箱船航海日誌 2002年08月

日々雑感、出来事などを思いつきに任せて綴っていこう

過去の日誌コンテンツ 

’02/08/31 (土)

例によって


 来客前は掃除で大騒ぎである。明日(8/31)は3名のお客様アリ。掃除はもちろん整理整頓は必須である。

 いちばんの問題はADである。ここ2年くらいの間に入手したものが、整理されないままラックから溢れかえっている。あるものはダンボール箱に、あるものは椅子の上に、またあるものはオーディオラックに立てかけてあったり、見るのも厭になるような状況である。

 半日かけてどうやらラックに収まった。困ったのはDECCAの「RING SET」である。装丁が立派でラックに入らない。これだけが床に飛び出している。間口の大きなラック、作らなきゃ。

 今日はこの作業にくたびれ果てたので、日誌はこの辺りで。実は、2階はまだグチャグチャのまんま。ほとんどゴミダメである。

 毎日ちゃんと掃除しておけばこんなことにはならないのに。まったくもういつもいつも....。

’02/08/30 (金)

座禅と工学

 今日(8/29)の午前中は、どういうご縁か大阪電気通信大学で電気工学(無公害エンジンなどを研究しているらしい)を学ぶ学生さん9人と、ゼミの先生1人、計10名が座禅をさせて欲しいとご来訪。なんでも夏休みを利用した研修旅行の一環で、「これまで体験していないことをやってみたい」と座禅を選んだそうだ。ちょっと面白い選択だと思う。

 朝9時半に到着、早速座禅指導に入る。「皆さん座禅は全くの初体験ですか」と尋ねると全員が力強く頷いた。こりゃちょっと難物かなと思いながら、足の組み方、基本姿勢、呼吸法などの座禅作法を説明し、まず最初は10分程度座ってもらう。

 難物なんてとんでもない。皆初めてとは思えないくらい立派な座相(座った時の全体的な姿勢)である。初めての人はたいがいひどく歪んだ形になるものだが。意気込みがチガウのかな。

 これならイケると間に休憩を入れながら1回目10分、2回目15分、3回目30分、都合55分間座って予定を終えた。感想を聞くと「脚が痛え」「股関節が痛くて気が狂いそうだった」「背中が痛い」「シビレた」など、かなり苦痛なものだったご様子。そりゃそうだ。座禅が苦痛でなくなるには最低半年はかかる。しかも毎日数時間座ってのことである。

 だが同時に「独特の爽快感がある」とか「何だか体が軽くなった」「座っているだけなのにものすごく汗が出て気持ち良かった」など、肯定的な感想もあった。そう、姿勢を一つに決めて眤としているには非常な体力を必要とするんだヨン。

 いいお土産を思いつかなかったので、彼らを叩いた警策(座禅の時に使うシャモジの親方みたいなヤツ)を進呈したらとても喜んでくれた。学校へ帰ったらゼミのみんなで座禅タイムを設けてチョーダイ。良いアイディアが飛び出すかもしれないね。

 工学系の学生さんたちっちゅうことで「チミらの中にオーディオマニアはおらんの?」と訊いたら、カーオーディオファン(マニアではないそうだ)が一人いただけだった。

 今時の若人は室内オーディオなんかやらんのだナァ。

’02/08/29 (木)

久々にパニアグア


 CDプレーヤー新調にあたっては、SACDとともに最近ご無沙汰だったCDソフトの購入も充実させて行かねばならない。と言っても近在には琴線に触れるようなソフトを置いているお店は皆無である。いきおいネットを活用した通信販売に頼らざるを得ない。

 あれこれと検索しているうち、演奏者に懐かしい名前を見つけた。エドゥアルド・パニアグア。そう、あのグレゴリオ・パニアグア/アトリウム・ムジケ・ド・マドリッドのメンバーの一人である。グレゴリオさんの弟さんだったかな。間違っていたらゴメンナサイ。西Pneuma(ネウマ)レーベルからまとまった数のタイトルが出ている。既にお持ちの方も多いだろう。

 その中から比較的新しい録音だと思われるものを4タイトルほど買ってみた。上の画像はそのうちの1枚、「珠玉のアラブ音楽/アブデル・カリム・アンサンブル」(西Pneuma PN-300)である。(C)2001。エドゥアルド・パニアグアはプロデューサーとしてクレジットされている。演奏には参加していないようだ。

 数年前、Pneumaレーベルが設立されて間もない頃にも数枚のCDを買ったことがある。長岡先生が高く評価されたレディ・アリシアレーベルの「CALAMUS」がPneumaレーベルで再発されていた頃である。当時このレーベルはどちらかと言えば硬質な音で、チリチリした感じがやや耳に付くという印象だった。悪い音とは言えないまでも、イマイチの感は拭えなかったのである。

 今回買った4タイトルはその感じがかなり改善されたように思った。けれども贅沢を言えばもう一歩艶と輝きが欲しい。ちょっともどかしいのである。その中で個人的には今日紹介したタイトルがいちばん気に入った。プラスチックのCDホルダーを厚手の紙で挟み込むタイプのジャケットは美しくて良い。ピクチャーCD仕様である。

 曲は如何にも「アラブ」である。全13曲61分53秒。どこから聴いても違和感はない。全部同じ曲に聴こえる、と言ってはイケナイな。何処かで聴いたことのあるようなメロディーが次々に飛び出してくる。音はハードでダイナミック、冒頭からダラブッカ(太鼓の一種)の一撃が痛快である。どの楽器も非常に鮮明だが、ちょっとキツく人工的な感じもある。チリチリした歪み感は少ない。これに艶と脂っこさが加われば文句なし、なのだがちょっと惜しい。奥行きはよく出るが左右とエコーの高さがもう一息。

 この手の音楽に興味のある方が買えば損はないと思う。そうでなければたぶん後悔するだろうな、というCDである。

 何となく気になる方は、こちらZeAmiまでどうぞ。

’02/08/28 (水)

25年間の思い違い


 LED ZEPPELINの5thアルバム「聖なる館」である。1973年録音。僕が初めて買ったのは1977年4月だから、もう25年以上前のことになってしまった。昔、否、太古イニシエのレコードである。

 当時ブリティッシュロックファンには二大勢力があった。所謂ツェッペリン派とパープル派である。どういうわけかこの両派はお互い相容れず、非常に仲が悪かった。この構図は当時のロック評論家にも現れていて、ツェッペリン派の渋谷陽一氏、いまいずみひろし氏、パープル派の大貫憲章氏、伊東政則氏、この陣営は何かにつけて逆らい合っていたのが思い出される。

 僕はどちらだったかと言えば、単純明快、ムツカシイことは良く解らなかった(今もそうだ。進化ナシ)ので、当然パープル派だった。「リッチーの早弾きすごいっ」「イアン・ペイスのバスドラ早いっ」とか言って喜んでいたのである。

