTE」という注意書きが付されている。恥かしながら、ご教示いただくまで全く気がつきませんでした。

 曰く「For optimum transient response and spatial clarity, we recommend that the polarity of BOTH channels be reversed at the speaker terminals ( + output terminal on power amplifier to - terminal on speaker and vice versa ), however this procedure is not necessary for perfectly satisfactory playback.」とある。

 「最適な過渡応答と鮮明な音場空間のために、両方のチャンネルの極性をスピーカー端末で逆にすることをお勧めします。しかし、この手順で必ずしも満足できる再生音となるかどうかはわかりません」というような意だろうか。違っていたらゴメンナサイ。

 そうであれば、試してみるに如くは無し。ご投稿にも、差はかなり大きいとある。しかし、である。スピーカー端子のところで極性をひっくり返すだけ、と言っても箱船システムではそれがなかなかに面倒である。サブウーファー、Sネッシー、その上に載っているトゥイーター、すべて裏返さねばならない。

 特にトゥイーターは問題である。コンデンサーとケーブルが狭いスペースでヒシメキ合っていて、とても簡単には行かない。さて、どうするか。

 問題ない。C-280Vには、フェイズ・インバートスイッチがついているのである。

’06/03/10 (金)

オーディオにも春


 ようやくADがまともに聴ける季節がやってきた。ファンヒーターのみ1時間弱の稼動で室温17℃〜18℃をキープできるようになれば、まずまずである。尤も、カートリッジ本体が暖まるには1時間ではとても足りないわけだが、それでも極寒の頃よりはずっと好条件である。

 低室温で聴くADで、最も割を食うのは人の声である。長岡先生もしばしばおっしゃっていたように、人声のDレンジは半端ではない。ささやきから絶叫まで、恐ろしいほどの広さである。完璧に再生するのは極めて困難、殊に女性ボーカルは難しいように思われる。

 冷え切ったカートリッジでは、グーンと声を張り上げる部分でクリップする感じが出てしまうのである。サチっている、とまで行かずとも、頭を抑えつけられたようなヒジョーに不自由な感じがあり、如何にも愉快でない音が出る。もちろんカートリッジだけが原因ではないのである。ユニットのエッジが冷えていれば、それなりの影響は考えられる。要するに、カートリッジもスピーカーも、寒さに固まり正常な動作ができていないわけだ。

 冬の間は、どうしてもヘンな音しか出ないADを、久しぶりに幾枚か聴いた。うむ、OKである。未だ少々生硬い感じは残るものの、あの大雪の最中に比べればうんと良い音だ。

 インドア趣味のオーディオでも、春の訪れはちゃんと感じられるのである。

’06/03/09 (木)

お便りに大感謝


 「方舟と箱船の大ファン」とおっしゃる方からメールをいただいた。関東在住の方である。拙webページへのお励ましやら、使いこなしのことやら、僕にとってはとてもありがたく心暖まるものであった。こういうお便りをいただく時、僕は思うのである。webやっててよかった、と。ありがとうございました。

 幾枚か写真も送ってくださった。上はそのうちの1枚、ご愛用の砲金製ADスタビライザーの勇姿である。見事な鏡面仕上げで、極めて美しい。メッキでは出せないソリッドで深みのある艶。これはひょっとして、と思ったら、やはりそうだった。この方、自称「DHK埼○支部長」さんなのである。決死の覚悟で偏執的研磨をカマされたわけだ。う〜む。DHKは知らぬ間に勢力を拡大していたのだな。さすが、深く潜行しながらジワジワ拡がる地下秘密政党である。

 ここまで美しく仕上げるのは並大抵のことではない。実際にやってみればすぐに分かる。尋常ならざる手間と時間がかかっているのである。これはもうDHK以外の何物でもない。ので、この際「自称」を外し、堂々と「支部長」を名乗っていただこう。自称総裁が言うンだからマチガイナイ。

