箱船航海日誌 2008年04月

日々雑感、出来事などを思いつきに任せて綴っていこう

過去の日誌コンテンツ

’08/04/30 (水)

姫路市へ


 昨日29日は、かねてからの法話依頼により、兵庫県姫路市まで出かけてきた。当地は京都府といえども、兵庫県との境まで3kmしかなく、姫路市まで2時間チョイで行けるのである。距離にして片道125kmくらい。兵庫県は自動車専用道路の整備が進んでいるから、ヒジョーに楽である。京都府とは比べるべくもない。

 朝から絶好天であった。帰り道に立ち寄ったSAでは、植え込みのハナミズキが満開で、最早初夏の様相である。とても気持ちが良かった。

 4月も今日で終わりである。明日からは5月。最も素敵な季節が、やってくる。

’08/04/29 (火)

荒物屋


 26日の日誌文中に「荒物屋」という語句を使ったら、友達から「懐かしい言葉だ」と、メールが届いた。

 確かにその通りである。最近あまり使われなくなった言葉であることは間違いない。ひょっとしたら、20代以下の若い人たちには、何を売っている店か分からないかもしれないのである。

 国語辞典で「荒物」を引くと「おもに台所で使う家庭用品。ちり取り、ほうきの類。雑貨」とある。それらを販売するのが「荒物屋」である。今風に言えば「ホームセンター」ということに、なるのだろうか。しかし、先ごろ閉店した店は、どう見ても「荒物屋」であって「ホームセンター」ではない。

 僕はこの「荒物屋」を、時々覗くのが大好きだった。写真に見えるような伝統的「御櫃」、今やすっかりプラスチック製に取って代われた「柳行李」や「笊」、重厚な「道具箱」などが所狭しと並んでいて、値札もバーコードも付いていない。買わずとも見ているだけで楽しくなるのである。こんな客がいるから、閉店廃業してしまったのだな。

 「荒物屋」「台所」「御櫃」「柳行李」「笊」「道具箱」。改めてこれらの語句を思うと、すべて死語と言ってよいくらい、耳にしなくなった言葉なのである。言葉だけでなく、モノの存在そのものすら、危ういものだということにも、気付くのだった。

 「荒物屋」は「ホームセンター・生活雑貨店」と名を変えオシャレになり、「台所」は「システムキッチン」に変貌し、「御櫃」は「オート炊飯器」に取って代わられ、「柳行李」は「ブティック・ケース」となり、「道具箱」は「ツールボックス」と名も姿も変えた。「笊」だけは今も「ザル」かな。

 時代変れば品変る。今さらムカシに戻りたいなどとは毛頭思わない。今はヒジョーに便利です。ただ、古き良き時代のニオイが消えて行くのを、いささかばかり寂しく思うのである。

 便利になって浮いた時間は、何処へ行ったのかしら。

’08/04/28 (月)

再頒布


 FE208ES-Rが再頒布されていたなんて、恥ずかしながらちっとも知りませんでした。受付開始は4月24日午前10時半、僕が再頒布の件を知ったのは25日の夜だから、なんともマヌケたお話なのである。

 尤も、早くに知っていたとしても、もうこれ以上は必要ないし、況してやスペアを買い置きできるほどの余裕など、あろうはずもないのである。6本揃えるのも、イノチガケだったンですから。

 今回は350本限定、1本の価格は税別79,000円(税込82,950円)と聞く。前回頒布より4,000円、値が上がっている。これはもう致し方ないのだろう。金属材料の高騰は今も続いているし、原油価格も1年前よりうんと上がっている。さらに、稀少なマテリアルをてんこ盛り使ってあるのだから。

 このユニットを1年間使ってきて強く感じたのは、206S〜208ESまでの流れとは、やはり一線を画したものであるということだ。新しいFOSTEXの音、なる印象が強い。極低歪み、極めて清澄、圧倒的分解能、超微粒子サウンド。エージングには208ES以上に時間がかかるけれども、全く以って素晴らしいユニットだと、思う。

 現在4月28日午前2時。350本は、とっくに売り切れちゃったかしらん。

’08/04/27 (日)

責任重大


 普段は静かなこの町も、今週末はにわかに活気が出るのである。今年も早、恒例の春祭りがやってきた。

 都市部へ出て行った若え衆も、この時に合わせて帰省する。僕は当地生え抜きの人間ではないから、祭りに対する思い入れはさほどではない。しかし彼らにとっての故郷は、やはり大切なものなのである。そんなことを思いながら山車を見ていたら、珍しい来客があった。

 「お久しぶりです。懐かしくなってちょっと立ち寄らせていただきました」と、礼儀正しくやってきた20代と思しき若者。長身痩躯、なかなかの男前だ。今風に言うなら「イケメン」である。最初は何方か分からない。しばらく顔を眺め、あっと思い出した。

 今を去ること十数年前、彼はまだ地元の中学生だった。僕がドラムを叩くことをどこかで知り、「是非教えて欲しい」とやってきたのが縁の始まりであった。教える、などとおこがましいことはできないけれど、叩きたいのならばいつでもおいで、ついでにオーディオもあるし映画もあるよと、箱船でタイコ叩いたり映画観たり音楽聴いたりして、ひと時遊んだのだった。