 同じくロックファンだった実兄はツェッペリン派で、「移民の歌」とか「ブラック・ドッグ」なんかを眉間に皺寄せて聴いていた。何が面白くてあんなにケッタイな曲を聴くんだろうと、その時は不思議に思っていた。とは言え僕もロックファンのはしくれ、わけが解らずとも「II」「IV」「聖なる館」「プレゼンス」辺りは押さえておいた。「フィジカル・グラフィティ」は二枚組みで高くて買えなかった。

 今、両方を改めて聴き返してみると。音楽的に深みを持って耳に響くのは、どう聴いてもツェッペリンの方である。渋谷陽一氏の評論は正しかった? だが、数年前突如現れ即座に消えた「王様」の直訳ロックツェッペリンバージョンには大笑いしたっけなぁ。

 話が脱線してしまった。

 当時買ったこの「聖なる館」は純然たる日本盤、国内盤である。音はヒドイ。高域も中域も低域もクソもない。歪みだらけでレンジは狭く、聴くに堪えない音である。ツェッペリンの作品中では特に好きなタイトルなので、これが良い音で聴けたらどんなに良いだろうと思いながらも、ロックの録音なんかこんなモンだと諦めていたのだが。

 先日、海外通販でこのタイトルのリカッティング180g盤を買った。ただのリカッティングではなく、ジャケット、内袋にいたるまで忠実に復元したオリジナル復刻盤である。ご丁寧に「LED-ZEPPELIN-HOUSES OF THE-HOLY」と書いた横帯まで再現されている。見ているだけでもちょっと嬉しいレコードである。

 これを聴いて、僕はひっくり返ってしまった。すごく音が良いのである。Fレンジ、Dレンジは100倍くらい広がったように聴こえる。音そのものも非常にスムース。歪み感が大幅に減り、シンバルは繊細で美しく、ベースは音程明瞭、バスドラムは深々と鳴る。ボーカルは抜けが良くなりバックと混濁しない。日本盤のマズい部分を全て解決したような、痛快ロックサウンドである。

 う〜む、僕は25年間、何を聴かされて来たのだろう。「ロックは録音が悪い」のではなく、マスターテープからレコードにプレスする間のプロセスにこそ問題があったのではないのか。或いは、アメリカから国外へ出すマスターテープそのものにも劣化があったのかも知れない。

 こういう復刻盤なら大歓迎である。間もなくライブ盤「永遠の詩」200g復刻盤が出るそうだから、それも買ってみたい。他にもリリースしてくれたらバンバン買うぞ。

 アナロックは未だ死なず。

’02/08/27 (火)

誠意とは


 23日に書いた海外通販は、無事完了した。24日の午後、荷物到着。アメリカの発送が22日だったから、正味3日で着いたことになる。国内通販より早いんでないかい?

 梱包は非常に丁寧、厚手のダンボール箱で二重にパッケージし、隙間はどっさりの緩衝材で充填してある。これなら安心。開封して内容を確認する。注文に欠品がないのはもちろんだが、どういうわけかAD1タイトルだけジャケットが余分にもう一枚入っている。中身(盤)抜きのジャケットだけ。ハテナ? これにはどういう意味があるのだろう。俄かにはその意図が理解できず、何かフロクのようなものかとマヌケなことを思うだけだった。

 その本意に気がついたのは、聴こうとしてビニール袋から出したときである。写真に見えるが如く、ジャケットの表から見て左上の角が潰れていたのだった。たぶん製造元から販売店への輸送中にこうなったのだろう。空ジャケが付属していたのは、「カドが潰れているからそちらで健全なものに入れ替えてくれ」ということだったのである。ナ〜ルホドそうだったのかと、僕はちょっとばかり感激してしまったのだった。

 細やかな心配りである。今時、国内販売店でここまでやる店があるだろうか。クールな見方をすれば、某訴訟天国国家の販売店のこととてクレームの事前処理、転ばぬ先の杖、ともとれるわけだが、僕は素直に販売店の誠意と取りたい。ジャケットのカドが多少潰れていたって中身の盤には何ら問題ないわけで、個人的には全く意に介さない。はっきり言って音が聴ければOKである。

 以前、国内販売店でもっと酷いことになったAD(もちろん新品)を買ったこともある。「返品、クレームは一切受け付けない」という但し書き付きで。

 今回の対応が仮にクレームの事前処理だったとして、さて、どちらの対応に誠意を感じるかと問われれば、答えは火を見るより明らかである。商売のツボを良く知る販売店だと、いささか感心したのだった。

 こういうやり方、ムカシは日本人の最も得意とするところだったはずだが。現代日本、誠意は何処?

’02/08/26 (月)

今日も生録


 今(8/25)夜は愚息が通う小学校のPTA主催で、ウインド・オーケストラ(以下WO)演奏会があった。「与謝ウインド・オーケストラ」(だったかな)という、地元アマチュアミュージシャンで構成されたWOである。おそらく今日はユニットを小さくしての演奏だと思われる。写真が上手く撮れていなくて申しわけない。

 如何にアマチュアWOとは言え、僕のような素人が音楽プログラムを録音できる機会など滅多にあるものではない。DATとマイクを担いで出かけてきた。図らずも二日連続の生録になったわけである。

 体育館での演奏会、綺麗な響きなどは望むべくもない。お客は小学生とその親たちである。演奏中にも子どもが走り回り、マイクは足音を盛大に拾う。近頃は躾のできていない子どもが異様に多いのである。困ったものだ。条件は非常に悪いと言ってよいだろう。

 風呂場エコーのような体育館の響きはできるだけ録りたくないので、WOから5mくらいのところにマイクを置く。かなり近めである。高さ、開き角は先日友達から得られたアドバイスを元にして適当に決める。

 アマチュアとは言え、相当な練習量を経たであろうことが想像に難くないような演奏である。個人的には充分楽しめたが、辺りを走り回って盛大に足音を入れてくれた餓鬼ども、イヤ失敬、お子様達はどうだったのだろうか。

 体育館で聴く生のWOは、思ったより音量が小さく穏やかな音に聴こえた。ご覧のとおり構成人数が少ない、ことを差し引いても、意外なほど圧力が小さいと感じたのだった。それでもDATのピークメーターを見ていると、Dレンジは非常に大きい。弱音部に油断してレベルを上げると、ここぞの一発であっという間にレベルオーバーする。生音のパワーを舐めてかかってはイケナイのである。

 小一時間の録音を終え、早速箱船でPBしてみた。思ったよりよく録れていて、わりあい聴ける音である。歪み感は少ない。音量を上げると押し出しと切れが出てきて、部分的には生を凌ぐような感じもある。但し、いかにも「ドシロウトが録音しました」という音であることは間違いない。その範疇での評価、決して自画自賛しているわけではないのである。

