箱船航海日誌 2006年11月

日々雑感、出来事などを思いつきに任せて綴っていこう

過去の日誌コンテンツ

’06/11/30 (木)

工程完了


 11月が終わる今日、山越木工房さんからうれしい知らせがあった。スーパーネッシーMkIIの製作全工程が完了し、あとは塗装を残すのみになったという。写真はその様子である。山越さん、いつもありがとうございます。

 ユニット、リングを取り付けない状態で、重量は140kg以上に達した。内部に20kgの銅板を貼り付けてあるスーパーネッシーでも80kgを少し下回る程度の重さだから、重量付加なしでの140kgは尋常ではない。バーチ材の高比重(0.75)さを思い知らされるのである。しかも今回の材は、バーチの中でも特に目が詰んでいて、+0.1の0.85あったそうだ。ラワンベニヤ(0.4〜0.5)のほぼ倍である。

 箱船への搬入は来月7日〜10日くらいの予定、これはなかなか大変な作業になると思う。担ぎ手を揃えておかねば遺憾。どなたかお願いできませんか。

 その前に、こちらも準備を始めねばなるまい。先ずは現用スーパーネッシーの搬出からである。僕としては両者並べて新旧交代の記念撮影をしたいと、思うがたぶんそれは無理だろう。作業を安全スムースに運ぶためにも、旧は先出ししておくべきである。

 さあ、いよいよだ。

’06/11/29 (水)

苦しい依頼


 ある出版物への原稿依頼があった。一般向けの仏教系月刊誌(と言っても小冊子程度のものだが)である。内容は、仏教教義に沿った法話、のようなものだ。分量は1,600字程度だから、それほど大したことはない。短めの小論文、というくらいである。

 大したことはない、のだが、これが苦労するのである。仏教法話とはいえ、あまり硬すぎては読んでいて面白くないし、かと言って出版物のブランドイメージからしておちゃらけては絶対遺憾。ちょうど好い加減、というところがあるわけだ。僕は馬鹿で単純だから、その力加減に困るのである。

 同誌に他の人(同業である)が書いたものを読んでみる。多くは、何やら高みに止まっていて、上からモノを言うような印象が気に入らない。ユーモアに欠けて取り付きにくい。読んでいてシアワセな気持ちになれないのである。

 こうなると生来のアマノジャクが騒ぎ出し、ついヘラヘラとオチャラケてみたくなるのだった。いつだったか、ヘラヘラしすぎてボツにされたこともあるから、それは遺憾と分かってはいるのだが。

 お釈迦様の教えを端的にいえば、それは真理の追究である。すべての事象をあるがままに受け容れる、ということだけだ。それなのに、多くのボーズの話はやたらと教訓的で抹香臭いのは何故か。斯く言う僕もその類の一人である。こうなる原因は一つ。教義理解度の浅さである。自戒せねばならない。

 というようなことを考えながら、どうにかマジメに1,600字のマス目を埋めた、つもり。ああ苦しかった。掲載に具せるかどうか、あとは先様にお任せしよう。またボツだったりして。

 僕としては、こうして日誌を書いているほうがよほど楽しいのである。

’06/11/28 (火)

ある意味稀少盤


 最近、どういうわけか長岡A級盤を立て続けにゲットでき、大いに喜んでいる。何年かに一度はこういうことがある。これはもうご縁の為せる業、としか言い様がないのである。ありがたいことだ。

 写真のタイトルは、数年前にもあった発見ピーク時に入手したものである。第1集81番「Nicola LeFanu / THE SOME DAY DAWNS」(英Chandos ABR1017)。神戸か大阪の中古店で、たまたま未開封新盤を見つけて買った。新盤でも中古扱いで、ずいぶん安かったと記憶する。比較的入手困難なのだろう、それ以来は店頭では見たことがない。

 大喜びで買って帰ってヴァージンシールを切り、中身を出したところでビックリ仰天。なんとなんと、入っていたのはまったく別のレコードである。モーツァルトのドン・ジョヴァンニだった。開封中古盤なら前オーナーのミスも疑われるが、未開封だから大元レーベルでの手違いだろう。レコード番号は2番違いのABR1015、何かの拍子に取り違えてしまったか。

 その時はなんちゅうことかと腹が立ったが、今ではすっかり思い直し、却って面白い物だと喜んでいる。これも一つのレアもの、エラーレコードとして珍しいし、こうして日誌のネタにもなるわけである。調子よく入手できている時ほど、こういうことがある。好事魔多し、とはこのことだ。

 と、余裕をカマしていられるのも、後日正規盤を入手できたからなのだが。

’06/11/27 (月)

反響大なり


 昨日の日誌に書いた「念珠修繕セット」に関する反響は、思いのほか大きかった。複数のご同業から問い合わせを受けている。意外や意外、閲覧くださっている方の中には、ご同業が多いのだなあ。○○とボーズにはオーディオマニアが多い、というのは、あながちウソでもないのかしら。

 というわけで、セットと紐の入手先を書いておきたい。「念珠修繕セット」は翠松軒で、正絹紐は伊藤組紐店で購入できる。両店とも通販可能である。

 翠松軒web上には「修繕セット」が見えないけれど、問い合わせればまだあると思う。念珠に適している紐は、伊藤組紐店web内「ひも屋のしごと」ページにある「絹江戸打 特細」(直径約1.5mm)という銘柄である。単なる紐としては高価だが、それ以上のクオリティと価値がある。どなたかケーブルに巻いてみませんか。

 昨日の翡翠念珠は修繕完了、写真の如く新品同様となった。見様によっては浅田飴の「クール」である。わさび色の紐も大変結構。うれしくて早速今日の業務に使ってしまった。切れる前に紐を交換かと考えた黒檀念珠(写真手前)は、締めなおせばまだイケそうなことが判明。一旦ほどいて引き締めて、編み直したら全く問題なし。OKである。

 2本続けてアミアミしたおかげで、説明書なしで編めるようになった。これで僕も念珠直しのマイスター、なんてことはゼンゼンないわけだ。今後しばらくこの作業の必要はないから、次の機会にはすっかり忘れ去ってしまうのである。

 次は完全オリジナル念珠に、挑戦してみるかな。

’06/11/26 (日)

念珠修繕


 僕の商売道具、などとフラチなことを言っては遺憾。業務上、欠かすことのできない大切な念珠が、切れてしまった。よくあることだ。殊に写真の念珠は翡翠玉なので、重量があり紐にかかる負担が大きく、切れやすいのである。