 そんなことが数回もあったろうか。彼が高校生になった頃には、だんだん疎遠になる。成長の過程で世界が広がり、価値観が多様化してゆく時期の若者は、そういうものである。それから今に至るの間、まったくのご無沙汰だったわけだが。

 その彼が、十数年ぶりに僕を訪ねてくれたのである。とても嬉しいことだ。今年で26歳になったという。いやあ、立派になったねえ、元気そうで何より。今はどうしてるの、と、応えを聞いて驚いた。

 俳優、なのである。これはビックリ。中学生時代のシャイで物静かなパーソナリティからは、およそ想像できない。何がきっかけでその道へ、と尋ねてみて、またまたビックリ。

 「初めてお邪魔した時に観せていただいた『ターミネーター2』が、あまりにも衝撃的で、その時の体験が今の道を決めたようなものです」

 何ということだろうか。責任重大である。けれども僕は、とても嬉しかった。僕の道楽に過ぎない箱船から影響を受け、一人の俳優が生まれたとなれば、喜ばずに居られましょうか。

 彼の名は、永岡佑(ながおか・たすく)という。新しいところでは映画「KIDS」(2008年2月公開)、この7月には舞台「羊と兵隊」に出演が決まっている。もちろんTVドラマ、CFへの出演もある。最近は映画、舞台に活動の重きをおいているようだ。

 地元出身、しかも極めて縁の深い俳優さんとなれば、応援するにヤブサカでないのは当然である。今後の更なる活躍を、心から願い祈りたいのである。

 がんばってな。

’08/04/26 (土)

寂れる街

 丹後に住して20年、その間ずっとヒイキにしてきた喫茶店が、閉店してしまった。個人経営のお店だったから、閉店=廃業である。

 美味しいコーヒーと軽食、明るい店内、当地には珍しいシャレたインテリア、居心地の良いテーブルレイアウト、そして何よりも嬉しかったのは、常連になっても無闇に話しかけてこないご店主の存在である。

 常連になると、たいがいはマスターと世間話をしたりする。実際にそういうお客さんもいたようだ。ケレドモ僕は、誰にも気を遣わず邪魔されず、独りでゆっくり本を読みながらコーヒーを飲みたいがために行くわけだ。無愛想なわけでもなく、僕を独りにしてくれたのは、ご店主の配慮だったのだろう。

 閉店の詳しい理由は、知らない。これまでに交わした数少ない会話から思うに、経営難が最大の原因ではないかと。今の時代、小規模個人経営飲食店が健全に生き残って行くのは、極めて困難なのかもしれない。

 今年になってから、近在の飲食店が三店、荒物屋さんが一店、閉店廃業している。すべて個人経営である。近年になって開店した大規模ホームセンター、大型電器量販店、大手ファミレス、それらの存在は、決して無関係ではないと思う。

 確かに、以前より簡単便利、しかも安価にモノが買えるようになりはした。多くの人は「安く買えればそれでよし」と考えているように見えるけれども、果たして本当にそれでよいのだろうか。

 バブル崩壊以前、世の中には「高価なものなら何でもよし」なる風潮が蔓延していた。それが今や反対方向へ振り切れてしまっているようだ。僕にはどちらも極めて不自然に見える。何事にも「丁度好い加減」のところが、あるはずだ。

 個人経営商店がひとつ、またひとつと街から消えて行く。僕は寂しい。それが時代の趨勢だと、分かっていても。今回の喫茶店閉店は、殊更にそう感じたのだった。と言って何ができるでもなく、ただ遠巻きに、見ているだけなのだ。

 街が、寂れてゆく。

’08/04/25 (金)

不精で貧乏性


 上の写真は、リスニング・ポイント右後方、CD、ADラックに囲まれたコーナー部分である。ここには昨日まで、AD輸送用の段ボール箱やら、漫画週刊誌やら、オーディオ雑誌やら、ワケのわからんビニール袋やら、が、乱雑に積み上げてあった。

 無精者の僕も、あまりの汚さにとうとうシンボウできなくなり、すべて整理したのだった。残したのはオーディオ雑誌だけ、あとは全部ゴミである。僕はどこか貧乏性にできていて、段ボール箱と見ると、ついつい残しておきたくなるのである。また使い道があるかもしれない、と。

 ほとんど(というよりは100%)のバヤイ、後日打ち捨てることになるのである。なのにまたぞろ大切に取り置きする。結果部屋がキタナくなる。また捨てる。というアホ的循環を繰り返すのだった。いい加減、学習すればよいものを。

 きちんと整理すれば、ヒジョーに気持ちよい。部屋が広くなるし、明るくもなる。空気まできれいになったように感じるのは不思議である。だからね、どんどん捨てましょうね。

 わずかながら、音にも良い影響があるようだ。響きがきれいになり、音の艶と瑞々しさが増したように感じている。長岡先生曰く「オーディオルームは、きれいに散らかすのが極意である」と。その言葉どおり、本家方舟はいつお邪魔しても「きれいに散らかし」てあった。その域に達するには、まだまだ修行が足りない。

