箱船航海日誌 2006年04月

日々雑感、出来事などを思いつきに任せて綴っていこう

過去の日誌コンテンツ

’06/04/30 (日)

蜃気楼ホール


 少しくご無沙汰だった友達から、久しぶりにメールが届いた。僕が長岡オーディオに目覚めてからはいちばん早くに知り合い、しかも今までずっと継続してご縁をいただいている。足掛け17年。永い付き合いだ。ありがたいことである。

 と、ぼんやりと出会った頃のことを考えていて、思い出したのが上のCDである。「TORIO BASSO / HALLA morgana」(独THOROFON CTH-2032)。(C)(P)1988。今は亡きAV FRONT誌に連載されていた「長岡鉄男のディスク・ホビー」で紹介されたソフトである。

 当時、関西ではやや入手が難しかったこのCDを、京都市内のショップ(今はない。ヒジョーに妙な品揃えの店だった)で買えますよと紹介したのが付き合いの始まりだったのである。得々として紹介したは良かったが、入荷したCDが不良品だったりして、結果的には却って不愉快な思いをさせてしまったのは残念だった。

 何年かぶりに聴いてみた。このタイトルのウリは、録音ロケーションである。ドイツ・ケルン市にある上水道用巨大地下水槽の中で録音してある。「ゼフェリン」と呼ばれるこの水槽、普段は2,000万リットルもの水を満々と湛えている。こんなところで録音できたのはナーンデカ。

 1984年末から'85年初頭にかけ、大々的な改修工事のために完全なカラッポになっていたのである。こんな機会は滅多にない、ここで音楽を録音したら面白いぞと、思いつく人がいたのだろう。それとも前々から狙っていたのかもしれない。カラッポ巨大水槽の残響時間は45秒、尋常ではない長さである。こういう条件下で録音する音楽。これまた尋常ではない音楽であることは、想像に難くない。1985年1月1日の録音である。

 「TORIO BASSO」は直訳すれば「低音三人組」、ヴィオラ、チェロ、コントラバスのトリオである。冒頭、45秒の残響を探るようにCbの短いフレーズで始まる。弾き止んでもエコーが長く尾を引き、後から弾き始めるVaとVcに絡まり合って複雑怪奇な響きを生み出すのだった。音場は部屋いっぱいに拡がり、まさに巨大水槽の中にいるかのようなリアルさだ。スピーカー・マトリクス再生は非常に相性が良い。

 演奏が進むにつれ調子が出始め、楽器を叩いたり叫んだり笑ったり、硬貨を撒き散らしてみたり木切れを投げたりと、エライ騒ぎである。実に面白い。直接音は消えているのに、残響はなかなか消えない。実体がなくなり影だけが残ったような状態。仕舞いにはどっちが実像だか虚像だか判別し難くなってくる。「HALLA morgana」のタイトルは秀逸だ。「蜃気楼ホール」という意なのである。

 大変楽しめるタイトル、だが、間違っても音楽ファンが買ってはイケナイ。はっきり言ってこれはゲテモノである。

 この手のものがお好きな方には、特薦盤。

’06/04/29 (土)

初夏へ


 ソメイヨシノに遅れること17日、八重桜が満開である。樹が若いうちは花付きが悪く、イマイチだと思っていたものだが、最近はなかなか見事な咲き様で楽しませてくれるのである。何事も結論を急いでは遺憾らしい。

 「八重桜」とは単なる呼称であって、品種名ではない。では、この桜の品種名は? それがまったくわからないから困るのである。ちょっと調べてみたところでは「関山(カンザン)」という品種が最も近いようだ。他にも「江戸(エド)」「普賢象(フゲンゾウ)」「松月(ショウゲツ)」など、それらしいものが沢山あり、特定は難しい。見る人が見れば、すぐに分かるのだろうけれども。

 コブシ、ソメイヨシノ、山ツツジ、最後に八重桜が咲き終われば、季節は晩春から初夏へ変って行く。4月もあと1日で終り、僕の大好きな5月がやってくる。

 良い季節は、あっという間に過ぎ去るのである。

’06/04/28 (金)