 切れた念珠はどうするか。一般的には専門店へ依頼して新品の紐へ交換するわけだ。僕も以前はそうしていた。寺院什物専門通販店で「念珠修繕セット」という便利なモノを見つけてからは、自分で修繕している。これも一種の自作かしらん。

 紐、カッターナイフ、鋏、紐を固めるためのボンド、紐を玉に通すためのジグ、それに紐の通し方、通し終わった後の紐の編み方など、詳しい説明書きがセットになっている。これは、とても重宝する便利グッズである。同業の方々には、是非ともお薦めしたい。

 特にありがたいのは編み方の説明だ。これは極めて難解で、解説なしではゼッタイ不可能だと思う。僕はもう何度もやっているけれど、未だに説明書きと首っ引きでないとできない。文章だけで説明するのも不可能である。写真から想像してみてください。

 このセット唯一の欠点は、付属してある紐が人絹であること。なるほど確かに、人絹は切れにくいし、何より安価というメリットはある。しかし、滑りやすく腰がなく、妙な弾力と伸縮性があり、念珠用途としては不向きである。やはり念珠には正絹紐が最適だ。

 そこで、京都市にある紐の専門店で「江戸打特細」という正絹紐を仕入れて使ったところ、これがなんともグワイが好い。2年前に修繕した黒檀念珠には「金茶」の紐を使った。今回は玉の翠色にあわせ、「わさび」を使ってみたが、うむ。なかなかヨロシイ。

 黒檀念珠の紐も、そろそろ替え時かもしれない。

’06/11/25 (土)

ハードな週末


 今日は、図らずも業務多重ブッキングの日になってしまった。まあ、こんなことは僕の業務上珍しくはないわけで、これまでにも何度もあったことである。ただ、タイムテーブルを組み直すのには苦慮するのだった。関係者皆さんの譲り合いに助けられ、無事完遂することができた。ありがたいことである。

 ドトウのような予定をこなし、ヤレヤレと安心したら、ドッと疲れが出てグニャグニャである。今夜はもうオーディオする元気もなく、明日のために僕は寝ます。

 ハードな週末に、なりました。

’06/11/24 (金)

雪準備


 一昨日あたりからモデムの調子が非常に悪く、接続障害が頻発して困っている。更新遅れ、申しわけございません。早く光ファイバーが来ないかと心待ちにしているが、当地はまだまだ先になる様子だ。仕方ないのである。

 さて、朝の気温は10℃を下回り、日中も15℃に届かない。随分寒くなってきた。冬の入口である。ああ、イヤダイヤダ。

 ご覧のモノは何かお分かりだろうか。道の端々に立てられた赤白模様のポール。高さは2mくらい、ガードレールに一定の間隔をおいてくくりつけてある。雪が積もる地方の方なら「ああ、アレか」と分かっていただけるはずだ。

 積雪時、雪に埋もれたガードレールの在り処を示すためのポールなのである。たぶん正式名称があるのだろうけれど、僕は知らない。こうしておかないと、除雪作業時にグワイが悪いわけだ。除雪車がガーレールを巻き込みひどく傷めてしまったり、悪くすれば大きな事故にもなる。

 写真は国道で撮ったものである。幅の狭い町道や私道にも、このポールは立っていて、曲がり角、道と側溝の境い目、橋のたもとなど、微妙な場所を示す指標になっている。除雪車のため、加えてフツーに通行する人のためでもあるわけだ。

 雪とは誠に厄介なもので、こうした工夫をしても、大雪が降ればガードレールは傷むし車は溝にハマるし人は川に落ちるのである。昨年の初雪は12月5日、そのあとは近年にない大雪を見た。今年はどうなるのか、お手柔らかにお願いしたいところである。

 カメムシ予告では、少雪のはず、なのだが。

’06/11/23 (木)

蛍光管から白熱球へ


 箱船入口の外灯蛍光管がチカチカし始めた。寿命である。差し替えねばならない。使用管はご覧の通り、「FDL13EX-N」という、カートリッジタイプのものである。13W昼白色。点灯管もマックロケだったから、同時に交換した。新しい管はメチャクチャに明るく、ビックリするくらいだ。

 箱船完成から13年、今回の交換は2回目、3本目の管になる。前回が何時だったか定かではないけれど、1本あたりの寿命は平均して6.5年である。これはもう恐ろしいばかりの長寿命と言える。@1,100円、超ハイCPである。

 しかし、これを上回る超長寿命の管、ではなくて球がある。階段室の白熱球である。13年間無交換。未だ切れたことがない。ナ○ョナル・パナボール60W球。昔ながらのナス型球に比べて長寿命、の看板に偽りなし。外灯に比べて点灯時間が短いとは言え、白熱球である。ON-OFFの頻度は外灯より高い使用環境で、この寿命は驚異的である。

 最近、パナボールを越える長寿命白熱球が発売されたと聞く。どれほど保つのか、考えるだに恐ろしい。断線球の廃棄量が減り、環境汚染を抑えることができるのは大変結構、だが、売る側としてはどうなのだろう。寿命が延びる、っちゅうことは新しい球の売れ行きが落ちる、ちゅうことではないのか。それくらいは九牛の一毛なのか、或いは環境問題を疎かにしないという、コーポレーションイメージのほうが重要か。

 一昔前まで、照明管球の寿命は蛍光管圧倒的有利とされたものだが、今やそれは幻想になりつつあるようだ。白熱球の光は色温度が低く、目に優しいとも言う。デメリットは消費電力と発熱量の多さ、だが、それもいずれは克服されるかもしれない。

 僕が幼少の頃、家の照明はほとんどが白熱球だった。赤くて暗くて、何だか物悲しく、しかしどこか懐かしい光の色。蛍光灯に変わった時、その冴えざえとした明るさに驚いたのをはっきり憶えている。

 1階の照明は、8年ほど前から白熱球である。細かな作業をするには少々暗いが、音楽を聴くにはほどよい明るさだと思う。お客様からも概ね好評をいただいている。そもそもは長岡先生の「SNがぐんと良くなるから、是非替えてごらんなさい」という薦めで導入したものなのだが。

 時代は一回りして、再び白熱球へ。

’06/11/22 (水)

ひっそりと、紅葉


 例年よりもやや遅めの紅葉である。所用あって村内にある兼務寺へ行ってみれば、境内のカエデはすっかり色付き、なかなかの景色だった。11月の後半に入り、ようやく朝晩の温度差が大きくなった所為である。ただ、日照が少なく、色の冴えがイマイチなのはちょっと残念。それでもここ数年では美しいほうだ。