 無精で貧乏性。先ずはこれを何とかせんと、遺憾のである。

’08/04/24 (木)

1,000kg


 現状、箱船には約3,000枚のLPレコードがある。そのほとんど(箱が立派過ぎてラックに入らないヤツもある)が東側の壁、リスニング・ポイントの背面に設置したレコードラックに入っていて、おそらくは効果的な吸音材になっている、だろうと、これは僕の勝手な希望的観測である。

 レコード3,000枚の総重量は、どれほどになるのだろうか。裸LP1枚+ジャケットの平均重量を300g(かなりいい加減な数字である)とすると、0.3×3,000で900kg。これにラックの重量も加算すれば、1t近くの重さが床にかかっていることになるわけだ。馬鹿にならない重量である。

 僕が丹後へやってきた1988年当時の保有枚数は、不確かな記憶だが、500枚くらいではなかったか。その程度の枚数でも、引越し準備にはずいぶん手間取った覚えがある。もし今、引越しするとなったらそりゃもうタイヘンである。考えただけでもイヤになるのだった。

 尤も、そんな心配は無用である。少なくとも、僕が生きている間は。死んだあと、遺った者ドモが処置に困るかもしれんが、そんなことは知ったことではない。

 死ぬまでにはもう少し増える予定だから、愚息ドモよ、よろしく頼むのである。

’08/04/23 (水)

がんばれ、黄色在来種


 タンポポの花とは、黄色しかないものと思い込んでいた。

 最近、箱船周りの草むらには、白いタンポポが目立つようになってきたのである。今春に至っては、白のほうが多いくらいだ。初めて見たときは、黄色タンポポの白化かと思ったが、どうもそうではないらしい。

 「シロバナタンポポ」という、立派な種である。しかも、古来からある日本在来種だ。学名Taraxacum albidum。分布は、本州関東以西、西へ行くほど多くなり、特に四国、九州に多く見られるそうだ。当地も「本州関東以西」のうちだが、近年まで皆無と言ってよいくらいだった。

 帰化植物である「セイヨウタンポポ」は、単為生殖(単独で種子を実らせる)できるという。黄色い花の在来種タンポポ(カンサイタンポポ、カントウタンポポなど)は、両性生殖であって、この点が生き残り上不利になり、セイヨウタンポポに分布を奪われてしまう形になっているわけだ。

 「シロバナタンポポ」は、在来種でありながら単為生殖型である。つまり、他の在来種に比べて生き残り戦略に長けているわけで、おそらくその所為もあって当地でも数を増やしつつあるのだろう。或いは、温暖化が関係しているのかもしれない。

 この調子で増えて行けば、数年後にはシロバナばかりになってしまいそう。そのうち「タンポポの花は白」が常識化したりして。

 がんばれ、カントウ、カンサイタンポポ。

’08/04/22 (火)

春眠

 春爛漫である。その所為かどうか、晩ゴハンを食べた後は眠くて眠くて仕方がないのだった。昨晩も、キゼツするように早寝してしまった。電源を切られたアンプのみたいなモンである。

 考えてみれば、これも健康であることの証かもしれない。体のどこかに不グワイがあれば、快適な睡眠は望めないのである。バタン、と寝付いた後、気がつけば朝になっている。何ともシアワセなことです。

 寝る子は育つ。寝るオヤヂは、どーなるンだろう。

’08/04/21 (月)

これも趣味


 13日から始めた2回目のリ・レコパック作りは、一昨日完了した。なんて言うほど大層なことではない。要するに、再利用に具すべき皮が、なくなったのである。結局、ボトル3本と1/2、分量にして約1,700ccくらいできたことになる。これでまたしばらくは安心して使えるのである。

 皮を溶かす時に困るのが、端っこにくっ付ける剥離紙である。皮を盤面から剥がす時の取っ掛かりとして必要なこの紙は、水に溶けないから除去しないとグワイが悪い。溶かす前に鋏で一枚一枚切り取るわけだが、この作業が実にメンドクサイのである。

 何か良策はないか。ない知恵を絞って、ようやく思いついたのが写真の方法である。

 剥がした皮を細く切り、剥離紙の代わりにする。これなら一緒に溶けてしまうから、切り取る必要なし。剥離取っ掛かりとしても問題なく機能する。僕はちょっと嬉しくなってしまった。

 クリーニングするのが目的なのか、リ・レコパック液を作るのが目的なのか。手段が目的化することを趣味と言うのであれば、レコパック再利用も立派な趣味となるわけである。

 なーにゆってるンでしょうか。

’08/04/20 (日)

洗車


 冬の間、まともに洗車できなかった我が愛車CYPHAである。雪が多く路面の凍結頻度が高い当地では、道路上に融雪剤、塩化カルシウム(CaCl2)が散布されることしばしばである。早い話が塩の上を走っているようなもので、本来なら速やかに洗車すべきなのである。

