箱船航海日誌 2004年09月

日々雑感、出来事などを思いつきに任せて綴っていこう

過去の日誌コンテンツ 

’04/09/30 (木)

使いようによっては

 お彼岸も過ぎ、夜になると肌寒くらいになった。夏の暑さも今は懐かしい。僕の苦手な季節が始まろうとしているのである。

 となれば、早速にノドの調子がヘンだ。ノドと鼻腔がつながったあたり、舌の付け根の上のほう、が痛痒いのである。これは危険信号。放置して悪くなることはあっても、良くなることはない。転ばぬ先の杖と、いつもの薬をもらってきた、まではよかった。

 晩ゴハンのあと、一錠飲んだ。30分後、まず掌がちょっとカユくなった。その時点ではあまり気にしなかったが、さらに今度は膝の裏側にプツプツが出てきた。コリャ遺憾。

 僕は元々食物アレルギー持ちで、エビ、カニ、タコ、イカ、二枚貝(なぜか牡蠣は大丈夫)、青魚、パイナップルにキウイなどを受け付けない。食べたら体じゅうジンマシンだらけである。ついでに特定の抗生物質にも強い感受性があり、これも酷い薬疹に襲われる。そのかわり花粉症はまったく大丈夫という、妙な体質なのである。

 昨日の薬は確かに抗生物質である、だが、これまでずっと飲んできて薬疹が出たことはない。数年前、投薬前に検査してもらい害のないことを確認してあるのだ。なのに昨晩の薬疹は凄かった。頭の先から足の裏まで、ぜーンぶジンマシン。カユいのなんのってそりゃあもう。気が狂いそうなカユさである。ばりばり掻きムシるとプツプツが大きくなって隣りのヤツとくっつき合い、ついには全身が真っ赤に腫れあがる。

 内蔵も同じように腫れる。食道が腫れて嚥下しにくくなる。気管が狭くなって深い息ができなくなる。喘息症状である。カユいし息はゼヒゼヒいうしハキケはするし、僕はもう死ぬかと思いました。実際、これが重篤になるとアナフィラキシー・ショックといって、命にかかわるバヤイがあるのダ。2回目の蜂刺されが危ないといわれるのはコレである。

 幸いにしてショックまでは行かなかったようだ。おかげさまでこうして日誌を書いていられる。いやあ、しかしマイリマシタ。23時頃になってようやく落ち着いたが、掻きムシるのとちゃんと呼吸ができないのとで、グッタリ疲れてしまった。今もまだ腫れが残っていて、手を握ると違和感がある。この薬、もう使えないなあ。

 「病気は治りました、でも、薬で死にました」などという、笑えない話を耳にすることがある。薬=毒。使い方を誤ると、とんでもないことになるのである。

 ところでノドの痛みは。そう言えば、消えちゃってます。

’04/09/29 (水)

またまたいい加減


 昨日載せたレコードと一緒に来たのがコレである。「JOHN CAGE/CONCERTO FOR PREPARED PIANO & ORCHESTRA , LUKAS FOSS/BAROQUE VARIATIONS 高橋悠治(P)、ルーカス・フォス指揮 バッファローPO」(米nonesuch H-71202)。(C)(P)記載なし。'68年3月録音。A級外セレ第三巻257番収録。これも2枚目の入手である。

 何がいい加減といって、19日に載せたレコードと逆である。ないと思っていたらあった、というパターンだ。尤も、持っていることに気がついたのは、FMfan本誌に連載されていたダイナミック・ソフトにCD版が取り上げられた時のことだから、随分前の話である。

 なぜそれまで気が付かなかったのか。原因は、ジャケットデザインにある。バッハの肖像画やフレスコ画や歯車やネジや鍵盤や、そういうものがコラージュ風に切り張りしてあるようなジャケット。ご覧の通り、ヒジョーにゴチャゴチャした毒々しいデザインである。nonesuchの面目躍如か。

 外セレ三巻のジャケット写真はモノクロである。タダでさえヤヤコシイのに、白黒になっては何がなんだかよーわからん。現物を手に入れながら、同一タイトルだと気が付かなかったのである。タイトルも見ずにレコード聴いとるらしい。なんちゅうフラチなヤカラだろうか。

 ダイナミック・ソフトに紹介された写真はカラーだった。そこでやっと気がついたのである。「アレ? これ、あるじゃん」ってなものである。たぶんケージ、フォスの曲、おまけにピアノが高橋悠治だから買ったんだろうなあ。そこまで分かってて、ナンデ気がつかんのか。アホ丸出しである。

 さて、今回手に入れた2枚目である。中古(というよりも太古)盤にしては安くなかった。が、盤質最悪。プアマイナス×3、と言ってよいほどのバッドコンディションである。キズだらけ。どんな扱いをすればこんなにキズつくのか。砂場に落として踏んづけて、ついでにグリグリ揉んでおいた、というようなふうである。少々のキズには驚かない僕も、これでは遺憾。バチバチプチプチシャーシャー。うるさいったらありゃしない。

 こんな状態なのに、ずっとコンディションの良い昨日のレコードよりも高価だっちゅうのは、どーゆーことだ。

 中古盤とは、そーゆーものだよん。

’04/09/28 (火)

箱船はここから始まった


 一日一度は必ず海外レコードショップのwebサイトをチェックすることにしている。いいレコードにあたる確率はそんなに高くはないけれど、いつ何が出てくるか予測がつかないから、油断はできない。今日はいいか、と次の日見たら、凄いレコードが既に売り切れ、ジダンダ踏んでももう遅い、ってなことが何度もあった。気が抜けないのである。

 今日、お店からレコードが2枚届いた。上の写真はそのうちの1枚である。「WORLD SAXOPHONE QUARTET / PLAYS DUKE ELLINGTON」(米nonesuch 9 79137-1 F)。(P)1986。A級外セレ第三巻259番に紹介されているタイトルでもある。

 このレコードには、忘れられない思い出がある。1989年7月23日、僕が初めて方舟へお邪魔した時、いちばん最初にリクエストしたのがこれだった。

 何故にこれを選んだのか、理由は忘れてしまった。おそらく外セレにある紹介記事の「鮮烈、歪み感ゼロ、すぐそこにいるという実在感は極めて大きい」という見出しを読み、強烈に惹かれてのことだった思う。

 方舟で聴いたこのレコードの音は、まさに見出し通りの凄い音だった。本当にそこに演奏者が居る、のである。音が出た瞬間、ギョッとした。視覚と聴覚のギャップが極めて大きく、聴いているうちだんだん気味が悪くなる。スピーカーから出ている音だとはどうしても思えないのである。音だけを再生しているのではない、演者の周囲にある空気、匂い、温度まで再現しているかのような、音。目からウロコが、音を立てて落ちた瞬間だった。

 オーディオちゅうのんは、ここまでのことができるのか。オーディオで生音を超えることはできない、なんて言ったヤツはどこのどいつだ。ウソじゃねーか。みんなやっていないだけなのだ。行動せずして「できない」などと、負け惜しみのように嘯いているだけだったのだ。やればできる。オーディオの可能性は極大。僕もいつかはこんな音を鳴らしてみたい。否、オイラもぜったいやるぞ。

 その後の僕の行動は、webページにご覧のとおりである。全ては15年前の方舟訪問から、始まったわけだ。

 方舟からの帰り道、早速このレコードを買うべしと秋葉原の石丸電気へ立ち寄ったものの、運悪く品切れ。関西ではなかなか見つからず、初めて手にしたのは1990年になってからだった。'91年に2枚目を手に入れたが、どうしても欲しいという友人に譲ってしまった。

 思い出深いレコードだけに、是非とももう1枚入手しておきたかったのである。ずっと捜していたものが、やっと見つかった。これも進化したネット環境の賜物である。ありがたいことだ。

 改めてこのレコードを聴く。懐かしいのである。しかし、あの時の音、特に音場再現には遠く及ばない。

 まだまだである。精進しましょう。

’04/09/27 (月)