 「雲岩寺」(うんがんじ)と号するこの寺の境内、春は桜とコブシが咲き、それに加えて特に見事なのはヤマツツジである。寺を抱える山全体が、薄紫色のベールをかぶったようになる様は、一見の価値あり。4月中旬には「雲岩つつじ祭り」という、村を挙げてのイベントが催され、大いに賑わうのだった。与謝野町webページにも案内が載るので、来春は是非お出かけください。

 秋の紅葉は、山中の寺にあってひっそりとしている。時々僕や、近在の人が訪れるのみである。ちょっと勿体無いような気もするけれど、これはこれでよいのかも知れない。知る人ぞ知る紅葉の穴場として、ここにあれば。

 今月いっぱいくらいが見頃である。もしよろしければ、是非。

’06/11/21 (火)

人形の妖精たち


 間もなくスピーカーが入れ替わる、ということで、昔買って永く聴いていないADをせっせと聴いている。スーパーネッシーで一度も鳴らしていないヤツも、たくさんあるのだった。

 上のタイトルもそのうちの1枚である。「Josef Bayer / DIE PUPPENFEE / Staatsphilharmonie Rheinland-Pfalz / Kurt Eichhorn」(独eurodisc 203 387-425)。(C)(P)表記なし、1981年の録音である。

 自分で買っておきながら、僕はJosef Bayerという作曲家のことをよく知らない。ので、調べてみた。

 ヨーゼフ・バイヤー。1852年5月6日オーストリア・ウィーン生、1913年5月12日ウィーンで没。61歳。オーストリアのバレエ作曲家である。1883年〜1913年までオーストリア帝国宮廷オペラの楽長、1885年からは宮廷バレエの楽長も兼任した。

 上のレコードは、その代表作バレエ曲「人形の妖精たち」である。1989年11月購入。バイヤーについても曲のことも、何も知らないクセにナンデ僕はこのレコードを買ったのか。

 ジャケットがチープでブキミ、しかもヒジョーに安かったから。ちゃんとした新盤で、500円くらいだったと思う。ナマイキにも逆目を狙ったわけである。

 繊細で歪みが少なく、切れもあるいい録音だった。ちょっとハイ上がり、と言うか低音不足気味なのが玉に瑕。曲も明るく僕好みで、これはお買い得と喜んだものだった。後年、長岡先生の「外盤ジャーナル」(だったと思う)にも取り上げられ、比較的高い評価を受けている。逆目狙いも時には当るのである。

 '89年頃というと、もちろん箱船以前である。システムはD-55をHMA-9500IIとPRA-2000ZRで鳴らす、極めてエキセントリックなものだった。現在とは全く違うわけだ。

 今、久しぶりに聴いてみる。繊細感は大幅向上、切れと透明感も良くなり、低音不足もさほど気にならない。トライアングルが広い空間に小さくチャーミングに定位して気持ち良い。17年間の悪戦苦闘は、無駄ではなかったと、妙なところで安心してしまうのだった。

 他にもあるンだろうな、こういうレコードが。

’06/11/20 (月)

ジャケット買いは危険です


 写真のADを買ったのは12年前、1994年12月である。大阪の中古ショップで仏CALIOPEレーベルの入ったラックをかき回しているうちに見つけたものだ。

 「オヲッ、このジャケットはA級セレクションに載ってたヤツだ」。ちゃんと内容を確かめもせず「1タイトルゲット!」と大喜びで買って帰ったわけだが。

 もうこの話のオチは見えたことだと思う。確かにレーベルとジャケットディザインは、第2集121番に取り上げられているタイトルと同じである。さらに言えば、同じシリーズ同じ演奏者だ。肝心の、内容(当然レコード番号も)が違っているのである。A級盤はCAL1901、これはCAL1914。同一シリーズのVol.1とVol.14なのである。

 それに気がついてガッカリ、ヤヤコシいディザインはよしてくれと、言っても仕方がない。ちゃんと調べていない自分がマヌケなのだ。CALIOPEの「ルネッサンスのフランス・オルガン曲」シリーズは、全て同一ディザインなのである。

 A級からは外れていても、これはこれでいいレコードだと思う。後年手に入ったCAL1901と比べると、音場の広さ透明感、音色の多彩さ演奏の良さ、などでは一歩(半歩かな?)後退するものの、曲間に小鳥のさえずりや自然な外来ノイズが聴こえたりして、非常にリアルで自然な録音である。無味乾燥なスタジオ録音とは、一味も二味も違う。

 もう1枚、Vol.18(CAL1918)もある。これもなかなか良い。シリーズが幾つまであるのか、不勉強で僕は知らない。できれば全部揃えたいと思うけれども、今となっては不可能に近いだろうなあ。

 「このジャケットだっ!」と飛びついて外したA級盤、これだけではアリマセン。

’06/11/19 (日)

おめでとう


 ご縁あるお寺の若い和尚さんが、ご結婚なさった。式と披露宴はすでに済まされ、今日は地元でのお披露目会である。小規模ながら心のこもったおもてなしに、僕は感激してしまった。普段、業務上では悲しい場面に遭遇することが多いわけで、当たり前だが、やはり慶事は良いものである。

 新郎のお父上は1946年(昭和21)生まれでいらっしゃる。僕は1961年(昭和36)生まれ、新郎は1976年(昭和51)生まれで、ついでにウチの愚息1号は1991年(平成3)生まれである。父上から愚息1号までが、見事に15年おきに並んでいる。もちろん全くの偶然だが、これはなかなか面白い現象である。

 僕はお父上と新郎のお姿に、15年後の自分と愚息を見る。このような慶事が実現しているとは限らないけれど、歳だけはまちがいなく60歳と30歳になるわけだ。翻ってこの15年を顧れば、それはまさに夢の如く過ぎ去ってしまった感が強い。そう考えて行くと、人生とは誠に短いものであることに思いが至るのだった。

 「人生とは、円錐状の螺旋階段を昇り行くようなもの」と言った人がいるそうだ。若い頃の階段は、半径が大きくなかなか進めないが、昇るにつれて半径が小さくなり進みがどんどん速くなる。円錐の半径高さは人それぞれ、しかしおしなべて歳を取るほど時間が速く感じられるのは、こういう理屈だと。

 なるほどと、思う。物理的には15歳にも30歳にも45歳にも60歳にも、1年は1年、365日である。しかし、歳を取れば取るほど、一刻一刻を大切に過すべきなのかもしれない。新しい生活を始める若い二人にも、時を慈しみながら幸せに暮らして欲しいと、願わずにはいられないのだった。

 幾久しく、お幸せに。

’06/11/18 (土)