 しかし、冬の洗車は、ツライ。車体の下部だけをざっと洗っておく程度でお茶を濁してしまうのだった。春先の黄砂の影響もあって、ボディは一冬分の埃と砂でドロドロである。

 今日は久しぶりに好天で、気温も高く気持ちの良い日だったから、ようやくにして洗車することができた。昨秋口にかけておいたザイモールワックスのおかげで、カーシャンプーだけで充分綺麗になる。やっぱりキレイな車は、ヒジョーに気持ちヨイのである。

 今年の12月が来れば乗り始めから丸6年である。もちろん、乗り換えの予定はない。「ヘンなクルマ」のCYPHAが、気に入っているのダ。このままできるだけ丁寧に乗って、最低10年、できればそれ以上持たせたい。

 2012年以降の後継車は、次世代電気自動車、かな。

’08/04/19 (土)

得したような


 外盤A級セレクション第1集58番収録「Digital Percussion」(米MMG D-MMG105)である。クドいことを承知で同じような写真を4枚並べたのには、理由があるわけだ。

 写真aは、永の探索の末、昨年の秋に国内で発見して買ったものである。もちろん米盤だ。写真cがそのセンターレーベルである。写真bは、つい最近web上の海外ショップで見つけたもの。同じく米盤、ジャケットも全く同一だが、aに比べて多少古ぼけている感じである。

 長岡先生の評には「音よりも音場感、距離感に驚かされる。ホールの床とホールの空気がありありと再現される」とあり、以前からずっと聴いてみたくて仕方ないタイトルだった。それだけに昨秋入手できた時はもう大喜びで、ウキウキしながら再生したのだった。

 ヒジョーにいい音である。先生評の通り音場感抜群、極めてリアルだ。音そのものもたいへん生々しく、ホンモノの打楽器独特の切れと透明感がよく出て、爽快痛快。音像は小さく、定位は明確。実に素晴らしいレコードである。

 んで、最近見つけた盤、これのセンターレーベルが写真dである。cとは色もデザインも違っている。何に由来する差異なのか、僕には分からない。プレス時期の違いか、エディション違いか。

 盤を仔細に調べてみる。外観上の違いはセンターレーベルだけのようだ。厚み硬さは同等。重量を実測したら、aが130g、bは133gだった。3gの差は、バラつきの範囲と言ってよいと思う。

 聴いてみると、音が違うのである。a盤も良かったけれど、b盤はさらに良い。音場感、音像の明確さ、音の切れ、透明感など、多くの点で一枚上手を行く感じである。a盤よりも安かったから、スペアにもう1枚と思って買ったのが、思わぬ幸運だったわけである。何だかとても得をしたような気分だ。

 長岡先生のお手持ち盤は、どっちだったンだろう。

’08/04/18 (金)

ブキミな集団

 17日は、予報通り朝から本降りの雨であった。しかも、寒い。だからヤメます。というわけにも行かず、シクシク泣きながら出かけたのだった。

 「晴れてくれたほうがありがたい」行事とは、毎年恒例の、町内托鉢である。僕はもう20年くらい参加しているけれども、これほどまともに雨に当ったのは初めてではないか。

 網代笠をかぶった上に傘をさして歩くのは如何にも珍妙である。さりとて托鉢時には網代笠をかぶることに決まっている。ので、托鉢専用カッパを着たうえ、傘なしで歩くわけである。

 カッパ、と言っても、レインコートみたいに格好の良いものではない。有体に言えば、テルテルボーズの裾部分、みたいなものである。かなり強引だが、ダースベエダーのマントのような、とも言えなくもない。

 頭に網代笠をかぶり、マックロケのマントを翻し、雨の中を練り歩くワラヂ履き集団。はっきり言って、ブキミである。

 まあしかし、そのブキミなカッパのおかげで、雨中ズブ濡れにもならず無事に歩き終えることができた。道中、本能敵意ムキ出しのイヌに吠え付かれたりしたケレドモ。僕も怖かったが、きっとイヌはもっと怖かったンだな。

 皆さん、お疲れ様でした。

’08/04/17 (木)

「行」と観じて

 本日法務繁忙、公的行事も重なって、お手伝いいただくご同業には随分なご無理をおかけしてしまった。おかげさまで無事完遂できて、感謝申し上げるばかりである。ありがとうございました。

 明日も、今日ほどではないにしろ少々忙しい日になりそうである。晴れてくれたほうが断然ありがたい行事なのだが、どうやら17日は本格的な雨降りになるらしい。弱ったなあ。

 これも大切な「行」と観じて、一心にがんばろう。

’08/04/16 (水)

変遷


 このADを買ったのはずいぶんと昔のことである。記録を見ると1990年8月22日となっているから、もう18年も前になるのだった。ボカァ29歳だったンだな。

 「DRUSCHBA / Der rote Sarafan」(独THOROFON FTH-221)。外盤A級セレクション第3集287番に取り上げられている。バラライカ・クインテット「DRUSCHBA」にバリトンが加わり、ロシア民謡を中心に演奏するレコードである。

 1990年8月当時、まだ箱船は建っていなかった。現在、先代さん夫婦が住んでいる隠居宅の2階、全域ヌケヌケ遮音最低最悪の屋根裏部屋で、D-55を鳴らしていた頃である。カートリッジはMC-L1000、アーム、モーターは今と変わらずEPA-100MkII、SP-10MkIII、プリはPRA-2000ZR、パワーはHMA-9500MkII、というような再生系だったと、思う。