 生録は面白い。けれどムツカシイ。上手くなりたきゃ場数を踏むことである。年に1、2回、思い出したようにやっている程度ではまったくお話にならない。もっと気軽に音楽プログラムを録音できるような環境が身近にあればと思うが、実はこれが最も実現困難であったりするわけである。

 11月にはちゃんとしたホールで定期演奏会を開くと聞いた。行ってみようかな。

’02/08/25 (日)

花火2002


 恒例の氷上町花火大会である。今日(8/24)〜明日にかけては何だかムチャクチャに多忙になってしまった。いつもなら妻の実家に泊まらせてもらうのだが、今日は夕方に出発し深夜帰宅。ツカレタのである。

 花火はとても綺麗で、やはり音も良かった。これが今年で最後になるかもしれないのは極めて残念である。録音のほうは、昨年に比較すればやや上手くいったように思う。ロケーション、マイクセッティングを変えたのが功を奏したか。

 昨年は日誌に「頒布したい」と書いておきながら、ヤッパリこりゃダメだとお蔵入りにしてしまった。今年はどうなるか、もう少し詳しく聴いてから判断したいと思う。勇み足はあまり格好の良いものではないのである。

 「お口汚し」ならぬ「お耳汚し」にならないように。

’02/08/24 (土)

前準備


 GT-CD1の後釜はアキュフェーズDP-85に決定。決定するだけなら何時でも何処でもできるから気楽なものである。

 DP-85はCDプレーヤーであると同時にSACDプレーヤーでもある。アキュフェーズのインフォメーションには「SACDプレーヤー」と謳ってあることからすると重きはSACDにアリ、力の入れ方は尋常ではないはずだ。そうなればどうしたってSACDが聴きたくなるのは当然なのである。

 僕はまだSACDソフトを一枚も持っていない。当たり前である。あったって聴けないんだから。だが、DP-85を導入するつもりなら、先にソフトだけでも幾枚かは揃えておきたい。ハードがあるのにソフトが無いということほどマヌケな状況はないわけだ。

 上の画像は昨日書いた海外通販で注文したタイトルのうちの一枚。まだ届いてないケド。ご存知「FLIM & THE BB'S/TRICYCLE」のSACDバージョン(米dmp DMPSA08)である。以前より信頼おけるスジから「非常に良いですよ」と聞いている。

 僕はこのタイトルが20BITリマスターゴールドCD化される前からの大ファンである。ゴールドCDでさえその音のよさに感激したのだから、それを上回ると聞けば聴かずにはおけないのである。

 この他にもSACD数タイトルを注文している。こうしてCDプレーヤーリニューアルの機運と士気を高めていこうという魂胆だが、さて、うまく火が点くのだろうか。

 ここまで書いて「不発でした」では格好悪いね。

’02/08/23 (金)

海外通販

 初めて海外通販ちゅうモノを試してみた。ネットに熟達された方々から見れば、何を今さら時代遅れなことをゆっとるのか、とお思いでしょうが。クレジットカードの一枚さえ持たなかった僕からすれば、これはエポックメイキングな出来事なのである。そりゃ大袈裟だって。

 欲しいものを買い物カゴに入れ、お買い上げページでフォームのマスを埋める、くらいは僕にもできる、と思った。ところが困ったのは「Address」マスの次にある「City」と「State」というマスである。ワカランから空欄のまま送信したれ(ムチャクチャである)と乱暴なことをやろうとしたら、二つとも必須条項だと注意書きしてある。どうやっても埋めねばならんようだ。

 「City」と言えば、英語力のない僕が単純に思いつくのは「都市」あるいは「市」である。この場合は住所にかかわる部分だから「市」、なのだがウチは郡部である。とすると、「郡」名を入れるのか「町」名を入れるのか、それがわからない。「郡」は「County」、「町」は「Town」。「City」に近いのはどちらかと言えば「Town」だろうと勝手に推測し「NODAGAWA-CHOU」と入れる。

 次は「State」。直訳すれば「州」である。州なんか日本にはねえぞ。トドーフケンならあるが。空欄では注文完了できないし、う〜む、どーすりゃエエんでしょうか。英語力貧困なこと、この上なし。カッコ悪いのである。

 ああもうワカランから国名でも入れとけ。間違ってりゃ何らかの知らせがあるだろうと、最後は半ばヤケクソで「JPN」と打ってフォームを送信した。

 その後先方から届いた注文確認メールを見て、誤りが判明する。ヤッパリ。

 「City」欄には都道府県名を入れるべし、だったのである。「State」欄の方は国名でOKだったようだ。よく考えた方が間違っていて、ヤケクソで書いた方が正しかった。「○○の考え休むに似たり」という諺が証明されたかたちである。つまり僕は○○か○○ってことなんだな。考えない方が良いらしい。

 住所訂正のメールを翻訳サイト首っ引き(ネットの力は凄い)で書き、逐一送信。先方から「よくわかった。すぐにデータベースのファイルを訂正しておく」という返信があったときは嬉しかった。

 さて、あとは荷物が無事届くのを待つだけである。今日の朝送られてきたメールによると、既に発送済みだという。何時届くか、ヒジョーに待ち遠しいのである。

 「海外通販おのぼりさん」。そう呼んでください。

’02/08/22 (木)

物欲は尽きず


 今日(8/21)の夜になって聴けました。HELIKON。これはもうぶっ飛びの超ハイトランジェントサウンドである。音が出たと思った瞬間には既に遥か彼方へ飛び去っている、という感じの音だ。もちろんそれがこのカートリッジの持ち味、或いはキャラクターと言えるわけだが、それにしてもこの音は筆舌に尽くし難い。砲金TTプレートの効果は、今さらながらに絶大であると痛感するのだった。

 特に中域から超高域にかけての突き抜けるような音は、ある種麻薬的でもある。緊張感の高い音だが、一度聴いたらヤメラレナイ。日本刀と言うよりはフェンシングのサーベルをイメージさせる。

 しかしこの音は、MC-L1000以上にリスナーを選びそうである。キライな人はキライ(当たり前か)だろうなぁ。AE86さんがHELIKONを選ばずZYXを採ったわけが解るような気がする。個人的には好きな音、だが、ちょっと待て。以前より生硬い音に感じるのは何故?