クリーニングを愉しむ


 「Kontrabass-Konzerte / Ludwig Streicher」(独TELEFUNKEN 6.42045AW)である。(P)1976。外盤A級セレクション第1集29番収録。

 ジャケット、盤とも、程度で言うなら「G-」から「P+」くらい、それでいて価格はやや高め、だったが、入手困難盤となればぜいたくは言っていられない。第1集に紹介された当時、既に廃盤だったわけだから、今となっては中古でしか入手できないのは当然だ。後年、再発があったかどうか、僕は寡聞にして不知である。不勉強、お恥ずかしく。

 ダスパーによるクリーニングだけで針を落としてみると、スクラッチノイズが相当ひどい。このタイトルはA面よりもB面が面白いのだが、そのB面のほうにノイズが多いのだった。ここは何とか改善したい。

 細かなキズに由来するもの、と言うよりは、どうも汚れによるノイズのように聴こえる。見た目、ひどく汚れているようではない。溝の奥に潜んだ何かがあるのだろうと見て、ここは例によってレコパックでクリーニングを試みることにした。

 1回目のパックでかなり改善され、ずいぶんと静かになった。しかし、まだ汚れが残っている感じ。B面を一通り聴いたあと、2回目のパック実施。さらに静かになる。フツーならここでヤメる、ところをもう1回。3回のパックで新盤に近いSNの良さが出てくる。これなら文句なし、だが、調子に乗ってさらに1回、4回目までやってみた。

 ヒジョーに静かである。キズによるノイズは仕方がないものの、汚れはほぼ完璧に除去できたようだ。尤も、3回目と4回目の差は小さく、汚れの多い盤では3回、通常は1回で充分だと感じた。

 まったく針を通さずにパックするよりも、多少のノイズを我慢してでも一通り聴いてから実施するほうが、クリーニング効果は高いように感じられた。セルフクリーニングとも言うべきか、針が古い汚れを掘り起こすのだろう。その上からさらに針を通せば、掘り起こした粉塵を巻き込み盤と針を傷めるから要注意。「掘り起こす」+「パック」を1セットとしてのクリーニングが望ましいようである。

 程度が良くないと思われた盤が、クリーニングで新盤同様になるのはとても愉快である。手間をかけ、静かで良い音を実現する。これもまた、AD再生が楽しいところの一つだと、僕は思う。

 レコパックさまさま、だが、いつまで保つか。

’06/11/17 (金)

創立記念日


 11月17日は、箱船創立(?)記念日である。工事完了は1993年11月16日、正式完成引渡しが17日だった。今日でちょうど13年経ったことになる。愚息2号と同じ歳である。

 本家方舟の完成は1987年8月31日、長岡先生が亡くなったのは2000年5月29日、してみると先生が方舟を運用されたのは、13年に満たなかったことになるわけだ。音と格は別にして、運用期間のみ箱船は方舟を越えてしまったのである。

 僕が先生に初めてお目にかかったのは1989年7月、お付き合いはまさに方舟とともにあったと言える。ずいぶん永くご縁を持てたと感じる一方で、たった13年だったのか、とも、思う。

 箱船が完成してから先生が亡くなるまで6年半、それから今に至る間も同じく6年半。何だか不思議な感じである。前半はとても長く、後半はおそろしく速く過ぎ去ってしまったようだ。やはり先生のご逝去は、極めて大きな節目になっているのである。

 あと何年箱船を使うことができるのか、それは誰にもわからない。大きな災害がない限り、建物は僕より長持ちするだろう。もし、僕が先生と同じ年齢まで生きながらえるとすると、あと27年と少し。都合40年に渡る計算になる。そこまで使えりゃ元も取れるというものだ。が、73歳まで元気でいられる自信は、まったくないのである。

 ともかくも箱船は14年目の航海に入る。その初頭にスーパーネッシーMkIIを導入できるのも、何かの縁である。今後は運用年数だけでなく、実質の点でも本家方舟を超えることを夢として、さらにオーディオを楽しんで行きたいと考えるのである。

 「夢は必ず実現するものである。ただし時間がかかる」

’06/11/16 (木)

熱望復刊


 ふと思い立ち、長岡先生の著書を検索してみた。結果はなんと、「世界でただひとつ自分だけの手作りスピーカーをつくる」(講談社ソフィアブックス刊 ISBN4-06-269080-2)ただ1冊を除き、他は全て絶版、或いは品切れ重版未定(実質絶版)で入手不可能である。驚くやら悲しいやら。

 共同通信社刊FM選書5部作「外盤A級セレクション1・2・3」「オーディオクリニック」「オーディオA級ライセンス」、僕の中では最高傑作「スーパーAV」、音楽之友社刊「いい加減にします」全巻、「レコード漫談」「日本オーディオ史」「図面集」シリーズ、その他ムック本も含めてぜーんぶダメ。最近出たばっかりのように思っていた「喝!」も絶版である。

 出版業界は今、空前の不況に喘いでいると仄聞する。本が売れないのである。そんな状況下で、長岡先生の著書すべてを復刊させるなどということは、まず不可能なのだろう。如何にファンが多いとは言えども、1冊あたり何万部のベストセラーになるはずもない。

 チマタにはどーでもいいような芸能人(否、テレビ人)が、どーでもいいような話をゴーストライターに書かせた、どーでもいいような本が溢れ、それがまたそれなりに売れるという。本人さん達はすっかり作家気取である。アホか。

 ファストフードならぬファストブックである。ジャンクブックと言ってもよい。こんなものを出版するくらいなら、もっと有用な本をどんどん復刊しろと、言いたくなるが仕方ない。売れることだけが、最上第一の目的なのだから。

 それにしても入手可能の著書が1冊のみとは、あまりにも寂しい。全部とまでは言わないから一部だけでも、どうにかならないものだろうか。特に「長岡鉄男の傑作スピーカー工作 BOOK1〜10」。作例は古くユニットはほとんど旧型だが、ヒントと示唆に富んだ名著である。ビギナー、ベテランを問わずオリジナルスピーカーを作るに絶好の参考書となる本だ。音楽之友社さん、是非とも復刊して下さい。

 長岡先生が亡くなって6年半。遺産を失うには早過ぎるのである。

’06/11/15 (水)

マテリアル


 スピーカーエンクロジャーの素材には何が適しているのか、諸説あってなかなかに難しいのである。一昔前までは、市販品といえば専らパーチクルボード、今は箱の響きを大切にする考え方が主流らしく、針葉樹系MDF(中密度ファイバーボード)や天然木材を使ったものも多い。