機械仕掛は面白い


 動かなくなった古時計の修理(と言うより、分解掃除)をするのはこれが3台目である。知人から依頼されてのことだ。

 今回のものは、メーカーもモデル名も、製造年もまったく不詳である。どこにも表示がないのだ。今年で56歳になるオーナー氏曰く「自分が生まれる前からあった」そうだから、少なくとも60年くらいは経っているはずだ。ウチの精巧舎製といい勝負か。

 動かなくなってから20年以上、すっかり諦めて倉に死蔵してあったという。主要パーツに不グワイがなければ再起動できるかもと、覗いてみることにする。

 これまでに修理した2台とは、機械的なレイアウトが違っていて、最初はちょっとまごついた。ウカツに手を出しては遺憾。分解はできても、再び組み立てられなくなるからだ。よく調べてみれば、基本的には前2台とほとんど同じ理屈のムーブメントであることがわかった。パーツの破壊もないようだ。

 まずは針と文字盤を外し、ムーブメントを露出させる。注意深く振り子を制御しているカムを外すと、いっぱいに巻かれていたゼンマイの動力が解放され、一気に動き出した。これなら大丈夫。機械そのものは健全である。これまでにやった通り、カム、ギア、軸受けの経年劣化したグリスを拭き取り、新しく注油するだけで完全復活である。ムカシの機械は、頑丈に作ってあります。

 再起動させてから約18時間、何ら問題なく動き続けている。掃除前は5分も経たずに停まっていたというから、分解掃除完了と見てよいだろう。ヨカッタヨカッタ。子供の頃、腕時計や目覚し時計を分解(するだけで組み立てられない)しては叱られたことも、あながち無駄ではなかった、のかもしれない。

 最近の機械はブラックボックス化が進み、ちっとも面白くないのである。

’06/04/27 (木)

はやにえ


 エクスプローラー・シリーズは、時に前人未到の秘境まで入り込み、かなりの危険を冒してまで録音した音源があるくらいだから、まさに「探検冒険」である。僕は生来臆病で出不精だから、当然探検などというものとは無縁である。

 箱船には、購入しておきながら未開封のまま放置してあるCDADが、幾枚か存在する。前人未到の秘境へは行けないけれど、前人未開封のCDを開けるくらいのことはできる。まあこれも「探検」っちゅうことに、ムリヤリ話をこじつけてしまうのである。

 「三曲 / 新しい風」(日ALM EBISU-2)。(P)1997。随分前に買って、何故だか聴きそびれていた。先日からの伝統音楽ネタに引っぱられての登場である。

 「新しい風」は、邦楽奏者5人組のグループ名である。筝1棹、三弦2棹、尺八2丁の5人組。その道では著名なベテランばかりである。古典4曲(千鳥の曲、狸、千鳥、笹の露)と「対話五題」の5曲が収録されている。1995年9月2日〜3日、紀尾井小ホールで録音。

 音が出た瞬間「こりゃあいい音だァ」と呟いてしまった。邦楽器は、生を近くで聴くと相当鋭い音がするものなのだが、このCDはそれを見事に捉えている。透明で切れが良くトランジェント最高。しかも歪み感は極少でうるささはまったくない。鮮明で力強くスピード感のある音は痛快である。音像は大きめになるものの巨大というほどではなく、少ないながらホールのエコーも綺麗に収められている。レベルは低いが超低音(演奏ノイズかホール暗騒音)も入っていて、これがまた雰囲気作りに一役買っているのである。

 これは優秀録音である。と、ハタと考え込む。何故僕はこれを買ったのだろう。動機すら忘れているのだから仕方ないのである。

 しばらく悩んで思い出した。何のことはない、長岡先生推奨盤だったのである。FMfan’97年25号(1997年11月13日発売号)のダイナミック・ソフトに紹介されている。入手はそれから5年後、聴いたのは今(4年後)とは、何とも悠長、というかいい加減というか。何のために買ったンだか。

 推奨盤なら既にご存知の方も多いわけで、もちろんとっくに聴いていらっしゃるだろう。面白くもなんともないネタになってしまったわけだ。まったく成り立っとらん。探検でも何でもないのである。

 「くずてつのはやにえ」と言います。

’06/04/26 (水)