まねぶ

 オーディオオーディオと毎日のように連呼しながら、改めて「オーディオとはナンゾヤ、端的に言え」と問われれば、ハタと答えに詰まるのである。

 そこで「audio」を英和辞典で引いてみる。「音の発信(受信)、音の再生」と書いてあった。なるほどその通りである。音の再生。多寡がそれだけのことに、僕は血の道を上げているわけだ。

 実際には、音そのものが好きでやっている人、音楽好きが昂じてオーディオにはまった人、機械が好きでやっている人、電気好きな人、工作好きな人、はたまたステータスでやっている人(は昨今絶滅したかな)などがいて、事態はヒジョーにややこしくなっている。

 だが、全ての人に共通するのは、音を再生し聴いている、ということ。「audio」である。だからこそ、音の良し悪しが最大の関心事、最大の話題となるわけだ。

 時々「どうやったら音が良くなるでしょうか」というメールをもらうことがある。ご自身のオーディオ環境を詳しく書く人もいれば、まったく何も書かないまま質問だけする人もいる。前者はまだしも、後者の場合は本当に困ってしまうのダ。真っ暗闇の中で「私が落とした財布を捜してください」と言われているようなものである。せめて自分が好む音の傾向くらいは、書いて欲しい。

 音には好みがある。これはもう絶対だ。これまでに数多くのお客様と実際に会い、時空を共有し、ともに音を聴き、会話してきた中で確信したことである。幾千万の理屈を並べ立ててみても、オーディオに於いて「万人に通ずる最高の音」など存在しない。僕は断言する。あるのは自分が快いと感じる音、つまり「好きな音」「好みの音」だけである。

 その音を実現させるにいちばんの早道は、音の好みが自分と似ていると思しき人の、真似をすることである。僕の場合はその対象が長岡先生であり、オーディオ諸先達であったわけだ。

 真似る、というと良くないイメージを抱くムキが、昨今多いようだがとんでもない思い違いである。真似のプロセスを経ずしていきなりオリジナルを生み出せるのは、何百年に一人という大天才だけだ。なんら劣等感を持つ要はない。どんどん真似れば、良いのである。

 「学(まな)ぶ」とは古語では「まねぶ」と言った。まさに「真似して習う」のである。「まねぶ」ことから始め、やがて自分だけの音を見つけ、いつかは真似た対象から一人立ちする。その過程を楽しむことを趣味と謂い、文化と謂うのである。

 僕は今、ようやくにして自分の音を見つけたくらいのところである。実現にはまだ程遠く、況してや対象から一人立ちするなど、前途遼遠である。苦しくも楽しい過程の真っ只中だ。たぶん死ぬ頃になっても終着点には辿りつけないと、思う。

 長岡先生は亡くなってしまったが、あの音は決して忘れない。僕など足許にも及ばないようなオーディオ先達も、身近に沢山いる。「まねび習う」べき人たちがいてくれることの幸いに、僕は感謝せねばならぬ。

 趣味は楽しい。

’04/09/26 (日)

もう切らない


 初めての工作でD-70を作った時からずっと、僕は板の裁断を自分でやっている。現在使っている工作物の中で、自分で切らなかったのはADキャビネットだけである。相手は28mm厚メイプル集成材。さすがに無事裁断するまでの自信はなかった。

 現用スピーカー達は全て写真の185mm電動丸ノコとジグソーで裁断した。板に裁断線を書くとき、2mmの切りシロを取る。つまり、2mm幅の二重線を書き付けるわけである。作業台、などという便利ものは持っていないので、丈夫なダンボール箱をいくつか用意(同じ大きさでないと遺憾です)し、その上に板を置いてフリーハンドで切る。電ノコ用の定規など、ジグは使わない。切り進むうちに自分も板の上に乗っかる形になるわけだ。

 歯の切っ先は上から見えないから、ノコの先端にあるガイド溝と切りシロ線を頼りにジワジワ切り進めて行くのである。そんな切り方でよくもヒン曲がらないものだと、言われる。スミマセン、実はヒン曲がってます。ただし、切りシロ線とガイド溝を眤と凝視しながら切るので、周期の短いゆらぎは出るが大方直線に見える、くらいには切れるのだった。要するに、ワウは酷いがフラッターは少ない、と。遠目には直線、近目でよーく見ればグニャグニャ曲がっているという、極めていい加減な裁断なのである。

 木口の直角は、ガイドをきっちり合わせておけばまず大丈夫。問題は、ワウの酷い板をL字型に"イモ接ぎ"すると、接合部に必ずスキマができること。木口にワウがあれば当たり前である。BH工作などはL字イモ接ぎの嵐だから、これではヒジョーにグワイが悪いのである。

 ンではどーするか。そりゃあもう決まっている。エポキシパテや水中ボンド、時にはシリコンコーキングなどを総動員し、スキマというスキマを全部埋めて回るのである。内側から充填できないような部分は、どっぷりとボンドを塗り付け、外側からパテをぎゅうぎゅう押し込むのである。D-70はこの辺りをかなりいい加減に済ませてしまった。その反省もあり、D-55は偏執的にスキマ埋めをしたのだった。

 結果的にはこの作業が功を奏し、D-55は非常に強固なキャビネットに仕上った。まったく以って「怪我の功名」である。音のためには、良かったのか悪かったのか。こんなの誰にも薦められません。

 僅かに触れただけでも指先が吹っ飛ぶ。裁断し終わった板が回転歯に巻き込まれキックバックしてぶっ飛んでくる。など、極めてキケンな電ノコを使い、全身ホコリまみれになり、結果は木口グニャグニャ。組み立て始めたらスキマだらけ、パテ埋め必須。いいことなんか一つもないのである。

 それでも自分で裁断するのは、自作派の矜持である。と言えれば格好ヨイ。けれどそんなことはゼンゼンないのである。実は、裁断依頼するのがメンドクサイだけ。あとでスキマ埋めて回るほうがよほど面倒だという説も、あるわけだが。

 昨日書いた現用ラック、スキマ埋めを端折っちゃったみたいです。きっとめんどくさかったのだろう。ルックスを気にしたのかも知れない。「功名」がなくなって「怪我」だけになっちゃったワケね。しかもそのケガは、完治し得ない不治の病となって今に至るのである。

 今後、自分で板を切ることはないだろう。ご覧の通り、今や電ノコはすっかりサビついてしまった。

’04/09/25 (土)

底が知れる


 現用ラックの経年劣化が著しい最大の原因。それは劣悪な工作精度によるものである。第一に、裁断の不正確さ。これは誰の所為でもない、オノレの馬鹿さ加減が諸悪の根源である。自分で切ったのだから、何処へも文句の持って行き様はないのである。

 第二に、それを補正もせずそのままチカラ技で組んだこと。組みあがった当初はなんとか形になっていたらしいが、時間と共に木は痩せボンドは緩み、接合強度はダダ落ちである。

 第三に、15mm厚4枚重ねという暴挙。当時はハタガネとCクランプが数本あっただけ、そんなもんでいくら締め付けたところで屁のツッパリにもならん。せいぜい板の縁が密着する程度。随分と重石を置いてがんばってはみたものの、板の大部分はスキスキである。ここにも当然部材痩せがあるわけで、さらに酷いことになっているはずだ。重ねただけデメリット丸出し。現在、C、Fクランプとも数十本持っているけれど、それにしたってまったく不充分だ。板全面に高い圧力をかけずして完璧な接着は不可能である。

 かくして現用ラックは構造強度が低下、横から強く叩けば揺れるのが目に見えるくらいに劣化してしまった。L型補強金具も焼け石に水である。ナンボなんでもこれでは苦しい。特にAD再生には致命的である。

 なまじ床が丈夫なだけに、弱い部分のデメリットが強調される傾向にあるようだ。床に見合った強力なラックの導入が、必須なのである。それにはプロの技が不可欠だ。

 今頃になって気がつくのだから、底が知れるのである。

’04/09/24 (金)