 自作スピーカー用の素材として君臨してきたのは、入手し易く安価なラワンベニヤ、ちょっと奢ってシナベニヤ、というところ。箱船のスピーカーは、全てシナベニヤ製である。これを音響的にこだわってデラックス化したものが、シナアピトン合板。軟らかくしなやかなシナ材と、硬く重く目の詰んだアピトン材を、交互に積層した合板である。

 かなり高価だが、それだけのことはある。ウチにはそれで作られたスーパーレアESがあり、異様に重く鳴きが少ないエンクロージャーは、余分な音が少なく極めて優秀である。

 但し、箱にこだわる人の中には「どんな材を持ってきても、木ではダメ」という向きもある。材木臭い音になる、というわけだ。石を使ったり、厚手のガラスを使ったり、金属板を使ったり、より重く剛性の高い素材にこだわる。しかしこれもまた固有の鳴きが耳に付くという人もいて、いよいよ以って話はヤヤコシくなるのだった。

 スーパーネッシーMkIIは、全バーチ製である。これまた賛否両論あり。重く硬い材のメリットで、立ち上がりが良く力のある音が出るという人、硬すぎて何を鳴らしても音が甲高くなるという人。どちらが正鵠を得ているのか、たぶん両者正解なのだ。

 僕としては、本家方舟のネッシーMkIII、現用バーチラックに新調した時の音の変化、バーチシェルドラムの音、などを聴く限りに於いて、甲高い音の印象は持っていない。しなやか柔らか系ではないけれど、ゴツゴツしてソリッドな男性的サウンドが実現できるのはないかと、予想しているのだが、これはまあ聴いてみないとわからないのである。

 同じバーチを使うにしても、厚みをどれくらいに取るかで随分と変ってくるはずだ。闇雲に厚くすれば良いものでもないだろうが、少々の無駄は承知で厚めに使ったほうが良い結果を得られそうに感じている。硬い材を厚く使うと、余分な振動を溜め込むコンデンサーになるから最低だ、という説もある。

 どのような素材を使おうとも、完成当初はカンカンしたり鈍重だったり、ボコボコゆったり余分な音が出まくったりするのがスピーカーである。肝心なのは、エージングだ。ちょっと聴いて分かったようなことを言うのは簡単。即断せず、長い時間をかけて取り組んで行くべきものなのである。

 エージングの行き届いたバーチエンクロジャー。楽しみである。

’06/11/14 (火)

落葉


 オーディオに呆けるのも結構だが、本業を疎かにはできない。今、石段の桜並木は落葉真っ盛りで、ちょっと掃除を怠けるとそこらじゅう葉っぱだらけである。ほっときゃそのうち腐って土になる、のは自然の成り行きだが、そうは行かない。葉が落ちれば、職分として掃き清めねば遺憾のである。

 町道から境内まで、L字型に約30mほどある石段を上から下まで掃き終れば、起点にはまた落葉である。しかし不思議なもので、掃いた直後に落ちた葉は、それなりに絵になるから面白い。ここ数日の冷え込みで、とてもきれいな赤に染まった葉が一枚。秋である。

 樹上はまだまだ散りきらない。ここしばらくは、落葉との競争が続くのである。春の花を楽しみに、秋の終りは掃除専一。

 桜が裸になれば、いよいよ冬到来である。

’06/11/13 (月)

プロの仕業


 スーパーネッシーMkIIのフロントバッフル裏表の様子である。板厚分、18mmの段差をつけて、下方へ行くにつれユニットが前へ出るレイアウトになっている。

 写真のように組み上がってしまえば、どうと言うこともないように見えるわけだが、よく考えれば板の切り抜きはヒジョーにヤヤコシイことになるのである。単純に板を3枚重ねるだけなら簡単、しかし段差がついているから始末が悪い。二次元図面から三次元構造をイメージするのがヒジョーにニガテな僕が工作すれば、切り抜き方は間違えるわ位置はズレるわで、ムチャクチャになっていたことだろう。

 空間認識能力が低い、否、無いと言っても過言ではない。方向オンチも整理下手も、この所為である。「この展開図からできる立体はどれか。次の中から選べ」。学生時代、最も弱った数学問題である。闇雲に選んでたまたま正解したことはあったが、理論的に理解して正解したことは、たぶん一度もないと思う。あとで解説してもらえば、解るンだけどなあ。

 そんなヤツがスピーカーを作れるのか。作れるからフシギである。但し、勘の良い人に比べれば、作業速度は著しく遅い。部材を一つ一つ確認しながら、ゆっくり進めないと必ずしくじるのである。初めて作ったD-70、同じ工程を何度やり直したかわからない。現用のリヤスピーカー、左右対称に作るにアタマがネジれそうになった。

 今回は腕の確かなプロによる製作だから、僕がやるようなマヌケなしくじりとは全く無縁である。尤も、設計当初から製作依頼することを頭に置いていたわけで、でなければ斯くもヤヤコシイ構造には設計できなかったのである。

 山越木工房さんには、大感謝。

’06/11/12 (日)

初めての欧州系D2D


 このタイトルもまた、長く探して見つからなかったものである。「MOZART / CONCERTO POUR FLUTE ET HARPE」(仏APPROCHE AP 009)。(P)1979。仏盤としては珍しいD2D、45回転盤である。外盤A級セレクション第1集32番収録。

 APPROCHE(アプロッシュ)は、仏CALIOPEが原音再生にこだわって立ち上げたレーベルである。ただし、長続きはせず、9タイトル程度のリリースで終わってしまったようだ。名前だけは今も「CALIOPE/APPROCHE」として残っているようではある。英語で言えば「APPROACH」、アプローチである。原音に「近づく」、或いは、原音再生を「研究する」などの意味合いを持たせているのだろう。

 これまでに僕が入手してきたD2D盤は、ほんの少し日本盤が含まれるくらいで、ほとんどが米レーベルのものである。欧州系レーベルのD2Dがこれが初めて。どんな音なのか、ヒジョーに興味深く聴いてみた。

 長岡先生の評価にもあるとおり、とても明るく柔らかい音である。けれども軽薄さはなく、力と浸透力に富んでいる。ダイレクト45回転の威力か。ややハイ上がり(と言うよりも低音不足か)だが、余韻と響きが美しく、原音再生へのこだわりは、決して的を外していないと感じた。

 「名録音なのか、迷録音なのか判断に苦しむところ」と先生はおっしゃるが、僕には「名録音」と感じられた。これほど明るく清澄で、しかも力のある音には、滅多に出会えないのである。米レーベルD2Dにありがちな、デッドでドライな印象はなったくなく、どこかフランスのお国柄のようなものが匂ってくるのは面白い。