 なかなかいい形だと思う。これまでにいろんなタイプのADスタビライザーを使ってみた経験からすると、大雑把に言って平行面と鋭角部分の少ないものほど良い結果が得られることが多かった。その点、写真のものは天と底以外に平行面はなさそうだし、鋭角部分も少なく見える。径と高さのバランスも良く、優秀なスタビライザーであろうことは想像に難くない。

 毎日愚にもつかぬ正に「戯言」を書き連ね、忸怩たる思いで居る。しかし、それがわずかでもお役に立っているとするならば、僕にとって大いなる幸いなのである。仲間が増えるのは、実に楽しくまたありがたいものだ。

 ご縁に感謝したい。

’06/03/08 (水)

満を持して


 境内の雪はほとんど消え、ようやく普通のクツで裏表を一周できるようになった。ので、雪による建物や植木への被害がないかどうか、検分して回ったのである。これも住職の大切な務めである。

 幸いにして大きな被害はないようで、安心した。ただ、中庭のサツキは重い雪に長く押さえつけられていた所為で、ひどく形が歪んでいる。桜も小枝が随分折れているようだが、まあまあこれくらいで済めば幸いと言うべきである。垂木が折れて軒が崩壊したりしなかっただけでもヨカッタ。

 箱船裏の土手には、早くもツクシが顔を出している。先週には影も形もなかったクロッカスもご覧の通り、一気に蕾を付け始めた。ここ2、3日で、急激に春がやってきたようだ。みんな雪が無くなるのを満を持して待っていたのである。もちろん、僕も同様だ。

 12月から1月にかけての大雪の時には、一体いつになったら終わるのだろうかと暗澹たる気持ちになったものだが、時期が来ればちゃんと春になるのである。尤も、大きな被害がなかったからこそ、悠長に構えていられるわけである。所によっては、とんでもない被害に遭遇された方もいらっしゃるのだ。

 今年ほど春をありがたいと思う年も、滅多にないだろう。

’06/03/07 (火)

20年ぶりのMkII


 T-300A、T-500Aの兄弟機近影である。どちらも初出は1986年。兄貴分の300Aは早くにディスコンとなり、今や入手困難になってしまったのはご存知の通り。それに比べて500Aは超ロングラン機である。今に至る20年間、常にカタログにあってFOSTEXホーントゥイーターの最高峰として君臨し続けたのである。

 僕が買ったのは、わりと遅くて'92年の夏である。当時メインに使っていたD-55(FE-208S)の高域補強のためである。それまで使っていたJA-0506IIとは違い、クセがなく強調感の少ない自然でリアルな音に大変感激したのだった。ルックスも貫禄充分。300Aが箱船に来るまでは、なんて大きなヤツなんだろうと思っていた。現在は故あってリタイヤ中だが、僕はこのトゥイーターの大ファンである。

 以前から噂されていたMkIIが、ついに出てきた。20年ぶりの、フルモデルチェンジと言ってよいT-500A MkIIである。型番こそ前モデルを踏襲しているが、細かく見て行くと両者の差異は大きく、全く別モデルと考えるべきである。

 まず、出力音圧レベルが大幅に上がった。オリジナル(以下『旧』)102dB、MkII(以下『新』)110dB。8dBの差は大きい。振動系は全く違う。旧は極薄アルミ合金に多孔質ファインセラミックスプレーティングしたPCPD振動板、新はピュアマグネシウム振動板+タングステンダイヤフラムリングである。質量が大きく剛性の高いタングステンリングでダイヤフラムエッヂをガッチリ抑え、支点力点作用点の明確化を図る狙いか。動くべきはより動きやすく、動かざるべきはより動きにくく。

 実効再生周波数帯域は旧2kHz〜25kHz、新4kHz〜45kHzと、これまた大幅に拡大されている。FOSTEX公式webに発表されているF特を見ると、50kHz付近で一旦落ちた高域が、60kHz辺りから上昇に転じ、100kHz近くまで伸びるという、特徴的な形を示している。旧には全く見られなかった形である。

 マグネットはどちらもアルニコである。旧340g、新480g。約41%の増強になる。公式webには「T500Aに対して重量比25%の強化」とあるが、どうなのだろう。旧の諸元に誤りがあるのかもしれない。総重量は旧4.7kg、新5.0kgで300g増。主にマグネットと、あとは細かなパーツ類(銅メッキプレート、タングステンワッシャ、銅銀合金内部配線など)による差であろう。