ラックの音


 新ラックの用材、バーチはドラムの胴にもしばしば採用されている。一般的にはメイプル材のほうが高価であるようだが、値段で良し悪しは決まらない。要するに好みの問題である。バーチ胴とメイプル胴。まったく音が違うのである。

 僕のドラムセットの胴はメイプル積層材、つまりメイプル合板製である。音が明るく通りがよい。温かみと力感が両立した優秀なドラム胴である。僕の実兄が使っているドラムセットは、同じメーカーのバーチ合板胴である。このセットの音は独特で、とにかく音がデカい。鳴りが良い、というべきか、非常にスケールの大きい音がする。極めて豪快である。

 ただ、メイプルに比べるとやや繊細感、音の抜けに欠ける部分もあって、この辺りが好みの分かれるところなのである。単純に優劣は決められないのだ。僕は豪快な音が好きである。メイプル胴を選んだのはミスチョイス、だったにしてももう20数年も前のこと。今さらどーでもよいのだった。大体、ドラムセット自体がもう枯れ枯れで、メイプルもクソもないだろう。

 さて、その音の違いがラックにも反映されるのだろうか。メイプル合板製ラック、なんて見たこともなければ当然聴いたこともない。ので、比較することはできない。もし、バーチドラムの「音がデカくて豪快で」というキャラクターが、いささかでもラックに共通しているとしたら、これはなかなか面白いと、思う。

 箱船サウンドのコマーシャルコピーみたいだ。「音がデカくて豪快で」。僕の好みにピッタリである。そのあとに「しかも繊細で情報量極大」と続けられるような音を実現する足掛かりに、このラックがなればスバラシイのである。ラックの音如何にかかわらず、そこから先は僕の力量にかかっている。

 責任重大。

’04/09/23 (木)

着々進行


 ラック新調計画は着々と進んでいる。今日、最終決定版の図面が届いた。きちんと16日に書いた通りのサイズになっている。ワガママをそのまま呑んでいただいた形である。ありがとうございます。

 実寸ではないこの図面を見ても、天、底板75mm厚はなかなかに豪快であることがわかる。今回はプロの手による高圧プレスで、板同士の完全な全面接着が実現される。コーナー接合部の接着も万全。基本的な構造強度は飛躍的に向上するだろう。現用ラックの接着なんかとは比べ物にならない。比較すること自体、失敬である。

 バーチ合板製、総重量はどれくらいになるのか。バーチ(カバ)材の正確な気乾比重がわからないのでなんとも言えない。質感がよく似ているメイプル(カエデ)材の気乾比重は0.7程度だそうである。これを参考に電卓をハジいてみれば、総重量46.6kgに達する計算になる。かの超ロングセラーで有名なヤマハのGTラックは33kgある。非常に重いラックになりそうだ。たいへんヨロシイ傾向である。

 折角プロに依頼するのだから、この際塗装もお願いすることにした。クリアウレタン仕上げである。これは実際に見たことがある。極めて美しい仕上がりである。高級家具レベルだ。音にも良い影響があるはず。美しいのはたいへん喜ばしいことである、が、プロジェクターが載っているラックやスピーカーとの格差がスゴイだろうなあ。いつかは全部をきれいなモノに、替えられたらなあ。

 楽しみである。と喜んでいて、ハッと気がついた。完成の暁には現用ラックと入れ替えなければならないのだった。これはちょっとした仕事に、なるのである。

 憲さん、手伝ってね。

’04/09/22 (水)

宝石の如く


 AD再生を楽しくしている理由の一つは、やはりコレだろう。カートリッジである。シェル込みでもせいぜい30g程度と非常に小さなものでありながら、持つ喜びと存在感は極めて大きい。

 現用カートリッジは言わずと知れたマイ・ソニックのeminentである。写真は只今お休み中のカートリッジ達だ。12時の位置から時計回りに、ライラ HELIKON、ビクター MC-L1000、同 MC-L10、ヤマハ MC-1000、再びビクター MC-L1000、オルトフォン E.R.S、テクニカ AT-33PTG、同 AT-ART2000(シェルに付いていない)、オルトフォン MC-Rohmann、中央はビクター MC-L10シェルなし、以上10個である。

 この他にもデンオン DL-103LCII、同GL、同SL、同C1、テクニカ AT-33ML/ OCC、AEサエク C-3、同C-1、エクセルサウンド C-3II、シュアー V-15typeIV、がある。総計20個。コイル断線でお亡くなりになったMC-L1000を含めると21個になる。

 MMはV-15だけ、あとは全部MCである。別にMMがキライなわけではなく、気がついたらこうなっていただけのことである。その昔はMMの名作、シュアー ULTRA500が欲しくてたまらんかった。が、高価で手が出なかった。ようやく買えるような経済状況になった時には市場から消えていたという、笑えない話なのである。

 カートリッジばかりこんなに沢山あってどーする。このうち頻繁に使うのは1個か2個なのである。今ならeminentかHELIKONか。MC-L1000は、さすがに苦しくなってきた感じだ。総数から見た稼働率5〜10%、カートリッジ個別にみれば0%のヤツもいる。DL-103LCIIなんか、一度も使ったことがないンじゃないか。どーもスビバセン。勿体無いことである。

 生来モノグサでいい加減な僕は、聴くレコードに合わせてこまめに換装するような細かい芸当はできない。不器用なのである。それなら多くのカートリッジは尚更不要じゃないか。正論である。

 しかし、である。カートリッジというモノ、持っているだけで心が豊かになることも事実である。ムカシJewel Tone(ナガオカのブランドでしたっけ?)というメーカーがあった如く、まさに宝石のような魅力があるのダ。使いもしないものを、ズラリと並べ独りニタニタする。なにやらアブないオッサンである。

 僕がオーディオを始めた頃、年長のベテラン氏宅で見たカートリッジコレクションは凄かった。20個どころの騒ぎではない。凡そ100個以上はあったろうか。強烈な体験だった。いつかはオイラもと、思ったものである。

 AD再生を能くする友人たちの状況を見ると、やはり多くのカートリッジを保持する人が多いようだ。話を聞いてみると、皆おしなべてこう言う。「使いもしないのに、なんだか買っちゃうね」と。

 皆さん、健全な病人(?)です。

’04/09/21 (火)

ADラックも


 オーディオラックのことを考えながら、ふと後を見上げたならば、そこにはほぼ満杯になったADラックがあった。54個のラックが6段×9列に積んであり空きはあと7個、つまり47個が詰まっているわけだ。そのうち6個にはLDが入っているから、ADが入っているのは41個。1個のラックに50〜60枚入る。平均55枚として、僕のADライブラリーは2,200枚前後、ということになる。たいしたこたァねえのである。

 たいしたことはなくとも、そろそろラックを増やさないと遺憾かなという気もする。現用ラックはA・テクニカ製(CB-50Lっちゅう品番だったかな)で、とおの昔に製造中止、今や何処にもない。非常にシンプルな構造で、安くて使いやすかっただけに残念である。

 増やすなら、これと同じようなサイズ、形状で揃えたい。立方体に近い形のものを積み上げて行くタイプが、最も使いやすいのである。タンス型のラックを使ってみたこともあるけれど、設置の自由度が乏しくダメだった。

 増設するにいちばん話が早いのは、自作である。幸い板厚は15mmなので、フツーの合板で充分イケる。サイズさえ合わせられれば違和感は少ないだろう。やるか? とも思うけれど、なんだか億劫である。ので、これもいずれはプロに依頼しちゃおうかしらん。

 自作派の矜持、何処へやら、ですな。

’04/09/20 (月)

人気のワケは

 CD、SACD、DVD-A、MD、それにフラッシュメモリー。ディジタルメディアは数あれど、オーディオファンが最もよく聴くメディアはどれだろうか。やはりCDだろうな。SACD、DVD-Aは音質でCDを遥かに凌ぐ、と言われながら現状イマイチ盛り上がらない。MDはオーディオ、というよりも音楽好きのためのメディアっちゅう印象。最近は伸び悩んでるのかな。i-podに代表されるフラッシュメモリーメディアは、ますますオーディオから遠い感じ。将来はどうなるかわからないけれども。