 と、首をかしげながら幾枚かのタイトルを聴いているうちに、音がどんどんほぐれて行くのがわかる。しばらく使わなかったせいでダンパーなどの振動系が固まっていたのだろう。1時間くらい聴いて、生硬さは解消。やはり僕にはマッチングの良いカートリッジだと、妙なところで安心してしまったのだった。

 この音に、今一歩のしなやかさと深みが加われば完全にL1000を凌げるのだが。そんなことを考えているうち、思いは勝手にオルトフォンJubileeへ。一度はこのシステム(もちろんTTプレートは無かったが)で聴いているだけに尚更である。

 否、遺憾遺憾。現状優先順位はCDプレーヤーに在り。それが手当てできた暁には、是非とも手に入れたいカートリッジである。言葉だけなら簡単だケレドモ。

 これじゃお金がいくらあっても足りませんな。困った困った。

’02/08/21 (水)

今晩はオアズケ


 久しぶりのHELIKON登場である。砲金TTプレートを導入してからはこれが初めて。さあてどんな音が出てくるのか夜になってのお楽しみ、と思っていたら。

 まるで狙っていたかのように急なオツトメ大発生。今夜のうちに準備することも多いし、ゆっくり聴いて日誌を更新したいけれど明日の朝は早くから出なければならないしで、とうとう今夜は聴けず終いになりそうである。取り付け調整だけで、音はオアズケに終ってしまうのだった。

 僕は生来のセッカチ野郎で、好きなことは早くやらないと気が済まないし、うまいものは早く食わないと遺憾と思っている。逆に言えば、イヤなことはいつまでもやらんし、キライなものは絶対食わんっちゅうことでもあるわけだが。とんでもねえ奴である。

 だからこういうことでオアズケを食らわされるのはヒジョーにツライのである。日誌のネタを引っ張るために聴くのをガマンする、ほどの忍耐強さは持ち合わせていない。と言ってもオツトメに差障りがあっては主客顛倒、許されることではないのダ。

 明日はちゃんと聴けるだろうと思う。楽しみは後に取っておくほうが喜びは倍増する? そんなタチじゃないのだが、これも致し方なしである。

’02/08/20 (火)

今夜は液状化

 日誌更新の前に、溜まっていた返信すべきメールを書いてからとキーボードを打っているうちに、意識がすぅっと切れた。ブラックアウト。ハッと気が付いたら午前1時過ぎである。メールには意味不明の文字が無限に並んでいる。完全にスイッチ切れました。

 昨年も同じようなことを書いたが、お盆の後はタメが利かない。自分が祖霊の仲間入りをしてもあまりシャレにならないので、今夜はこのままフトンと一体化させていただくことにしよう。

 ゲル化を通り越して、ほとんど液状化しているのだった。

’02/08/19 (月)

そろそろ出番


 ここのところしばらく、ADはMC-L1000で聴いている。HELIKONがあるのに。決して懐古趣味ではない。或いはHELIKONが気に入らないわけでもない。

 2本持っているL1000のうち1本が切れた時、残り1本は大切にしないとイケナイと思った。これが切れたらオシマイだ、と。当然使い控えするわけである。

 その後、「L1000不調」という話を多くの友達から聞く。ある人のものは僕と同じような切れ方をし、またある人は鳴ってはいるもののひどく生気が無くなったと言う。「自分はもう使わないから」と言ってウチに持ってきてくれた友達のL1000は、僕と友達が聴いている最中に突然Rch断線という、悔やんでも悔やみきれないような振る舞いを見せた。

 カートリッジは使わずに仕舞い込んでおいても劣化する。ひょっとすると使い続けているよりも劣化が激しいかもしれない。針の磨耗は無いけれど、ダンパーゴムは動かしてやらないと遺憾ようだ。タイヤと同じ原理かな。

 大切にしているつもりが、実は劣化を早めているかもしれない。ならば出し惜しみせずバンバン鳴らし、最期の最期まで使い切ったほうが良いに決まっている。そう考えて、使い控えをヤメたのだった。それで切れたらもう仕方ない。あきらめよう。このほうが精神衛生上にもヨロシイのである。

 AE86さん謹製フォノEQ+Y31さん謹製砲金TTプレート+L1000で聴くADの音は文句なしに素晴らしい。ただ、TTプレートを導入して以降、まだHELIKONでは聴いていない。そろそろ交換してみたくもある。劣化するのはHELIKONも同様だろうから。

 これはこれでスゴイ音が期待できそうである。

’02/08/18 (日)

ソフトだけのせいじゃない


 A級外セレ第一集39番「印象派の水の音楽/キャロル・ローゼンベルガー」(米DELOS DMS3006)。紹介されているのはもちろんADだが、今日話題にするのはそのCD(DE3006)である。

 残念ながら僕はこのADを持っていない。同じレーベル、同じ演奏者の内容違い(DMS3009)は持っている。カスっていながら当たっていない、という悔しい状況なワケだ。所有する友達から借りて聴き、一発で気に入ってしまった、ものの手に入らない。DELOSレーベルはある程度まとまった数を持っているのに、どーしたことかこれだけがナイのである。

 CDでもいいからともかく欲しい、と思いながらそれもなかなか叶わず。先日HMVで手当たり次第検索しているうちにやっと見つけて手に入れたのが、上のCDである。

 早速聴いてみた、が、なんだかヘンである。以前ADを聴いたときは、厚く豊かで深みのある音に感激したのだった。特にドビュッシーの「沈める寺」が素晴らしい。それがどうもイマイチ。朦朧としていて切れが悪く、いかにも冴えない音である。どうしちゃったんでしょう。

 録音は1979年6月23、24日だから、ADの(P)または(C)は、たぶん'80年くらい。CDでは(P)(C)1983となっている。CDとしては非常に古い。この時期にCD化されたものは音質劣化著しいことが多い(仏HMや仏ASTREEなどには酷いものがあった)ので、これもそのクチか。

 否、そればかりでもないようだ。

 これを聴いて強く感じたのは、現用CDプレーヤーの劣化と限界である。GT-CD1、これはもうイケナイ。苦しすぎる感じである。これまでに何度も同じことを書いていながらズルズル引っ張ってきたが、いよいよ本気で買い替えを実行する時が来たようだ。僕が考えている以上に激しく劣化している様子である。

 さて、ではGT-CD1の後には何を持って来ようか。僕の心は既に決まっている。が、主に経済的理由に拠り、そう簡単には行かないのである。年内には、何とかなる...何とかする...何とかできるかなぁ。

 急に歯切れが悪くなっちゃった。

’02/08/17 (土)

夏が終る


 今日(8/16)でお盆の行事が全て終った。毎年のことながら、いささかクタビレたのである。今晩、京都では大文字の送り火が焚かれ、うちの近く宮津市天橋立では無数の灯篭が流される。特に暑かった今年の夏も、もうすぐ終わる。

 今日の画像は、14日の夜に村内で開かれた夏祭りの時の花火である。箱船から見て真正面300mほどのところにある広場から打ち上げられたので、2階の窓から写真が撮れた。規模は極めて小さく、家庭用花火に毛が生えた程度のものだったが、それなりに綺麗で楽しめた。