 両面の収録時間を合わせても25分50秒と、あっという間に聴き終わってしまうレコードである。しかし、僕にとっては極めて価値が高い。手に入って大喜びである。

 ジャケットは鮮やかなオレンジ色。こういう色だったとは、ちょっと意外でした。

’06/11/11 (土)

求道者


 1年半ぶりにSY-99さんがお出かけくださった。いつもながら、ご遠方をありがとうございます。

 今回も、新しい録音の数々を携えられてのご来訪だが、これまでとは大きな変化があった。写真に見えるとおり、SONY PCM-D1の導入である。

 この機器を使った録音は、既にいくつか聴かせてもらっている。ただし、48kHz/24bitフォーマットでDVD-Vに落としたものだった。それはそれで大変優れた録音である。今回は96kHz/24bitリニアPCMフォーマット、オリジナルマスターそのままの音を、聴かせてもらったのである。

 PCM-D1の光D/OからDP-85のD/Iへつなぐ。DP-85をDACとして鳴らすわけである。箱船への道中で録音してこられた日本海の波、八ヶ岳の夏鳥、モータースポーツ、花火などなど、たくさんの音源を聴いた。

 やはり96kHz/24bitのメリットは極めて大きいと感じた。何を聴いても音像は小さく引き締まり、音場は驚くほど広い。音像の輪郭に滲みがなく、しかしアニメ的強調感がないからリアルそのもの。音色には艶と瑞々しさがあり、突っ張ったところがない。微小信号の再現性が極めて高く、はるか彼方から聴こえてくるキツツキのドラミングにもしっかりと質感が出る。これは凄い録音だ。

 中でも白眉だったのが、自衛隊総合演習における戦車砲の射撃音である。SY-99さんご本人も含め、この音にはこれまで多くの人が挑戦してきた。お粗末ながら僕も録音したことがある。録音対象中、超難物音源と言ってよいと思う。

 昨日聴いた録音は、これまでで最高である。立ち上がりが恐ろしく速く、しかも歪み感皆無。従来、どうやっても頭が潰れ、生音の速さと重量感が著しく殺がれたものだが、それがない。重たい砲弾を大量火薬のバクハツで遠くへぶっ飛ばす、という、いわゆるホンモノの「射撃音」が聴けるのだった。

 かすかな音から超大レベルの音まで、極めて鮮明に録音できている。本質的なDレンジが広いのである。96kHz/24bitの器の大きさはもちろん、SY-99さんの腕の確かさも、思い知らされるのだった。

 誤解のないように申し上げておきたい。SY-99さんは、一般性のない音源ばかりを狙う異様なマニアでは、決してない。一連の録音は、彼の挑戦、或いは現在のオーディオに対する問題提起なのである。

 今、プロアマの垣根を越えて広い帯域とDレンジを確保できる録音環境が実現されている。それを十全に活かし切った音源が、この世にどれほど存在するのだろうか。本物のオーディオ、真のステレオとはナンゾヤ。SY-99さんは、自身の録音を通して、それを提示し続ける挑戦者であり求道者なのである。

 今後のご活躍、大いにご期待申し上げております。

’06/11/10 (金)

完成近し


 スーパーネッシーMkIIの製作をお願いしている山越木工房さんから、製作進捗状況のご連絡をいただいた。いよいよ完成に近づいているのである。山越さん、ありがとうございます。

 写真は現時点の様子である。本体ベース部と第2パイプは既に組み上がり、ほぼ全容が見えてきた感じだ。側板は緩やかなRを描き、階段状バッフルもバッチリ決まっている。第2パイプの板厚と補強のゴツさにちょっとビックリ。15mm厚シナベニヤ1枚の現用スーパーネッシーとは格が違う。もちろんコーナーはR付き。山越木工房さんの独擅場である。

 二次元図面ではなく、写真とは言えこうして三次元に起したものを見ると、えもいわれぬ感情が湧き上がってくるのだった。まさに「オーディオマニアの血が騒ぐ」のである。こんな気分は何時ぶりだろうか。

 これにトップパイプが着き、細部に少々の化粧が入り塗装が完了すれば、現用とは月とスッポンほど差のある美しいエンクロージャーが完成するだろう。音はどうなるかまったく未知だが、ルックス抜群最高に仕上がることだけは間違いなし。スピーカーは顔が命です。現物が到着したら、毎日抱いて寝たくなるのだろうなあ。

 言葉にできないほど、楽しみである。

’06/11/09 (木)

撮ったどー


 7月に撮り逃して以来、これまでに何度姿を見たろうか。その度寸前のところで逃げられ、近頃は「こうなったら絶対に撮ってやる」と、執念にも似たような気持ちでいたわけだが。

 ついに撮った。昨晩のことである。箱船階段室の窓から、柿の木の根元を耕す猪の勇姿である。オリジナル画像からは、かなりの補正をかけてあるので、色バランスの悪さとピンボケグワイはお許し願いたい。

 体長は1.2mくらい。夏に見たヤツとは別個体のようで、すこし小柄である。雌雄の判別は、できない。どうしたことか、窓のサッシを開ける音にも、カメラのストロボにもまったく動じず、一心に地面を掘り返している。ゼンゼン逃げないのである。何故だろう。

 何枚か撮り終わって様子を窺ってみた。なにやら動きが鈍い。どうやら大きな怪我をしているようで、右前足がプラプラである。おそらく山中に仕掛けられた罠にかかったのだろう。トラバサミだと思われる。反応が鈍いのは、健康体ではないからだ。

 トラバサミは罠の中では最もタチが悪い。イタチなどの小動物には効果的(絶命させるという点で)だが、鹿や猪、熊などの大型動物の捕獲には殆ど無効である。徒に怪我をさせ、苦痛を与えるだけだ。以前、ウチの裏庭にはトラバサミにやられてちぎれた猪の前足が落ちていたことがある。悲惨である。尤も、苦痛を与えることこそが目的だという説も、あるわけだが。

 この頃毎晩のように出没する写真の猪、怪我の所為で山中ではまともに食べて行けないのだ。手負いの獣に、自然は冷酷である。今後も足繁く出てくるに違いない。特に悪さをするわけでなし(所構わず耕してくれるのには少々困るが)、ウチの庭が彼(彼女?)の命をつなぐに役立つのならば、それはそれで結構なことだと、思う。

 過酷な山の冬を、越すことができるだろうか。

’06/11/08 (水)