探検家シリーズ


 20日の日誌で触れた「KASHMIR」(米nonesuch H-72058)のジャケットである。手持ちの盤は、ワーナー・パイオニアがオビを付けて国内盤としてリリースしていたものだ。国内レコード番号はG-5101H。たぶん'80年代半ばくらいの頃か。もう少し前かもしれない。ジャケット、中身とも、純然たる米盤だが、ちゃんと日本語解説が付いている。

 「nonesuch EXPLORER シリーズ」と銘打ってのリリースだった。元々ノンサッチのエクスプローラーシリーズは廉価盤で、輸入盤で1,200円程度、国内盤扱いのこのシリーズでも1,500円くらいだった。内容からするとハイCPである。

 CD時代の今もワーナーミュージック・ジャパンからシリーズ化されている。「ノンサッチ・エクスプローラー50」として、50タイトルいずれも1,260円。これまたハイCPだ。1番「韓国 パンソリ」、25番「イラン ペルシャの伝統音楽」、39番「ブルンジ アフリカの魂」、44番「ペルー 太陽の帝国〜インカ文明の遺産」などはお薦めタイトルである。

 上のタイトルが含まれていないのは残念である。音源は山のようにあるから、すべてをCD化するのは難しいのだろう。50タイトル入手可能なだけでも、喜ぶべきである。

 興味を持たれる方は、ZeAmiのwebサイトをご覧いただきたいのである。

’06/04/25 (火)

ロケーション


 業務により、本山妙心寺へ出かけてきた。この春には珍しい好天に恵まれ、車を運転していてもたいへん気持ち良かった。気持ちよすぎてネム、ってはイケナイ。永眠してしまうのである。

 さすがに京都市内は日本海側丹後よりも暖かく、季節が一歩も二歩も先へ進んでいる感じだった。桜はすでに八重が満開、楠の葉はすっかり新緑に生まれかわっている。初夏の様相あり。

 境内には街の公園よろしく、ベビーカーを押す若いお母さんがたくさん集まっている。これって「公園デビュー」じゃなくて「境内デビュー」とか「お寺デビュー」ってゆーのかしらん。なんか意味が違ってくるような気もする。

 修学旅行の中高生も多い。石畳をトコトコ歩いていたら、デジカメやケータイで写真を撮られる。思わず笑顔でVサイン、否、そんなことをしては遺憾。オボウサンにはイゲンがなくてはイケナイのである。

 境内で出会う人たち(拝観客が多い)のほとんどが、すれ違う時に軽く会釈をしてくれる。僕がエラいわけでは、絶対にない。本山境内の厳かな雰囲気が、人を自然にそうさせるのである。如何に僕が僧形(そうぎょう)であっても、街の真ん中で出会ったなら、決してこうはならない。ロケーションは、大切です。

 オーディオも、良い音を聴かせたければ、先ずはロケーションから。

’06/04/24 (月)

365日365回


 昨年の6月25日から、365日写真付き休みなしを目指し、日誌更新している。が、やはりヒジョーに困難である。業務が深夜まで及んだり、或いは外泊になったりした時は苦しい。タイムマシン更新も止む無し。今日などはそのパターンである。

 そういう物理的事情とは別に、困難の最たるものはやはり、話題である。サブタイトルを「日々雑感」とし、オーディオネタに限らず書けるように最初から逃げを打ってあるにもかかわらず、詰まる時にはトコトン詰まってしまうのである。

 そこでしばしばソフト紹介に逃げるわけだが、これがまた逃げにならないことも多い。紹介するにはそれなりに下準備が要る。「聴きました。面白かったです。おわり」と出来の悪い小学生の作文みたいなものでは遺憾(毎日そうだったりして)のであって、そこでまたオノレが表現力文章力の貧困さに気付き、結局行き詰まるのだった。自分の首をシメているわけだ。

 ある時友達が「とりあえず365日365回が実現できれば、1日や2日の遅れは気にしなくて良いンじゃないの」と言ってくれた。これは僕にとって大変ありがたいお言葉である。

 ともかく虫食いなしに6月24日を目指そうと思う。そこに何があるわけでもなく、ただ「継続は力なり」と念じながら。

 よろしくお願いしたいのである。

’06/04/23 (日)