 A級盤だバンザイ、と喜び勇んで聴いてみたら、なーんだかイマイチなのである。音に生気がなく、かすれたような音。長岡先生の評にある「透明度が高く、切れがよく、バランスのよいサウンド」とはずいぶん違って聴こえたのだった。

 それがトラウマみたいになってしまって、その後これを積極的に聴くことはなかった。上手く再生できんのが悔しくてムシする。ズルいのである。部屋を箱船に遷してからも、ほとんど聴くことはなかった。

 最近、ちょっと思い立って何年ぶりかに聴いてみたところが、なかなかによいのである。かすれたような音ではゼンゼンないし、生気もある。先生評どおりの音だ。超Hi-Fiとは少し違うけれど、雰囲気のあるいい録音である。

 馬鹿でスケベでマヌケな僕のやることでも、18年も続けていれば多少なりとも進化はあるらしい。ちょっと安心した。尤も、部屋も装置も大きく変わっているわけだから、音が違うのはアタリマエ。しかし、悪いほうへ変わることもあるわけで、良い方向へ近づいているのは、大いなる救いなのだった。

 もちろん、だからと言って現用システムが最高のもの、などと短絡的不遜な考えは決して持たない。と言うより、持てない。当社比で、18年前よりは向上していることを確認できたに過ぎないのである。

 時の経過とともに、システムも、部屋も、人も変わってゆく。自動的に、音も変わって行くわけで、万人をして納得せしむる絶対最高唯一無二の音、ナドは、存在しないのだろうと思う。

 即今只今ここに在る我が音を愛でつつ、更なる向上を目指したい。

’08/04/15 (火)

儚いものは


 満開から8日、思いのほか永く持った今年の桜も、いよいよ終わりである。今日は絶好天、青空に花吹雪を舞わせる桜は、寂しくも美しい。

 桜は、一般的な家の庭木としてはあまり人気がないそうだ。そういえば、普通のお家の庭に桜を見ることは少ないような気がする。専ら公園、川沿い、お城、神社、寺などに集中しているのである。何故か。

 パッと咲いてパッと散るその姿は潔い。しかし同時に、命の儚さ、不吉を感じさせるとして厭われるのだという。花見花見と浮かれるものの、あっけなく散ってしまうものを身近には置きたくない。なんとも身勝手なものだと思う。

 如何に不吉を嫌おうとも、永遠の命などありはしないのに。生者必滅会者定離。遅かれ早かれ、生あるもの必ず滅し、会えるものは必ず離別せねばならない。儚いのは、桜の花に非ず。我が身そのものなのである。

 だからこそ、今日のこの日を大切にしたいと、散り行く桜に、思う春の日。

’08/04/14 (月)

要するに、ケチ


 ぐるぐるの結果、リ・レコパックがボトル1本分ほど出来上がった。ゴミとして打ち捨てられるはずの剥離皮から、有用なクリーニング液を再生しているわけだから、これも立派なリサイクルだ。と、独り悦に入っているけれども、ちょっと待て。

 僕の日常生活、という極めて限られた環境の範囲で考えれば、確かに高効率リサイクルになっているかもしれない。しかし、もっと視野を広げ、レコパックリサイクルに使う精製水、アルコール、チューシャキ、超音波洗浄機、などの生産コストやそれに伴う二酸化炭素排出量まで考えに入れれば、本当に効率の良いリサイクルかどうか。極めてアヤシイ。100円稼ぐために10,000円の経費をかける、というような無意味なことになっている可能性大である。

 やはりここは、レコパックが市場にないからケチケチ再生産しています、と素直になったほうが健康的なような気がするのだった。

 NAGAOKAさん、お願いですから再販売、してください。

’08/04/13 (日)

ぐるぐる


 まだまだいっぱいある、などとチョーシに乗って使いまくって気がつけば、リ・レコパックも残り僅かになっている。これは遺憾。正規品を補助するものとして、消費を抑えるに極めて重要な役割を果たしているのである。

 例によって超音波洗浄器で、作る。前回作った時、水とアルコールの比率をどのようにしたっけな。全く記憶にございません。ので、その辺はテキトーにやってしまおう。そんなんで大丈夫なのか。ナニ、少々違っていたって命に別状はないのである。

 写真は、溶液をかき混ぜているところである。如何に洗浄槽が高周波振動していても、やはり手で混ぜないとダマダマになってグワイが悪い。皮(乾燥剥離したレコパック)が綺麗に溶け切るまで、ただひたすらぐるぐるぐるぐるぐる。

 これをやっていて思い出したのは、雲水修行時代によく作った胡麻豆腐である。もちろん、雲水はそんなゼイタクなものを食べられるはずもなく、専らお客様ご接待用である。

 胡麻をクリーム状になるまでよく摺る。まずここが第一のぐるぐるである。それを木綿布に包み、上等の昆布で取った出汁に濾し出す。これをやらないと、胡麻の皮が混ざってザラザラした食感になり、ちっとも美味しくないのだ。