寒いの嫌い


 一昨日までは、とても11月とは思えぬほどの暖かな晩秋だった。こりゃまた突然寒くなるンだろうなと、身構えていたら案の定。昨日からイキナリ初冬の様相である。

 今日はご覧の通りの良いお天気だったが、北風が冷たく気温はさほど上がらない。箱船の窓から見える小学校のイチョウは、エラいこっちゃと大急ぎで黄葉を始めた。北海道では大きな竜巻が発生して酷い被害が出ているし、もう少し「好い加減」に季節が遷ってもらわんことには遺憾のである。

 箱船は1階2階とも、夜はファンヒーターを焚き始めた。空調不要SN良好の季節が、終わったのである。静かだが寒いのと、暖かいがウルサイのと、アナタならどちらを取るか。僕は寒さがニガテな軟弱マニアだから、有無なく後者を取るのである。

 今年もまた、来年の4月までの、ながーい冬が始まってしまった。

’06/11/07 (火)

T-925Aその後


 先月24日に書いたT-925A、無事友達のシステムに組み込まれたようだ。その様子を写真で知らせてくれた。ありがとうございます。

 ご覧のとおり、つなぐ相手はスーパーレア、ユニットはFE-168SSである。詳しくは書けないけれど、このスーパーレアは由緒正しい個体なのである。僕も実際に聴いたことがある。裁断、工作とも精度が高く、非常にいい音で鳴るのだ。

 T-925Aは、スーパートゥイーターとしては大型重量級である。10cmクラスユニットを使ったシステムに組み合わせるには、ちょっと大きすぎる感じ。しかし、こうしてスーパーレアに載っている姿は、バランスが良くてなかなかカッコイイ。

 「T-925Aのマイナスキャラクターは殆ど気にならず、違和感なくスムースにつながっている。聴感上の情報量が増し音場感は向上、音楽が生き生きと鳴る。コンデンサー0.47μFはほぼOKだが、わずかにハイ上がりで、今後は0.33μFも試してみたい」。友達のファーストイムプレッションである。

 僕としては大喜びである。ウチでアクビしていたT-925Aに、活躍の場を与えてくれた友達には大感謝。今後もバリバリ鳴らしてもらい、だんだん目が醒めてさらに良くなって行くことを期待したい。そう考えれば、コンデンサーの定数は当初に限り大きめのほうが良いのかもしれない。

 写真を見ただけでも、良い音で鳴っているのがわかるのは、何故か。不思議とそういうことは、一見するだけで伝わってくるのである。友達は、オーディオのことをよく知るベテランマニアである。何気ない使いこなしにも、彼の経験やノウハウが反映されているのだろう。さすがである。

 僕も斯くありたいと、思う。

’06/11/06 (月)

日誌6年


 「箱船航海日誌」を書き始めて6年が経った。第1回目、2000年11月6日は今日と同じ月曜日で、曜日が一回りしたわけである。

 何事にもこらえ性がなく、すぐに中途で投げてしまう僕が、ここまで続けてこられたのは、言うまでもなくご閲覧くださっている方々からのお力をいただけてこそ。まったく以っておかげさまである。心から御礼申し上げたい。ありがとうございます。

 その時話題に取り上げたヤマハのフォノEQ、HX-10000は、今も元気に働いている。サブADシステムにつながっているから使用頻度はやや低いものの、独特の馬力と厚みのある音は、不世出スーパーフォノEQの名に恥じないものである。

 6年を永いと見るか短いと見るかは、人それぞれだと思う。若い人には永く、おっさんじいさんには短く感じられるかもしれない。僕としては、過ぎてしまえばあっという間、しかしオーディオシステムに目をやれば、少なからずの変化があったわけで、それからすると短くはない時間、という印象である。

 間もなく日誌立ち上げ以来のシステム大変化がある予定。メインスピーカーの更新である。

 スーパーネッシーMkIIが完成すれば、しばらくの間はその話題に専らとなる、だろう。愚にもつかぬ戯言に、いささかの勢いが出るかもしれない。ここで「今後をお楽しみに」と大見得を切れれば格好良いのだが、それほどの自信も文章力もないのが、お恥ずかしくもあるのだった。残念。

 何分にも浅学非才のトモガラが、青息吐息で書き続けてきた日誌である。とんでもない誤り、思い違い、誤解を招く表現、などが多々あったことをお詫びせねばならない。向後も皆さんからのご叱正を乞いながら、駄文を重ねて行きたいと考えている。

 今後とも、何卒よろしくお願い申し上げます。

’06/11/05 (日)

ロマンティック・ハープ


 このタイトルは、外盤A級セレクション第2集135番に取り上げられているから、ご存知の方、お手持ちの方も多いことだろう。「Harpe Romantique / MARIELLE NORDMANN」(仏ERATO STU71264)である。(P)1980。

 昨日のレコード(STU71450)に比べて、入手はわりと最近である。ずっと探し続けていて、なかなか見つからなかった。何故か仏ERATOの、特に「STU」ナンバーは入手困難盤が多いのである。グァルダのパーカッションなんか、滅多に見つからない。あってもヒジョーに高価である。

 A面1曲目が始まった瞬間、「あっ、いい音!」と、知らず叫んでしまうほど、このレコードは優秀である。71450だけを聴いていれば何の文句もないが、残念ながら一度こちらを聴けば、上には上があることを思い知らされてしまうのだった。

 厚み、切れ、実在感、Dレンジなど、多くの点で上回っている。特に差が出るのは音場感だ。エコーが長く美しく、実に自然で心地良い。「レコードの音を聴いている」ことを忘れてしまいそうになるほどリアルで誇張がなく、しかしオーディオ的快感も充分である。まさにA級録音だ。

 僕はハープがとても好きで、幾枚かレコードを持っている。これまでに買ったものは、曲や演奏こそ満足するものもあったが、殊録音となるとイマイチ冴えないものが多かった。録音では71264、曲では71450、どちらも僕にとっては大切なハープのレコードである。

 英hyperionの「Echoes of a Waterfall」が、これくらいの音だったらなあ。

’06/11/04 (土)

印象派のハープ


 このレコードを手に入れたのは、ずいぶん昔のことである。内袋には'96年1月14日と書いてあるから、おおかた11年前になるわけだ。不確かな記憶を辿れば、東京在住の親しい友達に紹介してもらって買ったものだったと、思う。

 「LA HARPE IMPRESSIONNISTE / marielle Nordmann」(仏ERATO STU71450)。(P)1982。「印象派のハープ」と訳せばよいのだろうか。ドビュッシー、フォーレ、サン-サーンス、ピエルネの曲を、マリエール・ノールマンが演奏する。