フシギDNA


 さねよしいさ子、という人をご存知だろうか。「TARAKOをもっとだらしなくしたようなアニメ声でイノセントな世界を歌う」(CDジャーナル・データーベースに曰く)、女性ボーカリストである。「TARAKOをだらしくなくした」とはちょっと言い過ぎだと思うけれど、確かに一風変った声と歌い方だと思う。無理矢理同じ系譜を辿るならば、矢野顕子や種とも子などがそれにあたる、ような気はする。

 僕は昔からこの人のファンで、特に上のCDが気に入っている。「ペクレナトルホポワ」(日FOR LIFE FLCW-30084)。(P)1990。

 「ペクレナトルホポワ」とは、さねよしさんが考え出した架空の町の名前である。国籍不明だし意味はまったくワカラン。広場を中心に栄える小さな町であるらしい。空にはいつも飛行船が浮び、コルクボールの雨が降り、通りを歩く人は誰も頭にプリンを乗せている、という、素敵な町だそうな。ジャケットは広場から撮った風景である。

 声、歌唱法が不思議なら、彼女の世界観もまたヒジョーに不思議である。何となく宮沢賢治の世界観に通ずるものがある。最近はさほどメジャーな活動はしていないようだが、以前はCMソングにもフシギな曲を提供していた。「ボラボラの〜 マルコじいさ〜ん 酒飲みで貧乏でフニャフニャで〜」(ミスター・ドーナツ)なんていうのは覚えている方もいらっしゃるだろう。

 この妙な味はどこからきたものかと、彼女について検索してみたれば、ははァなるほどさもありなんと、納得してしまう事実が判明した。

 TVでしばしば見かける、実吉達郎(さねよし・たつお)という動物学者。ニコニコ笑いながら辛辣な発言をする、一風変ったおじさんである。「空気の読めない人」とも言う。彼女、この人の実の娘さんでした。なるほど、あのフシギテイストは、おやじさんのDNAだったわけだ。

 と、僕ひとりで納得して喜んでいても仕方ないのである。このCD、録音はそんなに悪くないし、彼女のボーカルも妙なことだけがウリではなく、実際上手いのである。興味ある方にはお薦めしたい。一聴されたし。

 こういう人、もっと評価されて然るべきだと、僕は思うのだが。

’06/04/22 (土)

箱船の原点


 タンスの奥に仕舞い込み、永く見ることのなかったスペアナ取説の間から、写真の束が出てきた。何の写真かと思えば、それは僕が初めて方舟へお邪魔した時のものだった。実は、ずっと捜していたのである。何故にスペアナの取説なんかに挟んだのか。自分でやったことに違いないのだが、さっぱりわけがワカラン。なんぼ捜しても、見つからないはずだ。

 1989年7月23日、日曜日。生涯忘れ得ぬ日である。方舟が完成して、ちょうど2年。写真に見えるように、方舟システムはまだ第一世代である。ラックのレイアウトも後年とは違う。FE-206SとT-500Aによるオリジナル・ネッシー、FW-220×2のサブウーファーSW-5、リヤスピーカーはFF-125N×2のQS-101。駆動系はデンオンPRA-2000ZRにLo-D HMA-9500IIとサンスイB-2301L。CDプレーヤーはデンオンDCD-3500Gだった。

 ある意味では晩年の方舟サウンドよりもマニア好みの音だったかもしれない。ハードでシャープ、しかし耳を刺す刺激的な音ではなく、極めて繊細で透明。超高域から超低域まで伸び切った帯域、特に超低域の空気感とスピード感が印象的であった。Dレンジは驚くほど広く音場感抜群。あまりの生々しさに、音が出た瞬間まわりをキョロキョロ見回してしまったのを覚えている。

 目から鱗が、音を立てて落ちた瞬間であった。オーディオとはここまでのことができるものなのかと、それまでの観念を根本からひっくり返されてしまったのである。箱船の原点は、この時の方舟体験にあるわけだ。