 入力端子にも改良が加えられているように見える。ケーブルが直接接触するポール部は、写真で見る限り純銅製のようだ。非常に些細なことと感じられるが僕の体験からすると、これは音に効くのである。アマチュアライクで手の込んだ作りであると思う。

 以上は机上のこと。実際の音は、どうなのだろうか。残念ながら僕は聴いていない。ので、尤もらしいことは何も言えないのである。ただ、ここまで細部にこだわり注意深く作られたトゥイーターが、悪いはずはないと思う。

 T-500Aからの換装には、一工夫要りそうな感じだ。能率が高いこと、超々高域まで伸び切ったF特を活かすネットワークが必要になること。素子のクオリティには極めて敏感であろうと想像する。よく分かったベテラン向きのトゥイーター、ということになるのだろうか。

 75,000円/1本は、なかなか歯応えのある価格だ。しかし、この内容で旧より10,000円アップ、これは極めて良心的である。何しろ20年ぶりですから。

 僕はといえば、大いにそそられるものの、今のところは「見」である。

’06/03/06 (月)

アオサギ飛来


 今日はドンヨリと曇りで、ただ、気温は高く妙に生ヌルイ。こういう日は気分が高揚せず、面白くないのである。

 と、鬱々としていたら、山の彼方からウグイスの声が聞こえた。今年初のさえずりである。ちょっと嬉しくなって裏山を見上げたら、鳥たちは春の訪れをよく知っていて、アオサギはいつもの樹上で繁殖の準備を始めていた。いよいよ春である。

 目いっぱいズームして撮ってみたものだが、ローコストデジカメの苦しさ、加えて逆光の悪条件で、ほとんど影絵状態である。お許し願いたい。樹の枝に4羽、そこへもう1羽が飛来したところである。計5羽、雌雄の内訳はわからない。

 大きな声でグワグワ鳴いたり、クチバシをパカパカ打ち鳴らしたりしている。これが驚くほど大きく、実に良い音なのである。超高能率トランジェント抜群。きっとものすごく硬くて丈夫で軽いクチバシなんだろうな。アオサギの生態をよく知らないのだが、一種の求愛行動だろうか。

 彼らはこの場所が大変お気に入りのご様子で、年々巣の数が増えている。小規模ながらコロニーを形成しているわけだ。アオサギのフンにはリンが含まれている。そのため営巣する樹が枯死し、同じ場所でのコロニーは長続きしないと聞くが、今のところその様子はない。個体数が少ないからだろう。

 全国的に見るとコロニーは減少傾向だそうで、つまり個体数も減りつつあるのだろう。今のところRDBに記載されるには至っていないようだが、将来は分からない。トキのようなことに、なるかもしれないのである。

 今年も無事に子育て完遂して欲しいものである。

’06/03/05 (日)

機、未だ熟さず


 1月21日に載せたレコードの顛末をお知らせするのを忘れていた。第1ロット片面カッティング2枚組バージョンを見つけたと、喜び勇んで注文した「Mary Stallings / Fine and Mellow」(米CLARITY RECORDINGS CNB-1001)だったが、見事不安的中。届いてみれば何のことはない。既に手持ちにあったものと全く同じバージョンだった。両面カッティング、フツーの第2ロット盤である。

 こんなことで驚いたり怒ったりしてはイケナイ。海外通販ではジョーシキなのである。理由は分からない。意識的に広告を偽りセコく儲ける、などというつもりは、毛頭ないのだろう。単なる勘違いか、うっかり書いてしまったものを訂正し忘れたか、平凡なミステイクだろうと思う。

 少々肩空かしを食らわされたような感はあるものの、僕としてはそれなりに喜んでいる。最近滅多に見かけなくなったレーベルの、しかもADである。話題に取り上げたあと、モノは試しと検索してみたら、ADには1件もヒットせず。そういうレコードが手に入ったのだから、文句のあろうはずはない。ヨカッタヨカッタ。