 いずれにしても現状オーディオの中心的存在はディジタルメディアが牛耳っているわけで、今後何かの拍子にアナログメディアが復活する、なんてことは絶対にないと思われる。CCT(コンパクトカセットテープ)もADも、細々と生き長らえはするだろうが、舞台の中央に再度踊り出る可能性は皆無である。

 webサイトを運営していて、少し前から感じていることがある。毎日大勢の方に御閲覧いただいているわけだが、AD関連のネタで日誌を書くと、アクセスが増えるのである。それに気が付いたのはわりと最近のことだ。

 最初は気の所為かと思った。だんだん気になりだし、ADネタを書くたびにカウンターに注目してみたれば、明らかにその傾向が見えるのである。1日500アクセスが1000になったりはしないけれど、少なくとも100アクセス程度は増えている感じである。

 なぜだろう、と思う。今やメディアの中心ではもちろんなく、最早傍流でさえないと思われるADである。それに関するネタが、何故に人気があるのか僕にはよくわからない。考える以上にADを楽しんでいる人が多いのか、今からAD再生に挑戦したいと考える人が多いのか。ひょっとしたら、オーディオニッポン昔話として人気を博しているのか。そんなワケないか。

 AD再生に関心が高いこと自体は、好ましい傾向だと思う。今さらアナログなどと、それはオーディオの退化、廃退だとおっしゃるムキもあるようだが、そうは思わない。必ずしも音質向上のため"だけ"にディジタルメディアが開発されたのではないと考えるからである。技術としては最先端でも、純粋に音の良し悪しだけで見た時、ディジタルはアナログを未だ凌げないでいる。無論、これは「商品のレベル」しか知らない市井エンドユーザーである僕の、個人的な感じ方であることをお断りしておかねばならないわけだが。

 昔はよかった、AD時代再び、などとは思わない。しかしオーディオとは趣味である。であってみれば、選択肢は多いほうがよいに決まっている。CDもあるSACDもあるDVD-Aもある、ADもある。いろいろあってヨカッタヨカッタ、というほうが、シアワセなのだ。

 老兵は死なず、消え去りもせず。ADファンの皆さん、これからもがんばりましょう。

’04/09/19 (日)

いい加減してます


 今月は、入手し難いADタイトルがよく見つかる月である。こういうことが何年かに一度はあるから、巡り合わせとは妙なるものだ。

 8日に載せたレコードを買ったお店から、今度は仏ASTREEが入荷したと連絡があった。もちろん中古盤、数は少なく2タイトルだけである。だが、昨今このレーベルにめぐり合う機会は非常に少なく、特に関西では珍しい。無条件で、買い、である。

 そのうちの一枚が上の写真である。「PIECES POUR LE LUT per S. re J.S.Bach / Hopkinson Smith」(仏ASTREE AS61)。このタイトルはA級外セレ第1集21番に取り上げられている。バッハのリュート曲集である。

 すっかり思い込んでいた。既に入手済みだと。何枚あっても構わないからと買ったつもりが、実は未入手だったことに気がついたのは、ADラックを調べてからだった。あるはずのAS61番が、ナイ。

 内容は確かに聴いた覚えがあるし、ジャケットもちゃんと覚えている。第1集の紹介ページには、入手済みのチェックマークも入っている。 ? ナンデだろ。見落としか、ラックの中で行方不明になったかと何度も捜してみるがやはり見つからない。う〜む、フシギである。

 ひょっとしたらCDで持っているのか。いや、CDを買った覚えはない、大きなジャケットを手に持ったはずだと、それでもCDラックのASTREE棚を調べたれば。

 何のことはない、そこにあった。CDだったのである。なんちゅういい加減な。本に付けるチェックマークの横に「CD」と書くはずが、どうしたことか書き忘れたらしい。書くのがクヤシかったのかもしれない。ADが欲しくて欲しくて、でも手に入らない悔しさが昂じ、いつの間にかADを持っていると記憶のすり替えが起きたのかしらん。

 ともかくも、入手できて大喜びである。音は最高。「音色は息を呑むほどに美しく、実物よりも美しいのではないか」という長岡先生の評価そのもの。特に色気と艶が凄い。妖気さえ感じさせられるような美しさである。この音を他で聴くのは難しいだろう。ASTREEだけのものだ。

 一度聴いたら即中毒。だからASTREE探しはヤメラレナイのである。

’04/09/18 (土)

破壊的サウンド


 レコパック完了、音を聴いてみた。既に手持ちにあるほうと何ら変りない。当たり前である。しかし、久しぶりに聴く(スリ減ったら勿体無いからあまり聴かない)このレコード、ナンボ聴いても破壊的な音である。

 質そのものは破壊的というイメージから程遠い。歪み感極少、トゲトゲしさがなくとてもスムースな音である。誤解を恐れずに言えば、大人しい音の部類に入ると思う。小音量で聴いたらツマラン音になる可能性大。

 圧倒的なのは、やはりトランジェントである。立ち上がり立下り最高、超低域に至るまで緩みやフヤけはまったくない。瞬時に出て瞬時に止まる。強烈なアタック感は生そのもの。歪み感が少なくトランジェントが良い、ということは音量を上げてこそ真価を発揮するわけで、実際どこまでも上げたくなるのである。

 だからといってホントにボリュームノブを際限なく右へ回したならば、それは大変なことになるのである。人か部屋か機器のどれか、或いは全部が壊れてしまうことウケアイ。そういう意味での「破壊的な音」なのである。

 昔々あるオーディオ雑誌に「CDの優位性は低域の再生にとどめをさす。ハウリングから完全に開放された本当の低域を、CDは我々に提示してくれるのである」というようなことが書いてあった。CDがハウリングフリーであることは、まったくそのとおりである(ゲンミツに言えば、振動対策で音が変るのだから、完全にフリーではない、のだが)。

 とするならば、登場以来22年が経つCDは、未だに真価を発揮できずにいるのではないか。なぜならば、このレコードを超える低歪みハイトランジェントな低域が記録されたCDを、僕は聴いたことがないからである。そりゃオマエの聴いたCDが劣悪なものばかりだったからだ。と言われれば、左様でゴザイマスか、としか言い様がないわけだが。

 しかし僕は確信する。この音は、ADでなければ絶対に出ない、と。低域に於いてのCD優位性は、たぶん正しい理論なのだろう。ところが目の前で起る実際の事象は、それに反することがしばしばである。この辺りがオーディオの、特にAD再生の面白いところなのである。

 正しい理論をぶっ飛ばす、という意味でも、このADは破壊的なんだな。

’04/09/17 (金)

病、膏肓に入る


 10日に欣喜雀躍したレコードが、今日届いた。ちょうど一週間である。正体を明かしてみれば何のことはない。「Flamenco Fever」(米M&K Realtime RT-107)である。このレコードなら既に持っているンじゃないか、アホのくずてつは今さら何を喜んでおるのか、とおっしゃるムキもあるだろう。確かにそのとおりである。そのとおりであるが、だ。

 以前入手できたのは、レコード探索の達人である友達のおかげである。無理を言い、その厚意に甘えたものだ。彼が艱難辛苦の末探し出したものを、トンビよろしく横からチョイとつまんだわけである。「今度見つけたらくずてつさんに回すからね」と言ってくれてはいたが、僕は何の苦労も無しにまんまと入手したことに変わりない。

 それはとてもうれしかったし、心から感謝している。届いた時、手が震えたくらいである。本当に、ありがとう。

 感謝しているからこそ、何としても自分の力で見つけたかったのである。友達には到底及ばないけれど、僕だってADマニアの端くれ、矜持らしきものもある。入手して以降もそれまでと変わらずヒッシに探し続け、一度ならずスカタンかましたのは先日も書いた通り。