 先生の右に立つ大男は、僕の実兄である。「長岡先生の方舟へお邪魔する」と言ったらついて来てしまった。帰り道、「凄い音だったな」と言ったら「高級な装置を使っておられるんだから当然だ」みたいなことをシレッと言う。最晩年の方舟システムからすると、かなりローコストに感じられるものの、当時としては充分高級だったのである。

 しかし僕は、兄のようには思えなかった。あの音は、カネさえ積めば誰でも実現できるような次元のものではないと、強く感じたのである。明確な根拠があるわけでもなく、言うなれば本能的にそう感じたのだった。

 今、箱船システムは、装置だけを見れば当時の方舟システムを超えるものが揃っている。兄の論で行けば、とっくに方舟の音を凌いでいて当然である。しかし現実はそうなっていない。ある一点に限定すれば、ひょっとすると上回っている部分もあるかもしれない。が、綜合的にはまだまだ足許にも及ばないのである。音は、装置だけで決まるものではない。

 この時長岡先生63歳。若々しく、とてもお元気であった。

’06/04/21 (金)

南方仏教の音楽


 nonesuchばかりをホメていてはいけない。「アルメニア」でハズしてしまったocoraレーベルの名誉を挽回する意味もあり、民俗音楽のレコードをもう1枚紹介したい。

 「スリランカ / 典礼と宗教の音楽」(仏ocora 558 552)。(P)1982。紹介するのはADだが、CDも入手可能だ。1979年2月、スリランカ(読解力不足で、地名まではわからない。多謝)で、Nakamichi 550による録音。550は1979年頃のポータブルカセットデンスケである。当時110,000円程度。アマチュア用としては高級機だが、プロ用としてはローコスト。おそらくマイクは2本だけだろう。

 本当はNAGRAのポータブルオープンとマイクで録音するはずだったが、事故で使えなくなった。止むを得ず、もしもの時にと用意してあった550とローコストマイクを使った、と書いてある、ような気がする。間違っていたらゴメンナサイ。

 スリランカと言えば仏教、しかし日本の仏教とは趣を異にする。現代日本仏教は、インドから中国を経て伝来した「北方仏教」(以前は『大乗仏教』と呼んだ)であり、対してスリランカ仏教はインドから南下して東南アジアへ伝わる「南方仏教」(同じく『小乗仏教』、『上座仏教』とも)である。

 これについて詳しく書いていると日が暮れる。ので、大雑把に言ってしまえば、北は布教伝道に重きをおき、南は個の信仰に重きをおく、ということになる。大きな船に大勢を乗せて運ぼうとするから「大乗」、1人しか乗れない船でそれぞれの道を行こうとするから「小乗」と、これは北側が南側を恣意的に軽んじて決めた蔑称であるとして、今は使われない。優劣で語れるほど、単純なものではないのである。

 このレコードを聴くと、北と南の違いを思い知らされるのである。同じ仏教でありながら、我が日本仏教にはこれほどパワフルでエネルギッシュな典礼音楽は、宗門にかかわらず、ない。しみじみと厳か、なのは結構である。しかし、有体に申さば辛気臭く抹香臭く、タイクツでもあるわけだ。グレゴリアン聖歌と、ゴスペルの違いを連想する。

 A-1「ケゴールのコーウィルにおけるシヴァ・リンガの儀礼 第1部」。冒頭から、太鼓の強烈な連打で始まる。トランジェント最高、スピード感のある音に思わずのけぞってしまいそうになる。金属打楽器は透明感が高く切れがめざましい。何となくアラブを思わせる旋律を奏でるラッパは、鋭く輝かしく歪み感極少。浸透力抜群。時々鳴り響く低音専門のラッパは、すべてを吹き飛ばすようなパワフルさでブォーッと地を這う。演奏しながら前後左右に走り回ってもいるようで、ドスドスドスと足音も入っている。様子がありありとわかるのである。一種、フリージャズを聴いているようでもあり、実に面白い。

 急場しのぎのはずだったNakamichi 550、しかしこれは怪我の功名なのではないか。事故があったおかげでシンプルな機器に頼らざるを得ず、それが結果的には優秀録音になったと、思えるのである。

 サウンドマニア、仏教マニア(そんなんおらんか)には特薦。

’06/04/20 (木)