 24日は一昨年「花火2000」としてCD-Rを頒布した、兵庫県氷上町の花火大会である。今年ももちろん録音に挑戦する。昨年しくじったリヴェンジである。

 毎年楽しみにしているこの花火大会、なんということか今年が最後になるらしい。氷上町内を流れる加古川上流の河川敷が発射地点なのだが、このすぐ脇に高速道路が建設され、その関係で中止せざるを得なくなったそうである。永い永い歴史を持つ花火大会が、こんなことで終ってしまうのは残念でならない。場所を替えて継続すると言う声もなくはないらしいが、周辺住民や経費のことを考えると非常に困難な状況だそうだ。

 氷上町の隣町、兵庫県青垣町の花火大会は昨年で幕を閉じた。諸々の難しい問題があっての措置だったと聞く。これまた極めて残念である。

 僕は近隣住民ではないし、遠くからやってきて「ああ綺麗だった」と言って帰るだけの無責任な立場の人間である。当事者にしか分かり得ない不都合があることは想像に難くない。だがしかし。

 世の中がだんだん世知辛く、徐々に息苦しくなりつつあるように感じるのは、僕だけなのだろうか。

’02/08/16 (金)

超絶スタートダッシュ


 一度TTプレートネタに振ると、二日三日で終れなくなる、のは、聴けば聴くほどに新しい発見があるからである。僕よりも早くから使っていらっしゃる方からすればそんなことは先刻ご承知。「何を今さら」という感をお持ちだろうけれど、僕にとっては新鮮な出来事である。どうかお許し願いたいのである。

 お盆の行事も漸く一息、少しく時間に余裕ができたので、またまたADばかりバンバン聴いている。何を聴いても実に楽しい。昨日の日誌では、DHK後の音の変りように驚いたと書いたが、レコードをとっかえひっかえしているうちに、変ったのは音だけではないことが分かってきた。

 表面が滑らかになったことで、密着度が上がったらしい。それがわかるのは聴き終わったレコードを取り上げる時だ。僅かながらも盤がプレートに貼り付いているのである。ちょうど吸着プレートを使った時のように、持ち上げる瞬間空気がシュッと入るような感触がある。DHK前もその感じはあったが、それがさらに顕著になったようだ。スリップは皆無。ダスパーをしっかりかけても盤は微動だにしない。危機感ゼロである。

 盤とプレートの一体化が強まったわけで、これはメリット大だと思う。同じボリューム位置でも明らかに音量が大きく聴こえるのは、それによって信号のロスが減り、立ち上がりが良くなったせいなのか。

 イメージとしては、スターティングブロックを後方へぶっ飛ばすくらいの勢いでスタートダッシュを決めたような感じの音、と言えば何となくおわかりいただけるだろうか。これじゃワカランか。う〜む、表現に困る。瞬発力のある音、踏ん張りの利いた音、鋭く立ち上がるけれどもキツさはない音...どう表現しても舌足らずになってしまうのがもどかしいのである。

 ともかく、個人的には極めてよい方向である。この上研磨をさらに徹底させたらどうなるのか、ヒジョーに興味深い。どこまでも際限なく良くなるわけではないだろう。しかし現状が最良の状態であるはずもないことは明白である。ここは一丁やってみるか。

 このあたりが自称DHK(大日本偏執的研磨党)総裁たる所以なのであった。

’02/08/15 (木)

まだまだ


 思いのほか音に違いが出てしまって、ちょっとビックリしている。変わったところと言えば表面の状態だけ。面積が大きいだけ影響も大きいのだろうか。

 根本から音が変ってしまったわけではなく、全体的な印象は先月21日に聴いた時と同様である。DHK前に比べて音場の見通しがさらに良くなった。金属打楽器、金管楽器の切れ込み、声の通り、低域の馬力がスゴイ。抜けの良さは圧倒的。余分な音が付く感じはない。ADの良さを充分すぎるほど感じさせてくれる音である。こんな音は滅多に聴けないだろう。Y31砲金TTプレート、この威力や恐るべし。

 お盆のストレスを一発でぶっ飛ばすような音である。いくら聴いても聴き飽きない。DHKは成功したと言ってよいと思う。

 ただし、これは僕の個人的感想であって、全ての人にそのまま通用するかどうかは保証の限りではない。時間と労力を費やしてDHKし、その結果やらなきゃよかった、ということもあり得るわけだ。やってしまうと元に戻せないのも問題である。言うまでもないことだが、DHKなどせずともこのTTプレートの効果は絶大である。もう一枚作ってもらいDHKの有無で使い分ける、のもアリかとは思うが、凡そ一般的ではない。

 GMホーンの時にも感じたことだが、表面を研磨し鏡面に近づけると、固有の鳴き、つまり音の色付けが少なくなる方向へ振れるようである。デメリットが抑えられ、結果メリットが目立ってくる感じ。同じくY31projectからの真鍮TTプレートも、DHKすることでさらに質の向上が期待できるかもしれない。

 AD再生の限界は何処にあるのか、やればやるほどわからなくなる。だからこそ趣味たり得るのである。

 まだまだこれから、です。

’02/08/14 (水)

20日かかって


 昨晩はゲル人間化しグニャグニャと早寝したのと、今日のオツトメが比較的楽だったのとで、残り1/4だったY31さん謹製砲金TTプレートのDHKを完了させることができた。

 研磨の結果はご覧の通り、上々である。完璧、とまでは行かないが美しい鏡面に仕上がった。これも元々の切削精度が高いからこそ実現できたことである。

 まずはピカールで準鏡面に磨き、そのあとダイヤモンドペースト(以下DP)を使った。目立たない部分で試験してみると、DP#8000の粒子はピカールよりもやや粒が粗く却ってキズを増やすことになってしまう。これでは上手くないので、DP#8000はスキップし#15000をいつもより多めに、しかも希釈液は少なめに使って仕上げ研磨した。この上さらにDP#24000で研磨すれば、もっと美しい鏡面になるはず。やってみたい。

 いつもならばこの後水とアルコール系洗剤で洗浄し、ベンコットで拭いて出来上がり、とする。しかしホーンなどに比べてモノが大きく重く、洗剤で滑って落としでもしたらエライこと。繊細微妙なTTプレートが歪んだりしたら元も子もないのである。キムワイプに無水アルコールをたっぷり染ませ、黒い研磨汚れがすっかり取れるまで何度も何度もしつこく拭く。10回くらい繰り返したらほぼ綺麗になった。研磨も仕上げ拭きも、結局偏執的な作業がモノを言うのである。

 このDHKがどんな変化を音にもたらすのか、それがいちばんの関心事、なわけだが、研磨にヒッシでまだ聴けない。聴いてもわからないかも知れない。盤と接する面の状態が変わったわけだから、音への影響がゼロとは言えないと思う。問題は、その変化を僕が判別できるかどうか。ヒジョーにアヤシイのである。

 さて、今後はこれが錆びないように管理しなければならない。これが非常な難物である。塗料などは絶対に使いたくないし、といって優れた防錆剤もない。くすんできたら軽く磨く、しか方法はないだろう。できるだけ細かい研磨材を使わないと遺憾。