 ともかくも、僕は大喜びである。何度見ても前からあるレコードと同じである、が、またしてはマジマジとながめてしまうのだった。よく手に入ったなあ、と。病、膏肓に入る。

 ジャケットも盤も非常に綺麗である。ミントコンディションと言ってよいだろう。盤面の傷はもちろん、探り傷もほとんどない。埃が少々多かったので、ここは得意のレコパックである。只今乾燥中。同じレコードが手許にあるのに、やはり聴くのが楽しみなのである。フシギですなあ。

 げに楽しきは、レコード探索なり。

’04/09/16 (木)

12年ぶり

 ラックの製作者氏から電話をいただいた。昨日、極めて手前勝手な注文を書いたメールをお送りした、その返事をくださったのである。たいへんご親切なのである。僕は感激しました。ありがとうございます。

 基本構造は変わらない。僕の希望は100%受け入れていただけた。新しいラックは外形寸法650W×450H×500D、内寸(機器が入るスペース)は530W×300H×500Dになる。もちろん棚板無し。現用ラックの内寸が550W×300H×450Dだから、幅は20mm狭くなり、奥行きは50mm増えるわけだ。基本素材はバーチ(樺)100%合板である。市販では得難いラックだ。

 もともと550Wはいささか広く取り過ぎたと思っていたから、530Wはちょうど好い加減である。必要以上に幅を広く取ると、強度の上では不利になる。現用奥行き450mm。サブロク合板を無駄なく使い切ろうと板の長手方向1/2を奥行き寸法にしたため、自動的に決まってしまったものである。一般的な機器なら充分だが、P-700やB-2302を置くにはちょっとキビシイ。実際P-700の脚はギリギリで、お尻はかなりはみ出ている。そこで50mm増やして500Dとする。底面積で7.8%増、僅かでも座りが良くなるか。高さは現用と変わらず。300Hは必要にして充分である。

 天、底板は60mmから75mmへ、15mm厚くする。強度と重量を稼ぐためである。おそらく60mmあれば充分すぎるほどだと思う。厚すぎると却ってデメリットが出てくることもある。それを承知の上で75mm厚に、僕はしてみたい。あとで「ヤッパリ厚くしておけばよかった」と悔やむのはイヤダ。厚くしておいて「60mmにすればよかった」とは、ゼッタイに思わないだろう。と、今は考えている。

 四隅の空間には何を詰めるか。これは今のところ未定である。できれば比重の高い素材を使いたいところ、となれば砂粒状金属か、シンプルに砂か。ところがこれらはいずれも入れた後に嵩が減るおそれがある。やるとすれば最初に目一杯詰め込み、時を置いて嵩が減ったところでもう一度増し詰めする必要があるだろう。コレ、なかなか困難。加えて、メンドクサイ。ので、やはり吸音材様の素材が無難かとも思う。ブツを詰める前のラック総重量も睨みながら決めたい。移動を考えに入れなければ、重いほうがヨイのだけれど。

 最終決定版の図面を引いていただき、それを一緒に再点検したあと製作にかかっていただくことになる。いやあ、僕はもう楽しみで楽しみで。どう考えたって現用ラックを遥かに凌ぐことは、間違いないのである。機能的にはもちろん、美観は圧倒的だろう。出来上がりを想像しただけで、ワクワクするのである。

 12年ぶりの、オーディオラック更新。

’04/09/15 (水)

ラック


 FAXしてもらった図面をスキャナで取り込んだ写真ゆえ、どうにも見づらいのをご勘弁いただきたいのである。新しいラックをお願いしている方から、届いたものである。随分お世話になります。ありがとうございます。

 これは僕のリクエストに応じ、とりあえず引いて下さった叩き台図面である。ここから細部を詰めて行くことになる。と言ってもあとは全高、全幅、奥行きを決めるくらいのこと、基本構造に何も言うことはない。

 内側四隅に90度曲面加工した板が使われている。ここがこのラックのミソである。前後面開放型ラック最大の弱点である「菱形歪み」をこれで抑え込もうという狙い。三角隅木を入れるのと等価、否、それ以上の補強効果が得られるはずだ。これは良さそう。

 これによってコーナーにスキマができる。デッドスペースにしてしまうのはもったいない。逆手にとって何かを詰めれば、ラックのダンプにもなるのである。重くしたければ砂粒鉛、タングステン粉末(入手困難、高価か)、あるいはジルコニアサンドなどが考えられる。重くなるのを避けたければ、脱脂綿やスポンジを詰めてもよい。

 かなり具体的になってきて、僕はとってもうれしいのである。現用ラックはすでに12年以上使った。今回の新ラックは、たぶん一生モノになるだろう。

 僕は、物持ちが、良いのである。

’04/09/14 (火)

C-285V


 今月9日で、C-280Vを使い始めて丸13年経った。愚息1号と同じ歳である。既にカタログ落ちしてからも久しく、現在はこれから数えて4代目、C-2800の時代である。すっかり古いアンプになってしまった。

 290、2800は聴いたことがない。290Vは長岡先生が使っておられたから、方舟で何度も聴いた。複数の友達宅でも聴いたことがある。ライン入力の音は、すべての点に於いて290Vの圧勝である。PEQは280Vに分がある。僕は今、PEQを外付け(AE86さん謹製)にし、実用上280Vをラインアンプとして使っているわけだから、どう考えても290V、或いは2800に替えたほうが良いのである。尤も、290Vなら中古になるのだが。

 それでも僕はこのアンプを使い続けたい。粗くても、歪み感が多くても、解像度に劣っても、色付けがあっても、である。低域の圧倒的な馬力、通りの良い中域、壮絶な切れ込みのある高域。個人的には極めて魅力的な音なのである。

 '02年にオーバーホールした時のこと。A社のサービス氏はこう言った。「劣化したパーツはすべて最新高信頼性のものに交換しました。280Vならぬ、285Vになったと思っていただき、末永くお使いください」と。「285V」とはもちろん冗談である。しかしその心意気に、僕はうれしかった。氏の言葉通り、これからも永く使おうと、思ったのだった。

 それから2年以上、次のオーバーホール時期も近い。今度パーツ更新すれば、C-288Vくらいになるのかな。古くなっても実に安心。さらになお進化する期待感もある。

 今やこれは、A社製品の独擅場である。

’04/09/13 (月)

普通であってほしい

 先週金曜日の午後、電話を貰った。まったく存じ上げない、初めての人からである。どこかで僕の噂を聞いたらしく、自分もオーディオマニアだから是非聴かせて欲しい、とその人は言った。

 基本的に僕は「来るものは拒まず、去るものは追わず」という考え方である。そうして仲間が増えていったわけだから。

 予定が合えばお出でください、と言うと「アンタは自作スピーカーを使っているらしいが、やはりユニットはJBLか。聴くのはジャズか。俺もJBLが好きだジャズが好きだ、今から行く」という。勝手な決め付け、しかも随分と短兵急である。ふむ。

 確かに僕は「お出でください」と言った。しかし、一度の面識もないまま初めて電話してきて「JBLだ、ジャズだ、今から行く」は、あまりにも礼を失した行為だと、僕は思う。こちらの都合はまったく伝えていないのである。この時点で、これは遺憾と思った。「今日からしばらく多忙で時間が取れない、改めて連絡してくれ」というと今度は「ならば月曜日はどうだ、ダメなら火曜日に行く」と、なかなかクドいのである。

 こーゆー力加減を知らない手合いは大の苦手である。「同じオーディオファンにも、いろいろございまして。僕はJBLマニアでもジャズマニアでもありません。アナタとは好みが違うようですし、お聴かせしてもお互い幸せになれそうにありません。ご縁がなかったと思って、今回はご遠慮ください」といって電話を切った。