 それに吉野葛を加えて火にかける。ここからはゼッタイに焦がさないよう、適当な粘りが出るまでひたすらにかき混ぜるのである。これがタイヘン。ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。焦がしてしまったら、すべて水の泡。ぐるぐるぐる。

 しゃもじで混ぜた時、鍋の底が一瞬見えるくらいの粘りが出たら、バットに流し込んで冷水で冷やす。固まったら適当な大きさに切り、椀に盛り付ける。鮫皮で下ろした本山葵をトッピングし、周囲にたまり醤油をかけまわせば、出来上がり。

 リ・レコパック作りは、胡麻豆腐ほどではないけれど、それなりの手間と根気が要るのだった。

 これも、自作オーディオの一つ、と言えるかしらん。

’08/04/12 (土)

潮時


 「じっくり聴けるのは来週か」と、1日に書いたADである。あの後、レコパックによるクリーニングを2回実施し、腰を据えて聴いてみた。録音、演奏ともに最高である。ピアノとソプラノのデュオだが、実に雰囲気がよく出る。ASTREE独特の厚く脂っこく濃い音と音場である。決して「Hi-Fi録音」とは言えない部分もあるのだが、何とも言えず魅力的な音だ。とても良いレコードです。

 盤そのものには全く問題ない。けれども、積年のしつこい汚れがあるようで、まだややノイズが多い感じである。これを譲ってくれた友達の名誉のために書き添えておきたい。事前に友達から「埃(汚れ)は多いようで、ノイズがやや目立ちます」と、きちんとした説明があったのである。それを僕が了解して譲ってもらったのだから、何ら問題はない。あとは僕の自己責任でクリーニングすればよいだけの話である。

 それなれば、と、さらにレコパックを実施する。3回目でかなり静かになり、4回目でほぼ新盤同等になった。フツーはここで終わる、ところを、馬鹿でスケベな僕は、チョーシに乗ってもう1回。5回目までやってみたのである。

 さすがに変化は少ないだろう、と思ったらさに非ず。さらにSNが良くなり、音、音場そのものまでが鮮明に、美しくなったのである。これにはちょっと驚いた。と同時に、クリーニングの重要さを、改めて思い知ったのだった。

 残量を気にせず、このようにレコパック液をバンバン使えるのは、リ・レコパック液の恩恵である。その製法を詳しく教えてくれたのは、何を隠そう(別に隠さんでもヨイ)、このADを譲ってくれた友達なのだ。何から何までオンブにダッコ、本当にありがとうございます。

 レコパック5回でここまで良くなるのならば、6回目7回目ではどーなるンだろう、という好奇心が湧き上がってくるわけだが。

 何事にも、潮時というものがあることを、知れ。

’08/04/11 (金)

一目惚れ


 MJ誌5月号の表紙を見て、僕はあっと叫んでしまった。なんと斬新なデザインのアンプだろうか。殊に、筐体の中央に配置された銅色に輝く重厚なヒートシンク。ムクマニアの僕としては、もうたまらんのであった。

 このアンプ、何というメーカーの製品なのだろうか。写真からでも分かる造りの良さからして、国産品か。でも、こんなの見たことない。

 「digiTal doMaiN」(ディジタル・ドメイン)という、歴とした国内メーカー製である。会社設立は2007年3月というから、ヒジョーに若いオーディオメーカーである。3月に横浜で開催された「A&Vフェスタ 2008」で発表されていたそうだから、既にご存知の方も多いことだろう。

 写真のアンプはパワーアンプで、型番を「B-1a」という。どこかで聴いたことがあるような。実はこのアンプ、往年の名作「YAMAHA B-1」と同じくSIT(静電誘導トランジスタ・商品名V-FET)を増幅素子に使っているのである。そのB-1を、最新の技術で現代に蘇らせようとしたアンプが、このB-1aであると、MJ誌の特集記事に書いてある。

 電気知識に真っ暗な僕には、SITとはどういうもので、どういう良さがあるのかなど、専門的なことはさっぱり分からない。なんともお恥ずかしいことだが、知ったかぶりをしても仕方がないので、どうかご勘弁ください。

 出力150W+150W、BTL300W。純A級アンプである。寸法は220W×220H×600Dmm、重量40kg。幅が狭く奥行きが深い形状をしているわけで、上の写真ではBTL300Wのモノーラルアンプとしたものを、横に2台連結してある。こういうことが、できるのである。こうなると、純A級300W+300W、重量80kgという、如何にも恐ろしいアンプとなるわけだ。

 このデザインと重量感(実際に、重い)、僕にとっては実に魅力的なパワーアンプである。現時点ではどんな音を出すのか全く分からないし、おいそれと買えるような価格でもない(1台100万円)わけだが、将来の夢としたいアンプであることは、確かである。

 一目見ただけで「欲しいっ」と思ったのは、彼のGT-CD1以来かもしれない。

’08/04/10 (木)