 CDはまだ入手可能なようである。ADに一日の長ありといえども、CDもなかなか優秀である。興味ある方は検索してみてください。ただし、極めて自然でハッタリのない音だから、多少拍子抜けするかもしれない。

 などと書いていたら、やっぱり第1ロット盤が欲しくなってしまうのである。ショップサイトを気長にあたれば、そのうち見つかるかもしれない。機、未だ熟さず、ということなのだろう。

 急かず、腐らず、諦めず。

’06/03/04 (土)

ながら


 「ながら族」なんていう言葉はもう死語の仲間入りだろうか。少なくとも若い人の口から聞くことはなくなったように思われる。テレビを見ながらゴハンを食べ、本を読みながらお風呂に入る。器用な人になると、音楽聴きながら電話しながら車を運転しながらファストフード食べながら同乗者としゃべっている。ケータイメールを打ちながら運転する大バカモンも見たことがある。そりゃ事故も起こります。生きながら死んでいるようなヤツも多いが、これはながら族とは言わんか。

 「○○しながら××する」ことを、やや批判的な意味を込めていう言葉である。僕も若い頃はながら族だったように思う。食事中のテレビは家訓により固く禁じられていたが、自分の部屋では本を読みながら、オヤツを食べながら、音楽を聴くのが楽しみだった。

 ある程度歳を取ると、そーゆーことができ難くなるのだろうか。箱船で音楽を聴く時、本を読みながらではどちらにも集中できなくてイライラする。2階では、ご覧の通り音楽を鳴らしながら日誌を書くことも可能であるが、それをやるとただでさえヘタクソな文章がますます支離滅裂になってしまう。音が邪魔になって仕方がない。気が散るのである。

 一つのことに集中するに、やはりながら族では遺憾のだろうと思う。自分に都合よくすべてのことに集中できているようなふうに解釈しているけれど、実はなーんにも成せていないのである。運転中のケータイが危険なのは、その証左だ。

 もちろん例外はある。ある著名な芸術家は、ハードロックを聴きながらでないと良い作品を成せないと言うし、聖徳太子よろしく多くの仕事を同時進行させられる人もいるのである。

 要するに僕は、「ながら」なしでは生きて行けない今の世に乗り損ねた不器用なヤツ、ということに、なるのかしらん。

 なんだか窮屈である。

’06/03/03 (金)

忘れられないおくりもの


 昨日に続いて懐かしい写真をもう1枚。'98年7月12日。昨日の写真から7ヵ月後の方舟と長岡先生である。この時は珍しく訪問客は僕一人だけで、いつになく先生とゆっくり話ができたのだった。先生にとって稀少な休日を割いてくださったわけで、恐縮しながらも僕はとても嬉しかった。

 ご覧の通り、ネッシーの前にスーパーレアが設置されている。ズーズーしくも、僕がリクエストしたのである。先生曰く「いいですよ。でも、自分でセッティングしてね。重いンですよ、このスピーカーは」。

 セッティングくらい何でもないです、喜んで、と、リスニングポイントの後方にあったものを、ヨイショヨイショと運び、指定の位置に置く。角度までゲンミツにマーキングしてあった。「これ、挟んでね」と手渡されたのは、たしかオーディオテクニカの金属スペーサー(AT682?)だったか。3点接地にしてガタを避ける。さすが、細かいところも抜かりがない。あとはDP-S1→DC-300→B-2105のサブシステムに繋いでセッティング完了である。

 方舟で聴くスーパーレアは、それはそれは素晴らしい音だった。当時はまだFE-168SSの時代である。明るく屈託なく、伸びがあり繊細感抜群。音場は限りが見えないほど広く、リアルで生々しい。兄弟機D-37に比べると、多少オーバーシュート気味ではあるものの、大らかに散乱するサウンドは極めて魅力的に感じた。

 「D-37とは印象が随分違いますね」と言うと「そうなんだね。どうもスワン族はこういう傾向の音になるみたい。モアとD-58も、同じような違いが出ます。何故だかねえ。設計した僕にもよくわかんない」とおっしゃる。ナルホド、当時僕はモアを聴いたことがなかったけれど、あの怪物をホームユースに具する人がいるのも尤もだと、納得したのだった。