 オーディオが好きだ、という純粋な気持ちはよ〜くわかる。だから僕もムゲに断るようなことはしないつもりだ。ご要望にはできるだけお応えしたい。しかし、である。

 電話から感じられる歳の頃は、僕よりずっと上。おそらく50台半ばくらいだろう。礼儀知らずで通る歳では到底ない。僕は無礼者は大嫌いである。さらに気色悪いのは「自作ならJBL、JBLならジャズ」という偏狭短絡思考。今時マレな御仁だとも言える。箱船に入るなり「あ、このシステムではダメですね」と言った偏狭偏向自慢マニアを思い出してしまった。

 ファンだマニアだという前に、普通の人であって欲しい。「普通」とは字の如く「普く通ずる」ことである。「私は普通にやっているつもりです、これが私の普通です」と言われてしまったらそれまでだが、僕の「普通」という観念の中に、一度の面識もない人にイキナリ電話して「今から行く」というような行動様式は、無い。もちろん、自作=JBL=ジャズなどという思い込み、決め付けもしない。価値観、行動様式のまったく違う人間が出会っても、それはお互い不幸になるだけ。ヤメたほうがヨロシイ。

 かかる御仁と上手く付き合えるほど、僕は人間が練れていないのである。

’04/09/12 (日)

ほぼ成功裡に

 終わりました。天気予報は大当たり、当りすぎて残暑の厳しいこと。しかし、雨が降るよりよほどありがたかったのである。皆さん、お疲れ様でした。

 幹事役は如何にもシンドイ。別段激しく体を動かしたわけでもないのに、酷くくたびれた。帰ったら、ドヒャーと疲れが出てヘロヘロである。30年使ったユニットのウレタンエッジ、っちゅう感じ。風化しているのである。僕はもうコナになります。

 というわけで、今日の日誌もボロボロで終わるのである。また、明日。

’04/09/11 (土)

紋章はためくもとに


 今日(9/11)は僕の本業関係の研修会で、150名以上の集まりがある。紋章はためくもとに、兵庫、大阪、京都の三府県からお客様ご来訪である。その幹事役を仰せ付かっている僕は、今ヒジョーに緊張ナラビニ心配している。無事終了までこぎつけられるだろうか。

 最も気になるのは、お昼ゴハンのことである。各地のまとめ役さんから上がってきた参加人数を集約し、お弁当を用意するのは、重要な役割の一つである。足らずはゼッタイNG、余り過ぎてもイケナイ。もちろん注文は既に終わっているけれど、どうにも心配で仕方ないのである。飛び入り参加があったらどうする。もし足らんかったらどーしよー。食い物の恨みはオソロシイのである。

 幸いは、11日に「晴れ」の予報が出ていることである。人寄せで最もありがたいこと、それは晴天である。心配事の一つは、クリアできた、かな。

 明日の今頃は、全部終わっている。どうか無事閉会できますように。

’04/09/10 (金)

欣喜雀躍

 3日前、時々利用している海外レコードショップから「New Arrival」の案内メールが届いた。このショップは、他とは違って滅多にCMメールが来ない。多くても3ヶ月に一度くらい、無いと言ったら1年以上ナシのつぶて(死語か?)である。ワリといい加減してます。

 毎週のように送ってくる店のメールならチラッと見て捨ててしまうことが多い。今回はヒジョーに珍しいのでじっくり読んでみた。と言っても英文なのでおおかたワカランのであるが。

 「9月の新着」という見出しの下に「記録的な速さで在庫を増やしているから、是非見に来なさい」と書いてある。そうか、そんなにストックが増えたのか。折角だから覗いてみようとリンクをクリックしたれば。

 あっ、と思わず声が出た。シンゾウが縮まった。顔が紅潮した。手が震えた。永らく捜し続けていたLPが、載っていたのである。極めて入手難、万が一あっても極めて高価、しかもほとんどの場合一点モノなので競争が激しく一瞬の躊躇で買い逃す、というブツである。実はこれまでに3回ほど、タッチの差で逃げられている。クヤシイのである。

 いつもなら1枚あたりの送料をケチって複数買いする。今回はそんなユーチョーなこと、してられない。余も人生がかかっておる。ヒッシである。この際、送料割高など問題じゃねえ。あたふたとショッピングカートへ放り込み、凄い勢いで注文を確定させるのであった。幾度か買ったことのあるお店でよかった。

 注文受け付け完了の自動返信メールは届いた。しかしここからが問題である。このあと「ゴメン、既に売り切れでした」という悲しい知らせが来る可能性大。前3回はすべてそうだった。

 念のためもう一度サイトを確認すると、早くも「Sorry,This item is currently out of stock」の表示が。既に「カートへ入れる」ボタンが押せなくなっている。う〜む、いやな予感。僕の注文で品切れになったとは考え難い。もっと早くに手を付けた人がいたと考えるほうが自然である。またもやタッチの差か。それから今日で3日目、ドキドキしながらメールを待ったのである。

 来た。件名は「Invoice」。送り状、である。開いて見ると「以下の発送方法と送料で送る準備ができた。了解の返信をくれ。すぐ送る」という内容だった。いやあ、僕はもううれしくてうれしくて。欣喜雀躍、手の舞足の踏むところを知らず。嬉々としながら「左様でございますか、ありがとうございます、なんでも了解しちゃいますからどんどん送ってくだせえ」と返信するのである。アホか。

 捜し続けていたLPに出会った時のときめき、入手できることが確定した時の喜び。これが忘れられず、僕は探索をやめられないのである。メゲず、腐らず、諦めず。これ、極めて重要。して、その正体は。

 それはまた、後日。

’04/09/09 (木)

気乾比重0.44


 近所の友達が、春から家を建てている。古くなった従来の家を取り壊し、一からの新築である。東側に山を背負った立地で、以前は朝日が山の樹に遮られ、日当たりが良くなかった。その樹を今回の工事にあわせ、思い切って伐採したという。伐った樹はヒノキが多く、それを製材して新しい家に使うというわけだ。日当たりは良くなるし建築費はコストダウンできるし、まさに一石二鳥である。上手いこと考えたもんだ。

 工事見舞いに行ったついでに伐採したものを見せてもらった。その中に、ヒノキとは様子の違う立派な木がある。よく見ればそれは樅である。

 樅といえば、言わずと知れたクリスマス・ツリーである。ので、西洋の樹かと思ったら、日本特産種だそうだ。マツ科モミ属の常緑針葉樹。気乾比重(含水率15%の時の比重)0.44、軽く柔らかで加工しやすい材になる。昔は建材にも頻用されたというが、現在はあまり使われない。

 見た瞬間、ドキッとした。建材に使うに1本だけでは足りず、売れるほどのものでもなし、と言って捨てるには勿体無い、どうしようかと彼は言う。その言を聞く前から、僕の目はメガネのレンズにくっつきそうなほど飛び出し、クチからはヨダレが出そうなグワイである。「くれ。これ、オイラにくれ」と僕は言った。ズーズーしいことこの上なし。だが、そんなことはお構いなし。完全にクレクレタコラと化すのであった。

 とゆーわけで、もらってしまいました。憲さん、どうもありがとう。僕はとってもうれしいです。

 1,870mm×φ400mm、堂々たる樅の丸太である。曲がりはなく断面は真円に近い。極上の丸太だ。しかもちょうど良い切り旬で切ってある。これはなかなか手に入りませんゼ。こんなもの欲しがるオイラは、完全に変人。しかし、○急ハ○ズあたりに出れば、結構な値が付きそうでもある。

 さて、これをもうしばらく自然乾燥させたあと、350mmずつ程度に切り分けるつもりでいる。そう、僕の大好きな、切株椅子にするのである。ピュア・オーディオ用に好適。比重が低いのは気になるケド。欅よりは落ちるか。箱船2階で使ってみたい。

 350mmに切るならば、5個取って120mm余る計算になる。充分だ。問題は、一人で切れるかどうか。以前、直径30cm弱の樫を電動チェーンソーで切ったことがある。大変な苦業だった。樅が如何に軽くて柔らかくとも、今回はそれを上回る大物である。刃渡りが足りない。エンジンチェーンソーが必要になるかしらん。