桜は雨を知っている


 雨に打たれる満開の夜桜である。昨日あたりを境に盛りを過ぎ、もう早散り始めている。花の命は短いのである。

 満開のあとは、必ずと言ってよいほど、雨モヨウになるのだった。単なる巡り合わせ、というにはあまりにも高確率である。毎年、僕はフシギに思えて仕方ないのだった。

 ナンデいつもこうなるかなあ、などと首をひねっていて、一つの考えに思い至った。満開になったら雨が降る、のではなくて、花を咲かせて消耗した我が身を潤すため、直後に雨の降る日を狙って満開になっているのではないか、と。桜の樹は、天候の巡りを知っているのではないかと、思うわけである。

 もちろん、ドシロウトの勝手な当て推量である。こうなるのは当地に限ったことかもしれないし、当地でも100%雨が降るとも言えない。けれども、もし桜自身が雨降りのタイミングを図って花を咲かせているとすれば、ちょっとばかり愛しいではありませんか。

 昨日話題にした実家の枝垂桜の隣には、木蓮の古木がある。今も元気で、間もなく大きな白い花を咲かせようとしているところである。

 ずっと昔、僕がまだ実家にいたころのこと。ある晩秋の夕方、僕はすっかり葉が茶色くなったこの木蓮をぼんやり眺めていた。すると突然、すべての葉がハラハラと落ち始め、あっという間に冬枯れ状態になってしまった。風はまったくなかった。恰も樹が身震いし、自ら葉を落として冬支度したようでもあり、実に不思議で神秘的な光景だったことを、今も鮮明に憶えている。

 後になって、出入りの植木職人さんにこの話をしたら、「その通り、自ら葉を落とすんです。但し、その瞬間を見られることは、滅多にありません」ということだった。

 雨を狙うが如く満開になる桜を見て、僕はこの木蓮を思い出している。

’08/04/09 (水)

枝垂桜


 高槻市の実家に急な要件出来、急ぎ駆けつけ助っ人してきた。どうやら無事に終わることができて、やれやれ安心である。

 実家の庭にも桜がある。当地の樹はソメイヨシノだが、アチラは樹齢300年を超える枝垂桜である。正確な品種名は不明。これが咲き始める時期に実家へ行くのは何年ぶりか、たぶん20年以上見ていないと思う。今のところ五分咲きくらい。

 ソメイヨシノに比べると花が小ぶりである。枝垂桜に多く見られる八重ではなく、一重咲き。色は桃の花のような濃い桜色である。枝ぶりは御覧の通り、まさに「枝垂れ」である。

 僕が子供の頃は、樹がもっと大きく枝は地面すれすれまで垂れ、満開になると桜の滝を思わせて実に壮観であった。近年、さすがに年老いたようで少々勢いが弱いのは残念。枝垂桜は長命だと言うが、種によって違いがあるのだろう。衰えたとはいえ、久しぶりに花見ができて僕はとてもうれしかった。

 長生きしてくれることを、切に願うのである。

’08/04/08 (火)

全国行脚 '08


 昨年に続き、今春も超絶ドラマー神保彰さんが、はるばる福知山まで来てくれた。「神保彰ワンマンオーケストラ / ドラムからくり全国行脚 '08」ツアーの一環である。数ヶ月前からチケットを予約し、今年は愚息2号も一緒に3人で聴きに行った。

 午後7時から始まって約2時間半、昨年と同様聴衆360°セッティングで、存分に楽しんできたのだった。何も言うことはない。ただただ、素晴らしい演奏だったと、感激するばかりである。殊に、生まれて初めてプロ(しかも超一流!)の生演奏に至近距離で接した愚息2号は、大いなる感動を得たようだった。

 かなり小規模な箱ということもあり、SRはほんの味付け程度にとどまっている。ドラム本来の生音に極めて近い音が聴けるわけで、これもまた大きな魅力である。音量は相当なものだが、やかましさ、うるささは皆無である。余計な音がなく、あるべき音、出るべき音だけで演奏が構成されている。まさに「ワンマンオーケストラ」である。ドラムが「やかましい」のは、ドラマーがヘボだからなのである。僕が叩くと、異様にやかましいです。

 「来年も来ます」と約束があった。もちろん、聴きに行くのである。

’08/04/07 (月)

満開2008


 予報どおり、6日は前日を上回る好天になった。最高気温21℃。桜は見事に満開である。ヒジョーに綺麗である。が、やはり高齢ソメイヨシノのこととて、年々勢いが衰えていることは確かなようだ。2月に降った重い雪によるダメージも大きい。

 坂を上ったところにある鐘撞堂の脇で、オジサンたちがお花見していた。ナルホド、ここは確かに絶好のお花見ポイントである。ゴチソウいっぱいのお弁当を広げ、一杯飲ってご機嫌だ。なかなかにほほえましい風景である。

 「一緒にどうだ」とありがたいお誘いをいただいたけれども、まだオツトメが終わっていないからと、丁重にご辞退申し上げておいた。僕は知っている。このオジサンたち、ウワバミ揃いなのだ。僕なんかが混ざったら、エラいことに、なるのである。

 明日からの天気は下り坂だという。花見には、最高最適の日だったわけである。

’08/04/06 (日)