 やはりDP#24000、あるいはそれ以上の研磨材必須。用意しよう。

’02/08/13 (火)

ゲル化

 昨年よりも暑いお盆のせいか、今年の疲労感はとりわけ深いものがある。今日はモウダメです。グニャグニャ。ネタにしようと思っていたADを聴いているうちに、デロデロと居眠りしてしまった。スライムみたいだ。オマエはマグマ大使の光線にやられた人間モドキか。こんなんでマトモな日誌なんか書けるはずもないのである。

 申しわけゴザイマセン。今日の日誌は半休(と言うより全休)で、お茶を濁してしまうのである。

 う〜む、お盆は苦しい。

’02/08/12 (月)

三日目終了

 今日は特別に暑かった。昨日よりも早くに終れたにもかかわらず、疲れは大きい。ああシンド。助っ人がある分、少しは声嗄れがマシかと思えばそうでもない。やっぱり「ジャイアンのリサイタル」状態である。

 明日が終れば峠を越える。年々クタビレがひどくなるようだが、ナニ、だんだんと愚息分を増やせばいいのである。そのうち全部彼らが回るようになり、最期は僕がお経を読まれる側になる、と。

 世の中上手くしたものである。その時を楽しみに、明日もがんばることにしよう。

’02/08/11 (日)

助っ人


 連日抹香臭いネタで恐縮である。時節柄、ということでどうか御容赦願いたいのである。

 今年のお盆オツトメは二人の助っ人登場。愚息達である。昨年まではその予行演習、僕に付いて一緒に歩いた。「今年は僕ら二人で歩く!」というので、クタビレおやじとしてはその言葉をありがたくお受けした。

 道案内役の祖母を先頭に、一日十数軒を助けてくれる。ヒジョーにありがたいのである。僕のミニチュアのような衣を着て歩く姿は世人に大ウケ、ブタもおだてりゃ木に登る、二人ともその気になっている。何時までこれが続くか、それは保証の限りに非ず、である。

 エラそうに紫の衣を着ているが、厳密に言えば宗制違反である。この写真を宗門関係者が見たら、僕は罰せられるかもしれない、ナンテ言うのは野暮な話。ま、固いことは言いっこなし、っちゅうことで。いずれにしてもご覧の通り、すっかり丈が短くなったので、来年は新調しなければならないだろう。その時は黒にしますからね。

 明日、明後日まで、この助っ人は働いてくれるそうだ。後で熱出さんといてな。

’02/08/10 (土)

施餓鬼供養とは

 掲示板にmaverickさんから「施餓鬼の意味とは?」というご質問があった。少々長くなりそうなので、日誌に書いてお答えしたいと思う。

 「施餓鬼」とは正に字面の如く「餓鬼に施す」という意味である。「餓鬼」とは六道(天上道、修羅道、人間道、畜生道、餓鬼道、地獄道)のうち、餓鬼道に落ちて苦しんでいる亡者のこと。餓鬼が口にしようとするものは忽ち炎と化し、何一つ食べることが出来ず飢えの苦しみには際限がない。自分の力ではこの苦しみから脱することが出来ない餓鬼に、食べ物を施そうというのが「施餓鬼供養」である。

 実際には、食べることで(つまり他の命を奪うことで)自己の命を繋いでいる自分の罪深さ、或いは食べ物に対する感謝の念を自覚するための供養である。「いただきます」「ごちそうさま」という日常的な言葉の中にも、この教えが生きているのだろうと思う。

 「施餓鬼供養」の起源は仏教伝説の中にある。

 「お釈迦様の十大弟子の一人である阿難(アナン)尊者が、あるとき森の中で座禅していると、真夜中に突然餓鬼が現れました。その餓鬼は口から火を吐きながらこう言いました。

 『三日後、汝の命はなくなり、我と同じ餓鬼道に落ちることであろう』

 驚いた阿難はすぐさまお釈迦様に相談します。

 『観音菩薩から授かった真言(お経の一種)を七回唱え、一心に祈れば少量の食べ物が沢山になる。これを無数の餓鬼に施し、空腹を満たさせなさい。こうして供養すれば多くの餓鬼が苦身を逃れ天上に生まれかわれよう。また、その施主は寿命が延び、仏の道を悟る近道にもなるのだよ』

 とお釈迦様は教えられました。阿難尊者はそのお言葉通り、早速供養を行いました」。


 本来「施餓鬼供養」は随時寺院で行われていた。例えば年忌法要(1回忌、3回忌など)でも営まれていたのである。最近ではお盆の行事として営まれることが多くなったが、春秋のお彼岸に施餓鬼供養するという実例もある。

 施餓鬼供養では、新亡(前年の供養以降に亡くなった方)、先亡(ご先祖様)、さらには三界萬霊(諸々全ての霊)の塔婆を立て、ご飯、水、野菜、果物、お菓子など、沢山のお供え物をして、あらゆる餓鬼に施しをする。その功徳が施主やその先祖にまで及び、それがそのまま先祖追善供養になってゆく、というわけである。「追善」とは、故人が生前為し得なかった「善行」を、遺された者があとから「追って」代わりに実行する、という意味である。

 宗旨により解釈に多少の差異はあるかと思うが、概ねこれが「施餓鬼供養」の意義、目的である。

 僕は今の仕事にありながら、死後の魂がどういう状況にあるのか、明確な答えを持たない。はっきり言って、ワカラナイのである。だが、一つだけ確実にいえることは、永い永い無数の命の集積が、僕(貴方)自身であるということ。故人(例えば祖父母、父、母)の肉体は滅んでも、その命脈は間違いなく自分の中に「生きて」いるのである。そのことに深く感謝し、素直に供養したいと思う。

 今日(8/9)はお盆の入りである。ちょうどこの時に、このような日誌を書ける機会を与えてくださったmaverickさんには、心から感謝したいのである。

 ありがとうございました。

’02/08/09 (金)

あれ? 33回転


 6日の日誌に書いたRRレーベルのWALTON/FACADEである。「看板に偽りなし」と書いた手前もう一度ちゃんと確認しておかねば、と取り出したはよかった。ンが、あっ、なんということだ、手持ちのこのタイトル、よく見れば33回転盤じゃないかっ!