 何方か裁断のヘルプにいらっしゃいませんか。今なら御礼として、出来た切株椅子1個を進呈します。って、誰も要らんわな、こんなもん。

 僕にとっては、実に魅力的なブツなのである。ヤッパリちょっと、ヘン。

’04/09/08 (水)

強烈


 一昨日書いたADである。「Karlheinz Stockhausen/KOMMUNION und INTENSITAT」(独Grammophon 2530 256)。大学時代、第二外国語選択でドイツ語を勉強した僕であってみれば、この程度を訳すくらい朝飯前。ならカッコイイわけだがそうは行かない。ゼンゼンワカリマセン。

 ので、得意の翻訳サイトを使ってタイトルを訳すと「霊的交渉と強烈さ」と出た。日本語でもよーわかんらんな。「KOMMUNION」は「聖体拝領」(カソリックにおいてのミサの時、ワインとパンをキリストの血と肉に見立て導師から受とる儀式)とも訳される。

 馴染みのレコードショップから「くずてつさん向きのレコードが入りました」と連絡があり、ならば買わずばなるまいと入手した。内容についての予備知識はまったくない。ただ、シュトックハウゼンだから、というだけのことである。特にファンだということもないけれど、録音には興味があるわけだ。

 A面「KOMMUNION」16分22秒、B面「INTENSITAT」30分44秒。(P)(C)の記載はない。ライナーノーツによると、'69年9月頃の録音らしい。古い録音である。それからすればこのレコードは、'70年代前半くらいのものだろう。ジャケットからも何となく時代が感じられるのである。

 古くても盤は非常に綺麗である。未開封盤ではないながら、ミントコンディションマイナスくらいの状態だった。センターホールの探り傷もほとんど無し。両面を1回ずつ聴いてラックのコヤシ、という感じである。

 そうなった理由は聴いてみればすぐワカル。パーカッションと管弦に叫び声、それにハモンドオルガンが絡むという、如何にもシュトックハウゼン、なのである。両面とも旋律はあって無きが如く、好き勝手に楽器をかき鳴らしテキト〜に叫んでいるように聴こえる。オモシロイと言えばオモシロイし、しかし1分と聴けない人もいるだろうと思う。前オーナーさんは、きっとそのクチだったのだろうな。全編まさに「強烈」である。

 音は、ヒジョーに良い。立ち上がりが極めて鋭く、トランジェント最高。歪み感極小で透明感があり抜けが良い。この音はADでないと出ない。音場感も良い。あまり広くないスタジオで録音されたのか、わりと殺風景な音場である。各パートが、非常にリアルで鮮明に捉えられている。これが35年前の、録音なのである。

 音楽ファンは聴いては遺憾。後悔します。サウンドマニアは是非とも聴いてください。と言いたいところだが、この曲風である。

 躊躇するのを禁じ得ない。

’04/09/07 (火)

また近所を通過


 今朝方、また地震があった、と思ったら、午後からは台風である。今日もわりと近所を通って行くという。AD紹介どころの騒ぎではなくなってしまった。ウチの建物は如何にも古いのである。激しい雨や風には用心しなければイケナイ。以前、台風雨で本堂天井からダダ漏れ。花祭りでもないのに本尊さんを潅仏しそうになって大慌てしたことがある。

 16時45分。京都府北部は暴風圏の真っ只中である。今回の18号は、なかなか強力らしい。庭の柿も桜も檜も、風に煽られてさっぱりワヤである。車もひっくり返りそうな暴風、30m以上はあるか。こんな風は久しぶりである。地震も怖いが台風も怖い。

 20時30分。風はかなり収まり、雨も止んだ。懐中電灯を持って外周りを点検する。庭は山からの落ち葉や小枝だらけである。暗闇に白く丸い物体が。何かと思えば中身の入った生ゴミ袋である。何処からか風に乗ってきたらしい。ドチラさんのものでしょーか。建物には異常なし、瓦が落ちたり漆喰が剥げたりもないようだった。明日の朝、もう一度点検したほうが良さそうではある。もちろん、箱船には何の問題もない。

 7つ目の上陸で記録更新、南の海には既に19号が控えている。あと幾つ来るかな。

’04/09/06 (月)

怖い曲

 ここのところ従来の更新ペースからすれば、一日分遅れているわけである。今日はがんばって周回遅れを取り戻す、つもりだったが、完全に計画倒れになってしまった。思うに任せず、極めて遺憾です。

 昨日、地震で試聴を中断されたレコード、実はカールハインツ・シュトックハウゼンの現代曲である。「シリウス」や「ムジーク・イム・バウフ」、「デア・ヤーレスラウフ」などでお馴染み(なのはたぶん一部の変人だけ)の作曲家である。息子はジャズに走った。

 明日はこのレコードを紹介したいと思う。D・Gレーベルの古いタイトルだが、音はなかなか良かった。但し、曲は如何にもシュトックハウゼン。これを聴いている最中に地震が来たのは、ヒジョーなグッドタイミングである。

 地震の怖さ、倍増。

’04/09/05 (日)

怖いもの


 揺れました。19時07分頃は震度3、ついさっき23時57分頃は震度4。1回目は母屋で家族とゴハンを食べていてグラグラッときた。揺れ始めから終りまでが思ったより長くて、些か怖くなり外へ出た。なんと言っても母屋は築76年の年代モノなのである。震度3となれば、ギシギシと盛大な音を立てるのである。

 2回目は箱船にいて、ネタ探しでADを聴いている最中だった。後から椅子を押されたように感じ、あっと思ってすぐに針を上げた瞬間、大きな横揺れがきた。さすがに箱船は母屋のような悲鳴は上げないけれど、それでもカタカタと異音を立てる。ブキミなのである。上の写真は、揺れが収まった直後のものである。照明が振り子のようになっている様子を、少しでもお分かりいただけるだろうか。慌てて撮ったら露出がうまく合っていなかった。

 幸い、こちらでは物が落ちたり倒れたりの被害はなく一安心。重心の高いSネッシーも大丈夫だった。ヨカッタヨカッタ。

 地震といって思い出すのは、やはり'95年1月の阪神大震災である。あの時はこの地方も相当揺れた。こちらの公式震度は「4」という発表だったが、体感では5弱くらいあったように思われる。知らず床に足を踏ん張った記憶がある。

 まずは母屋の被害がないかを点検し、そのあと箱船へ入って驚いた。当時のメインスピーカーはネッシーII、それが2本とも2cmくらい前進していたのである。よくぞコケなかったものだと、安心したりゾッとしたり。

 今回の震源は紀伊半島沖、和歌山県南部は震度5弱というから、これは相当強い揺れ方である。げんきまじんさんの「AE86さん掲示板仲間生息分布図」によると、和歌山市在住の仲間にはRaioさんがいらっしゃる。被害はなかっただろうか。

 地震、雷、火事、オヤジ。昨今、オヤジはちっとも怖くなくなったけれども、地震はやっぱり、コワイ。

’04/09/04 (土)

困難だけれども


 昨日載せた写真、なんとも不鮮明である。もう少しでもマシなものがないかと、この頃(おおよそ15年前)のシステムを撮った写真を捜してみる。あるにはあったが、どれもイマイチパッとしないのもばかり。特にGT-2000Lだけを写したものは、ついに発見できなかった。何処かに存在するはずなのである。

 結局今日も不鮮明な写真でお茶を濁すことになってしまった。お許しあれ。

 写っているのは、2000Lに搭載した、AEサエクWE-407/GTだ。このプレーヤー、キャビ、モーターは文句無しの強力版である。オリジナルプラッタはアルミ削り出しで、オプション砲金製に交換せずとも充分。機能的にも非常にシンプルで、使い易さ抜群である。

 唯一のウィークポイントは、アームだったと思う。水平、垂直ともボールベアリングによるサポート、ウルサイことを言えば感度はもう一息、の感があった。高さ調整を容易にするためか、支持固定部分はポール(柱)に蝶ネジ1本で締め込む構造になっている。ここもやや心許なかった。