七分咲き


 忙中花あり。5日は久しぶりに朝から絶好天で、お昼に向かって気温がぐんぐん上がり、それにつれて桜の花はどんどん開いていゆく。朝の時点で二分、午後1時過ぎには、一気に七分咲きくらいにまで達してしまった。6日も好天と予報されているから、満開になるかもしれない。

 青空に桜。僕の最も好きな風景である。何かしら懐かしいような、ちょっともの悲しいような、けれどもとても幸せな気持ちになるのだった。冬のストレスが、解けて行きます。

 待ちに待った春が、来たのである。

’08/04/05 (土)

得難し、平穏無事

 事務的な業務が一息つけそうになったと思ったら、俄に法務のほうが多忙になってアタフタしている。

 特に良いことがなくとも、平穏無事であればそれがいちばん、というものの、なかなかそうは行かないのが世の中だ。コトが起これば古式によってオツトメせねばならないのが、僕の社会的役割なのである。

 心を籠めて、誠実に。

’08/04/04 (金)

マニアの集団とは

 いささか旧聞になるが、NHK BSで、日本の城を熱く語る、という企画の番組を放送していた。30人ほどのディープな「お城マニア」さんたちが集まり、お城ベストテンを選んだり、ジオラマを使ってヴァーチャル城攻めをしてみたり、難問クイズに答えてみたり。

 「熊本城の別名は何」。コレ、分かる方、いらっしゃいますか。答えは「銀杏城」(ぎんなんじょう)だそうである。加藤清正が、兵糧攻めに備え敷地内に銀杏の生るイチョウの木をたくさん植えさせたことから、そう呼ばれる。そんなこと、ゼンゼン知りませんでした。城マニアではないから、アタリマエなんだな。

 有体に言うと、目の色を変えてお城を熱く語る姿を見て、僕は少々気色悪かった。いや、決してケチをつけたり、揶揄しているのではない。お城マニアに限らず、ディープでコアなマニアの集団とは、大概ブキミなものであろうと、言いたいのである。

 仮に「オーディオを熱く語る」なんてえ番組があったとする。30人のオーディオマニアが寄り集まり、目の色を変えてカルトなクイズに没頭していたら、そりゃあもうお城マニアさん集団以上にブキミ極まりないに違いない。

 僕はオーディオマニアである。けれどもその前に、ごくフツーの常識人であらねば遺憾なあ、などと、番組を見ていて妙なことを考えてしまったのだった。

 今さら何をゆってるンでしょうか。

’08/04/03 (木)

開花


 2日も何やらスッキリしない天候で、イマイチ春らしくならない。けれども、昨日までに比べると多少暖かく、咲こうとして咲けなかった桜がようやく開花を迎えたのである。写真は2日午後6時ごろに撮ったものである。先月31日に予想した日より2日ほど早く、昨年より2日遅い開花となった。

 やっぱり桜の花は、綺麗である。コレを見ずして春を感じることはできない。おそらく、今が最も美しい時なのだろう。満開になってしまったら、あとは散るだけ、なのだから。

 今年も無事に見られたことを、心から喜びたい。

’08/04/02 (水)

新年度

 年度始めの大きな行事が一つ、無事に終わって僕はとても安心している。これも偏に、常に僕の近くにあって、よく補佐してくださる重役お三方のおかげさまである。心から御礼申し上げます。ありがとうございました。

 新しい年度が始まり、愚息ドモはそれぞれ高校2年生、中学3年生になった。どちらもそれなりに進学について深刻になってもらわねば遺憾わけだが、当の本人たちには一向その様子がない。これでいいのか。とリキむのは親ばかり。仕方ないのである。

 オノレが同年代だった頃のことを思ってみれば、大きなことは言えないなあと、遅すぎる反省をしてみたりもする。自分にはできなかったことを、我が子にはヤレという。如何にも都合のよい話だが、おおよそ親というものは、斯く在るものなのだとも、思う。身を以ってしくじりを知っているからこそ、諫言もできるのだ。

 明るい春に向けて、お互いがんばりましょう。

’08/04/01 (火)

来週までお預け


 春本番、の4月である。先月、先々月とひどく体調を崩すことが多かったから、今月はなんとか元気に過ごしたいと願っている。のだが、今日も非常に寒い日で、うっかりすると風邪を惹きそうなグワイである。気をつけねばならない。

 年度末、年度始めで、何かと繁忙なことである。8日ごろまでは公的行事が多く、なかなかゆっくりオーディオできない。それを過ぎれば少々余裕ができるかもしれないから、溜まっているレコードが聴けるだろうと楽しみにしている。

 上の写真は、最新着のA級盤である。「SCHUBERT / Goethe Lieber」(仏ASTREE AS87)。第2集116番収録。これは、僕が見つけて買ったものではなく、関東在住の友達がweb上で発見したものを、厚意によって譲ってくれたものだ。

 先月も書いたけれど、ASTREEはいずれのタイトルも入手困難しかも高価、殊にこのタイトルは稀少なようで、なかなか見つからない。それを譲ってもらえて、僕はもう大喜びである。ありがとうございました。

 じっくり聴けるのは、来週までお預け、かな。