 もうすっかり45回転盤を持っていると思い込んでいたのである。何度も聴いているはずなのに、なんちゅうことだろうか。ああ、ハズカシ。

 こうなってしまうと僕の「看板に偽りなし」という言葉自体が「偽り」である可能性も出てくるわけである。慌てて聴いてみると、いや、ご安心下さい、ヤッパリ良い音です。ちゅうことは「看板に偽りはないが、そう言った奴がいちばん偽りだった」と、こういうことになるわけで、そのバヤイ結局「看板に偽りがあった」ことになるのだろうか? いや、先生の評価に間違いはないわけだから、そうではない。オマエがいちばん「偽って」るんだよ、くずてつ! 大ウソツキ野郎である。どうもスビバセン。

 いずれにしても、僕が極めていい加減なことを言ったことに間違いはないわけで、誠に申しわけないのである。ゴメンナサイ。

 RRにはこういうタイトルが他にもあって、「KRONOS QUARTET/INFORMATION」(RR-9)も33、45回転両方出ている、と言うより出ていた。いろいろ調べてみると、今日のタイトル45回転盤はまだ手に入りそう。ここは大慌てて買うことにしよう。

 ことほど左様に僕の言うことはエエ加減である。とんでもねえ奴だ。45回転盤が手に入ったら、キッチリご報告いたします。

 アホですな。

’02/08/08 (木)

季節とともに

 施餓鬼供養会は無事終了。これが終れば気持ちの上ではかなり楽になる。ああヤレヤレ。

 今年はやはり暑さがキビシイらしく、汗の出方が尋常ではなかった。シャツもキモノもコロモも通り越して、袈裟までビショビショである。こんなことは初めて、閉式後の疲労感も非常にヘビーである。

 明日は一日中休みをおき、明後日からは村内を一軒一軒歩いて回らねばならない。暑いだろうな。しかし、決して苦痛ではない。僕の仕事は季節とともにあるような部分が多く、それがけっこうな癒しになっているのである。春はお彼岸、夏はお盆、秋はまたお彼岸、冬は除夜と正月。仕事が風物詩みたいなものである。言うなれば、浮世離れしているわけだ。

 このご時世、こんな仕事に就いていられることは大いに感謝すべきことなのかもしれない。お盆の暑さもまた、過ぎてしまえば懐かしむのだから。

 今日(8/7)は立秋である。

’02/08/07 (水)

忙中閑有り


 今年もお盆の一大行事である「施餓鬼供養会」(せがきくようえ)がやってきた。この行事が、僕のお盆のスタートになる。これから約2週間、一年でいちばん多忙な時期である。読経する機会が集中的に増えるので、ノドには苦しいけれど基本的にこの時期はキライではない。終った時の達成感はなかなか良いものである。

 趣味とは面白いもので、忙しい時ほど寸暇を惜しんで没頭してみたくなるから不思議である。時間に余裕があるときは、いつでもできるからまた今度、などとほったらかしにするクセに。

 ストレスを解放するのが趣味を持つ目的の一つであってみれば、そうなるのは当然の帰結と言えるのかもしれない。多忙であることが趣味(僕の場合オーディオ)を向上させる原動力になっている、っちゅうことか。

 ナルホド。仕事あってのオーディオ、オーディオあっての仕事というわけである。忙中閑有り、多忙を楽しむくらいの余裕を持って、このお盆を乗り切ることにしよう。

’02/08/06 (火)

45回転の超馬力 II


 は「Walton/FACADE、Lecocq/MAMZELLE ANGOT」(Anatole Fistoulari指揮、Royal Opera House Orchestra 米RCA LIVING STEREO LSC-2285)である。1959(58かも知れない)年録音。180g45回転盤5枚組み。このタイトルの33回転盤は持っていない。

 ウォルトンのファサードと言えば、A級外セレ第3集276番にRRレーベルのもの(演奏はシカゴ・プロ・ムジカ RR-16)が紹介されている。1983年録音。録音年には実に24年もの差がある。偶然こちらも45回転盤、だがカッティングは常識的で1枚に収めてある。

 その記事の見出しには「透明、鮮明、朗々と鳴り渡って目がさめるよう、楽器が見えてくる」とある。看板に偽りなし、その通りの音である。これに比して今日のRCA復刻盤は。

 音場感に大きな違いがあるのは昨日も書いた通り。RR盤よりかなり近い。透明感ではややRR盤に譲るが、厚み、力感、豊かさでは大きく上回る。しかも鮮明で繊細、何のストレスも無しに音がぶっ飛んでくる感じは、45回転片面カッティングの威力だろうか。昨日のタイトルにも共通した印象である。

 演奏には軽快さの中に重みがあって非常に良い。僕の勝手な思い込みかも知れないが、時代の差のようなものを感じた。RCA盤はどことなくノスタルジックに聴こえるのである。

 現状僕が持っているLIVING STEREOの45回転盤シリーズは、昨日とタイトルと合わせて2タイトルだけ。他にも「ローマの松」や「アルルの女」など、欲しいのもがたくさん残っている。M85さんによると、必ずしも33回転盤を凌ぐものばかりではない、ということだった。ンが、やはり聴いてみたいことに変りはない。

 CD、SACDも聴かねばならんと思いながら、やっぱり僕はアナログ方面へ惹かれるのである。

 アナクロオヤジでございます。

’02/08/05 (月)

45回転の超馬力


 「チャイコフスキー/イタリア奇想曲、リムスキー=コルサコフ/スペイン奇想曲」(キリル・コンドラシン指揮 RCAビクターSO RCA LIVING STEREO LSC-2323)である。1959年録音。このレコードは昨年の5月、M85さんのお世話により180g復刻盤(33回転盤)を手に入れることができた。元々好きな曲(特にスペイン奇想曲)だったのと、録音の素晴らしさですぐさま愛聴盤になった。

 今日紹介するのは同タイトルの45回転盤である。二曲とも長くはなく、1枚のLPに充分カッティングできるほどの演奏時間である。にもかかわらず、45回転盤は180g盤4枚組み。内容は全く同一である。どうなってるんでしょうか。

 写真右下に見える白い円形シール。これには次のようにある。

 「45 Series Special One-Sided Pressing Of(曲名)」。

 要するに、1枚のLPにつき片面(One-Side)にしかカッティングしていない、というわけ。しかもいちばん長いサイドでも音溝幅は5cmくらい。短いサイドでは3cmに満たない。裏面はブランクサイド、ツルツル鏡面である。常軌を逸した贅沢レコードである。こういうことをやっているから4枚組みにもなるわけだ。これは徹頭徹尾音にこだわった結果の方式である。実物を目の当たりにすると、何かしら鬼気迫るものを感じるようなレコードである。

 このシリーズを初めて見て聴いたのもM85さん宅である。聴かせていただいたのは、彼の「シェエラザード」45回転盤。これは強烈だった。僕も欲しいと思った。ヨダレが出た。でも、既に買えなかった。悔しかった。

 ので、現在買えるもののうちから、信頼のおけるM85スジからの情報を頼りにまず選んだのが今日のタイトルである。

 冒頭、トランペットが朗々と響き渡るところから45回転パワーが炸裂する。もの凄まじい浸透力(貫通力というべきか?)、到達力である。全てを吹き飛ばしてしまいそうな圧倒的力感、しかも繊細感、伸び、それに輝きと艶があり歪み感は皆無。最初の数秒間を聴いただけでこのレコードがタダモノではないことを強烈に思い知らされるのである。