 そういうことがあり、WE-407/GTに換装したわけである。これがまた如何にも質実剛健重厚長大なアームで、2000のオリジナルアームともEPA-100MkIIとも、まったく違う感触なのである。シェルの指かけを持った瞬間「ガッチリ出来てます、曖昧さは一切ございません」と、力強く語ってくるようなアームだった。

 音もまったくその通りであって、豪快そのもの。全域に渡って力感漲る音だった。やや繊細さに欠ける部分もあったが、音の塊が唸りをあげてぶっ飛んでくるような感じは、このアームでなければ出ない音だろう。極めて魅力的なアームである。当時75,000円。今、一から作ったら、とんでもない値段になっちゃうンだろうなあ。

 現在、こういったAD周辺機器がほとんど無くなってしまったのは残念である。今からAD再生に挑戦しようというファンには、パーツ選択の余地がない。惜しいことではある、が、困難さを補って余りあるほどの感激と魅力が、AD再生には、あるのだ。

 一度聴いたら、ヤメラレナイ。

’04/09/03 (金)

GT-2000の思い出


 先々月28日にADについて書いた。一旦この道にハマると止まらないと。流離いの旅人さん、いよいよホンキで走り出されたご様子。祝着至極に存じます。今後のテンカイを、心からご期待申し上げておるので、ございますイッヒヒヒヒヒ。

 プレーヤーは一気のジャンプアップ、彼の名機ヤマハGT-2000である。こーゆーものを導入してしまっては、もうイケナイ。暗黒オーラの世界へようこそ。

 このプレーヤーには思い出がある。現用SP-10MkIIIより以前、僕が初めて買ったマトモなADプレーヤーがこれだった。黒より木目調に目が行き、2000Lのほうだったが。1985年のことである。

 当時はオプションパーツが充実していた。外部電源ユニットYOP-1(38,000円)、ストレートアームYSA-1(40,000円)、ピュアストレートアームYSA-2(60,000円)、砲金プラッタYGT-1(120,000円)、砲金ピンポイントレッグYPB-1(4個/48,000円)、アンカーブロックYAB-1(定価失念)など。AEサエクからはこのプレーヤーのためにカスタマイズしたダブルナイフエッジアームの名機、WE-407/GT(75,000円)もリリースされていた。今から思えば夢のようなお話である。

 このうちYOP-1、YSA-2、YGT-1を仕入れ、それでは事足りずさらにWE-407/GTも買い込み、万全の布陣でAD再生に臨んでいた、つもりだったが、悲しいかな使いこなせず音はイマイチ。僕はまだ若く、機器の価値能力を正しく認識判断することができなかった。

 いま、これらはすべて手許にない。一時SP-10MkIIIと併用し、その後縁ある人に譲ってしまったのである。時はAD周辺機器大受難の頃。中古ショップの買い取り値は、二束三文に近い状態だった。「買い取っても、売れないんですよねえ。ウチも不良在庫を抱えたくないもんですから」と言われたのを、鮮明に覚えている。そういう時代だったのである。

 個人取引でも、とても良い条件とは言えなかった。実に惜しいことをしたと思う。今となっては本体よりもオプションパーツのほうが貴重である。

 19年前の僕は、GT-2000の潜在能力を十全に引き出すことができないまま、無為に手離してしまった。若気の至り、とはいえ恥ずべき行いである。流離いの旅人さんは、きっと素晴らしい音を実現されることだろう。

 ご健闘を、お祈り申し上げます。

’04/09/02 (木)

元祖HM


 日中の暑さはまだ厳しいものがある。しかし夜になるとすうっと涼しくなるのはさすがに9月である。庭では秋の虫が盛大に鳴いている。こうなると夏場なら暑苦しくて聴けなかった音楽も、ちょっと聴いてみようかという気分にも、なるのだった。

 「ジューダス・プリースト/背信の門」(日EPIC/SONY 25・8P-5036)。88年に買ったCD、2,500円だった。現在のリリース元はソニー・ミュージックエンターテインメントである。1,631円で買える。

 ジューダス・プリースト(以下J・P)と言えば、知る人ぞ知るヘヴィメタルロック(以下HM)の雄である。このアルバムは彼らの三作目、'77年5月のリリースになる。この頃はまだ「HM」というジャンルが今ほど明確に認識されておらず、J・Pも単純にハードロックの仲間だった。

 今、音を聴いてもさほど重くはなくて、わりとまっとうなブリティッシュハードロック、という印象が強い。プロデューサーが元ディープ・パープルのベーシスト、ロジャー・グローバーであることも大きく影響していると思う。ゲストミュージシャンのかたちで参加している凄腕ドラマー、サイモン・フィリップスのプレイは出色。スピード感、緊張感抜群。ただ、この人のドラムはどちらかといえばへヴィ系ではなくライト系である。それもまた楽曲に重くない印象を与えるに一役買っているのだろう。

 バンドネームを直訳すれば「聖職者ユダ」。アルバムタイトルが「背信の門」。ジャケットディザインはご覧の通り。収録されている曲名を2,3挙げてみたれば「罪業人」「危害者」「不当なる弾圧」「異端からの反撃」など。何だか凄い趣味である。暑苦しいというか、オドロオドロしいというか。

 当時、ブラック・サバスと言いスコーピオンズと言いアイアンメイデンと言い、主たるハードロックグループはおしなべて斯くの如くセンスで商売していた。こーゆーのが、よかったのかなァ。伊藤セーソクさんは大喜びで持ち上げていたけれど、渋谷ヨーイチさんは大いに辟易していた。

 この辺りが、イワユルHMの黎明期になるのだろうと思う。以後、スラッシュだグランジだコアだゴシックだドゥームだと、ハードロックが際限なく細分化されてゆくわけだ。僕はまったくついて行けません。アッシにゃあ何が何だかサッパリ。30年前ロック小僧も中年になるとこの有様。とまれ、趣味やジャンルはさておき、僕はこのアルバムが好きである。

 録音は、言わずもがな。

’04/09/01 (水)

螺子コレクター


 ドトウの8月は夢の如く過ぎ去り、はや9月である。台風一過秋の空、とは行かず、まだまだ残暑はキビシイ。本物の秋までは、もうしばらく間がありそうである。

 さて、先々月始めにユニット取り付けネジを純チタン製に交換して約2ヶ月が経った。一夏越えたわけだ。当初、涼やかな高域を聴かせながらもやや生硬くもあり。今になってようやく本性を現してきた感じである。

 軽やかな音であることはヒジョーに結構、しかし、僅かにドライな印象が目立ってきた。高域のみならず、すべての帯域が乾いた感じになるのである。艶、潤い、瑞々しさの表現などは苦手なように思われる。少々音にカサカサした響きが乗るのである。従来使ってきた鉄ネジが圧倒的に優れているとも言えないわけだが。

 ワッシャの有無も関係しているかもしれない。鉄、チタン、材質にかかわらずワッシャは使わないほうがよい、とは以前からよく耳にする意見である。主に精神衛生上の問題で、僕はこれまで常に使ってきた。ワッシャ無しも試してみるべきか。

 これまでに試したネジは、鉄、チタン、SUSの三種である。SUSは音に粘りが出、加えてややピーキーな印象で個人的にはイマイチ。チタンは上記の通り、ややドライな傾向。鉄はオーソドックスだが面白味に欠ける部分もある。

 今後試してみたいのは、真鍮、砲金、純銅、ジュラルミン製のキャップスクリューである。真鍮製は探せばあるかもしれない。砲金製は特注になるだろう。純銅製は、たぶん何処にもないと思う。柔らかくて使い物にならない。ジュラルミン製も特注かな。タングステンネジ、なんか特注したら、またドエライ値段でキゼツしそうになるンだろうなあ。M5×15mmで1本10万円とか。

 ADスタビライザーをコレクションしたあと、今度はネジコレクターになるか。