 曲、演奏、録音、三拍子揃った優秀盤である。特に演奏は素晴らしい。厚く力強く、ピチピチと切れがよく、演奏としてのDレンジは極めて広い。録音もそれを損なわないDレンジの広さと、響きの美しさを持っている。

 B面ラストは、最も派手でパルシブな曲、フォーレの「IMPROMPTU op.86」が収録さている。「序破急」の「急」にあたるわけで、上手い構成だと思ったが、しかしアナログLPというメディアの性格からして、この構成は不利なのである。

 ADはCAVである。内周へ進むほど音溝の半径が小さくなり線速度が下がる。外周に比べて短い溝に同じだけの情報が記録されるから、音質的には不利になるわけだ。レコードによっては、意識的に内周部には情報量の少ない曲を収録したものもあると仄聞する、が、ホントかな。

 このタイトルはそれに逆行するような構成を取っている。では、理論どおり聴感上NGなのかと言えば、そうなっていないから面白いのである。ひょっとしたらこの最終曲が、収録曲中最も音が良いかもしれない。よくできたレコードなのである。

 仏ERATO、ノールマンのハープ、と言えば、これを遡ること2年、(P)1980の優秀盤がある。「la Harpe Romantique」。

 明日はそれを聴いてみよう。

’06/11/03 (金)


 メインスピーカーにフルレンジを使い始めて20年が経つ。ONKYOのモニター2000Xから自作D-70へ乗り換えて以来、市販スピーカーシステムはもちろん、マルチウェイシステムは一度も使っていないのである。

 昨今、ボロクソに言われることの多いフルレンジユニット(特にFE-208ES)だが、僕はどうしても納得が行かない。どこがそんなに悪いのか。曰く、低域の伸びがない、中域が汚い、ハイに歪みが多い、と。うーむ、僕はそんな音を聴いているのか。

 最近聴いた某有名ハイエンドマルチウェイシステム。各方面で高い評価を受けているスピーカーである。確かに歪み感が少なく、透明で繊細で、低域は過不足なく伸びていて、小音量でもボケず、中域の通りが良く、全域に渡って高分解能、イヤな音は一切出さない。極めて優秀なシステムだと、僕も感じた。

 しかし、である。ガチガチに管理された極めて人工的(不自然と言ってもよい)な音にも聴こえてしまったのは何故か。何かしらもどかしいような、抑圧されたような、不自由なものを感じたのも事実である。

 たぶん僕は、アンプとスピーカーの間に何も入らない音が、好きなのだろう。箱船システムに目をやれば、SWにはアクティブフィルターが、トゥイーターにはCが入っているけれど、音の90%以上はアンプ直結のフルレンジユニットが担っている。大掛かりなように見えても、基本的には「アンプでフルレンジを鳴らしているだけ」に等しいわけである。

 音離れの良さ、生気、リミッター感の無さ、細かいことに構わず鳴りまくる感じ。僕はフルレンジのそういう部分に魅力を見るのである。逆に繊細ビミョーな神経の持ち主には、それが我慢ならないところなのだろう。両者の溝は、どうやっても埋まらない。

 好みの違いを良し悪しにすりかえて論じるのは、避けたいと思う。

’06/11/02 (木)

掘ったのは誰だ


 参道の石段脇にあるソメイヨシノは随分歳を取り、年々歳々衰えて行くばかりである。特に写真の樹は、幹にウロが空いてしまって衰弱甚だしい。樹齢70年超、ソメイヨシノとしては、これも天命なのである。

 ただでさえ痛々しいそのウロを、ゴリゴリ掘り返すヤツがいる。内壁はきれいに削り取られ、根元には細かな木屑が山のように堆積しているのである。最近になって気がついた。こーゆーことをするのは、いったいどこのどいつだ。

 ウロの周りを子細に点検すれば、幹にはひっかいたような痕が、幾筋もついている。樹のウロに営巣するミツバチをクマが狙う、という話は有名である。しかしここにミツバチはいない。ので、たぶんクマではない。さらによく見ると、痕跡は2本ワンセット、つまり、フタマタに分かれた何かでひっかかれたようなふうである。

 フタマタに分かれた何かとは、おそらくヒヅメだろう。となれば答えは一つ。先日も載せたところの、ニホンシカである。彼らがこのウロに頭をつっこみ、何かを食べている、のである。

 蟻がいるのか、それとも朽木にしばしば入る甲虫類の幼虫がいるのか、或いは木そのものをカジっているのか、いずれにしてもニホンシカの食糧となり得る「何か」が、ここにあるのである。それにしてもこんなことは初めてで、近年の食糧危機もいよいよかと、いささかならず心配になってしまうのだった。

 今からこんな調子で、本格的な冬をどう過すのだろう。越冬できずに死んでしまう仔鹿が、たくさん出るンじゃなかろうか。と、僕が余計な心配をすることはない。自然淘汰されることで、やや過密状態の生息数が、ちょうど好い加減になるのである。

 自然は、よくできています。

’06/11/01 (水)

勝ってやるぞと勇ましく


 行事の嵐もどうやら無事に過ぎ去り、ホッとして気がつけば早11月である。朝晩はすっかり寒くなった。2006年も残すところあと2ヶ月足らず、今年も早かった。

 納期がやや遅れているスーパーネッシーMkIIだが、僕としてはまったく急いでいないので何ら問題はない。尋常ならざる物量投入型スピーカーなのだから、じっくり作ってもらったほうがありがたいくらいである。生来イラチの大阪人だが、こういうものを待つのはちっとも苦にならない。気が短いンだか長いンだか。

 待っている間に、いろいろ考えている。FE-208ESを3発パラで鳴らす音はどんなだろうとか、F特はどうなるンだろうとか、上下(トゥイーター、SW)はうまくつながるだろうかとか、イムピーダンスが下がりすぎてアンプがキゼツせんだろうかとか、その他諸々。

 これがまたヒジョーに楽しいのである。新しい機器を導入する時、最も楽しいのは、手許にやって来るまで。いつも感じることである。出発までが最もワクワクする遠足や修学旅行と、似ている。

 旅行は出かけて帰ってくれば終りだが、スピーカーはそうは行かない。導入した時が始まりなのである。最初からイキナリ良い音で鳴るのは稀で、おそらく今回も当初は「さてどーしーよーか」と途方に暮れることだろう。そこから始めて長い時間をかけ、徐々に自分の音に仕上げて行く。オーディオとは、そういう趣味だと、僕は思う。

 スーパーネッシーMkIIの支配力に、勝てるだろうか。勝たねばならぬ。