 この体験と、いま箱船にスーパーレアESがあることとは決して無関係ではない。モアはさすがに作れないが、スーパーレアなら何時かは作ってみたいと、この時からヒソカに考えていたのである。そこへ友達から譲渡の話があり、渡りに船と譲り受けたわけである。

 季節は夏。帰りがけに「ちょっと早いけど、これ、よかったら」と、テレ臭そうに先生は自作のトマトを下さった。家に帰って食べたら、夏の味がして、とっても美味しかった。

 7月12日は僕の誕生日である。忘れられないプレゼントに、なった。

’06/03/02 (木)

昔話


 何ぞ話題になるようなものはないかしらんと、古い写真帳をひっくり返していたら、なんとも懐かしい写真が出てきた。本家方舟での、ダイナミックテスト取材風景である。記録によると、1997年12月14日。僕の中ではついこの間、という感じだが、もう8年以上経っているのである。そりゃそうだ、今年は長岡先生の7周忌になるのだから。

 この時はちゃんとしたカメラを忘れ、インスタントカメラで撮ったものだと思う。やたらと暗いのはその所為だろう。実際の方舟はこんなに暗くありませんでした。手前に写っているのは、現在各オーディオ誌で大活躍中の、炭山アキラ氏である。この頃は長岡先生番の編集者さん、同時にアシスタントでもいらっしゃったわけだ。

 某社のスピーカーシステムに使われていたユニットの詳細を調べている一場面である。道具箱からノギスやバネ秤を取り出し、マグネットのサイズと目方を測る。「トゥイーターユニットは○○グラムです」「ハイ、○○グラムね」とエンマ帳にメモされているところだ。

 この時は、ローコストCDプレーヤーを幾つかと、トールボーイ型スピーカーの試聴をした覚えがある。配られたメモ用紙に、各人忌憚のないイムプレッションを書く。当時はそういう決まりだった。いわゆる「七人の侍」方式である。

 まさか直接記事になるとも思わず、僕はさも知ったようなイムプレッションを書いた。しかし後日、一部がそのままダイナミックテストの本文に載っているのを読んだ時には、一瞬気が遠くなったのだった。恥ずかしいやら申しわけないやら。今だから言える話である。それにしてもダイジョーブだったのだろうか。もう時効かな。

 懐かしくも楽しい思い出である。方舟へお邪魔すると、いつも誰か知っている人がいて、試聴や計測が始まっている。時には挨拶もそこそこに、玄関先に積まれた機器の搬入を手伝ったりもした。AE86さん、炭山さん、流離いの旅人さん、アラタニさんたちと親しくなれたのも、長岡先生と方舟のご縁である。方舟は常時、活気でいっぱいだったのである。

 今はもう、昔話になってしまいました。

’06/03/01 (水)

春の花未だ


 この冬は早くから厳冬になり、そのかわり春の訪れも早い、というのは昨年末に聞いた長期予報である。確かに、ここ数年の中では雪の少ない2月であった。1月9日に最高積雪を記録して以来、それを超えることはなかったわけだから、長期予報大ハズレ、ではなかったと思う。

 ただ「春が早く来る」という点については、ちょっと違うようだ。航海日誌を書き始めてからは、毎年2月中〜下旬に咲いていたクロッカスの花。未だまったく咲かない。新芽さえ出してはいないようである。2004年は2月23日、2005年も2月末には花が楽しめたのだが、この調子では今月半ば以降まで遅れそうな気配である。

 僕が最も春を感じる野の花、オオイヌフグリも咲く気配すら見えない。尤も、つい数日前まで土手が雪に厚く覆われていたのだから、当然といえば当然である。雪が無くなった直後の野原は、昨12月初旬の状態が冷凍保存されているようで、未だ荒涼としている。日の光を吸い込み、青々とし始めるにはまだ時間がかかるようだ。

 されど早3月である。春は間近だ。