 今までに聴いたことがないような圧倒的な厚みと猛烈な押し出しの中で、楽器と楽器の間にある空間、空気感が鮮明に感じ取れるのには恐れ入った。それぞれの楽器が独立して鳴っているのがわかるほどの分解能を持ちながら、しかもバラバラにはならず、厚く豊かなオーケストレイションが再現されるのである。

 ただ、オーケストラ録音としてはかなり音が近い感じなので、この辺りは好みの分かれるところだと思う。近すぎておちつけない、とおっしゃるムキもあって然るべし。音場について言えば、例えばテラークやRR(リファレンス・レコーディングス)などの録音とは随分違った展開になる。

 しかし、それにしてもスゴイ音、良い音だ。もちろん演奏も最高である。全面聴き終わったとき、思わず椅子から立ち上がって拍手、同時に「なんや、M85さんはこんな音ばっかり聴いてたんか。ズルいやんか」と叫んでしまった。アホか。

 オーディオマニアを以って認ずる人なら、この音を聴かなきゃウソである。一人で聴いているのはあまりにも勿体無い。どなたか聴きにいらっしゃいませんか、と言ってもこれから暫くはお盆でダメだな。残念。

 ROKUさん、再びどうもありがとうございました。

’02/08/04 (日)

苦闘


 こんぴーたウイルス騒動に関連して、メーラーを変更しようとしている。なんてエラそうに言うけれど、これもPCベテラン諸氏からありがたいアドバイスがあってのことである。ありがとうございます。

 変更する、と言っても僕のこと、スムースに移行できるわけはない。わからんことだらけである。失礼を承知で親しい友達にだけテストメールを送ったけれど、そこまで辿り付くのが大変だった。焦って友達のアドレスを間違って入力し、エラーになって返ってきたのを見て「なんだ、このメーラーやっぱり僕には使えねえじゃん」と大ボケをぶちかましてみたり、苦闘の末ようやっと送受信が可能になった。

 で、今度は新規アカウントの設定をしようとしている。一応出来ている、はず、だが、ヒジョーに疑わしい。PC始めて2年と少し、相変わらずドシロウト丸出しである。

 くずてつから妙なテストメールが送られた方、ウイルスメールではありませんからどうかお許しください。

 って、オイラ自身がウイルスみたいなモンだったりして。

’02/08/03 (土)

間もなく立秋


 夏至から約1ヵ月半、随分と夜明けが遅くなった。写真は今朝5時前の空である。東の空には僅かに曙光が差し始めているけれど、天空には三日月がはっきりと見え、夜と朝の境目という感じ。8月7日は立秋、暦の上では間もなく秋、である。

 日中はまだまだ暑い。昨日も気温は35℃以上。お盆前の草刈りをしていたら、途中でキボチ悪くなるほどだった。しかし、夕方になるとすぅっと涼しくなる。夕暮れも早くなった。イナカに住んでいると、季節の変わり目がヒジョーに良くわかるのである。秋の準備は確かに始まっている。

 考えて見ると、本当の盛夏なんて短いものだ。梅雨明けから10日間ほど。7月下旬が最も暑い時期だろう。「お盆は暑くて大変ですね」と労いの言葉をかけていただくことも多いのだが、上手くしたものでその頃の暑さはさほどではないのである。

 だから、お盆が済めばもうすっかり秋の匂い。毎年見に行く「氷上町花火大会」(8/24)の夜は、半袖が寒いくらいに感じられる。

 花火といえば生録、昨年はマイクセッティングをしくじって二度と聴きたくないような音になってしまった。今年はそのリヴェンジである。1999年ローフィルターで失敗、2000年まずまず成功、2001年マイクで失敗。順番からすると今年は成功するはずの年だが。

 生録には秋風が吹かないようにしなくちゃね。

’02/08/02 (金)

ビミョーにハズレ


 先月26日に書いた「セイシェル-鳥の歌」(日SME MHCL104)である。結果は表題のとおり、ハズレだった。残念。

 だが、全くの大ハズレというわけでもなく、「鳥の楽園セイシェル」(日CBS/SONY 38DG28)と同じ音源クサく聴こえる部分もある。同時期に録音したもののテイク違い、或いは長時間録音したマスターからの切り出し部分違い、とも取れる。音場の出来グワイが良く似ているのである。

 音そのものはややヒステリックで、厚みが不足気味か。しかし、全く違うロケーションで全く違う人が全く違うマイクで録音した、というふうにも聴こえない。真相はどうなのだろう。

 最後の5分間くらいだけに波の音が入っていて、32DG28の冒頭に比べるとかなり大人しく控えめな音ながら、やはりよく似ている。もうちょっとでホンモノになりそうなのに、僅かなところで手が届かないという、ヒジョーにもどかしい感じ。実に惜しい。

 こうなると「波のささやき」(SME CSCL1648)を、なおのこと聴いてみたくなるのだが、どうやらこれは廃盤らしく、再発もされていない様子。ナイと聞けば余計に聴きたくなるから不思議だ。

 1,000円は安いし、ジャケットも涼しげでよい。でも、ハズしたのでは意味がない。それも、ビミョーにハズすのは何だかヒジョーに悔しいのである。

 「鳥の楽園セイシェル」は何処行っちゃったんでしょうか。

’02/08/01 (木)

踊るボウラー


 このクソ暑いさなか、ボウリングをしに出かけた。もちろん、愚息達のリクエストがあってのことである。暑いといっても場内は寒いくらい冷房が効いているので何の問題も無いわけだが。

 夏休みとは言え平日の午後、ご覧のとおりレーンはガラ空きである。ほとんど借り切り状態。あんまりやるとシンドイからね、多くても3ゲームくらいね、と言って始めたのだが、全身是生命力の塊のようなドラ息子どもがそんなことで満足する筈も無い。結局5ゲーム、都合100投以上つきあわされ、今日の中年おやじは全身是筋肉痛の塊である。ああ、フトモモの裏側が痛いよう。

 ボウリングなんて何年ぶりだろうか。学生時代は学校の近くに学割の利くところがあったので、授業をサボって毎日のようにやっていた時期もあったが。

 結果は惨憺たるもの。スペア、またはストライクの割合は20%以下、1ゲームに2回あれば良いほうである。となれば点数は推して知るべし、学生時代の半分にも届かない。最後のほうは握力も落ちてきてもうガタガタ、歳は取りたくないのである。

 愚息ドモは最初から最後まで大喜び、見ているだけで疲れてしまいそうなほどハイテンションである。チミらは若いからな。写真を見ていただければ凡その見当がつくだろう。点数なんかクソクラエである。

 ともかく楽しめたんだからそれで吉。グッタリ疲れたオヤジに向って「毎日10ゲームくらいやりたい!」という追い討ちの言葉。

 あのね、そんなことしてたらね、ウチは破産しちゃうのよ。