やっぱりMONOでした


 スペアナの取説をひっぱり出し、リサジューの描かせ方を調べる。使い方はすぐにわかった。そこで早速昨日紹介したレコードを測定してみたのである。

 写真左はH-72090のA面を通して描かせてみたものである。斜めほぼ一本線。電気的に完璧なモノフォニックならば細い一直線型になるのだが、盤のソリなどの影響を受け、線の幅がやや太くなっている。僅かな位相差を検出しているわけである。

 このタイトルは、やはりモノフォニックあった。ただし、昨日も書いたが音は悪くない。拡がりや奥行きらしきものも感じられるし、少なくともocoraの「アルメニア」よりは楽しめるのである。専用カートリッジを使えば、さらに良くなるだろう。

 比較対象として同じnonesuchで別の民俗音楽レコードを測定してみた。「カシミール / 伝統的な音楽と踊り」(H-72058)である。(P)(C)1974。名手デヴィッド・リュイストンによるインド・スリナガルでの現地録音である。長岡先生推奨盤。

 これはジャケットにもちゃんと「Stereo」の表記がある。写真右がそのリサジューである。左との違いは明々白々。この形は間違いなくステレオである。

 音、音場とも最高。実に生々しくリアル、人の声と民俗楽器の原始的な力がぐんぐん迫ってくるレコードである。僕が特に好きなのはA-2「Naznini yar myani ye chi mulakah」だ。

 グラム・ナビ・ドゥルワルと仲間たちが、パーカッション(素焼きの壺と金属製コップ)のリズムに乗って歌う。曲名は「最愛の人よ、わたしたち最後の集い」という意味だそうで、歌詞として何度も繰り返し歌われる。これが面白い。日本人の耳には「馴染みに やるまいに いち もらった」と聴こえる。「い〜ちもらった〜、い〜ちもらった〜、馴染みにやるまいにい〜ちもらった〜」。ホントは「ナズニニ ヤール ミヤニ イェ チ ムラッカ」なのだが。是非聴いて欲しいと思えども、現在CD、ADとも入手困難。残念である。

 話が横道へ逸れてしまった。「草原のリズム」がモノだったのは残念だが、だからと言って悪いわけでも何でもない。これはこれでいいレコードだ。

 民俗音楽、なかなかに面白いのである。

’06/04/19 (水)

これもMONO、かな


 疚しげさんからのご投稿にあるレコードである。「草原のリズム / アッパー・ヴォルタの音楽 Vol.II」(米nonesuch H-72090)。(P)(C)1983。1973〜75年、キャスリン・ジョンソンによるオート・ヴォルタ(アッパー・ヴォルタと同意)での現地録音である。

 「オート・ヴォルタ」と聞いて「ああ、あの国ね」と即座に答えられる人は多いのだろうか。恥かしながら僕は、寡聞にして不知であった。

 西部アフリカ、コートジボアール(象牙海岸共和国)、ガーナの北、マリの南、ニジェールの西にある。現在は国名を「ブルキナファソ」(『善良な民の土地』の意) と変更している。首都はワガドゥグー。旧国名「オート・ヴォルタ」は、国土がヴォルタ川の上流に位置していることを由来とする。国土面積は約27万4千平方キロメートル(日本の約2/3)、人口約1,300万人の小国である。1960年にフランスから独立。残念ながら、世界最貧国の一つに数えられている。日本とはちゃんと国交があり、渋谷区広尾に在日大使館もある。

 このレコードは微妙である。ステレオフォニックかモノフォニックか。疚しげさんのおっしゃる通り、ジャケットにも盤にも、どこにも「stereo」の表記はない。尤も「mono」の表記もないわけで、聴いて判断するか測定するか、しかないわけである。

 聴いてみる。非常に鮮度が高く、立ち上がりの鋭いトランジェントのよい音だが、音場はセンターに貼り付いて動かない。こりゃやっぱりモノかと、思いかけてしばらく聴いているとトラックによっては拡がりが感じられる部分もある。うーむ、よーわからん。

 試しにプリのモードスイッチでステレオとモノを切り替えてみると、ほとんど違いがわからないのである。つまるところ、このレコードはやっぱりモノなのである。

 などと言い切ってしまって大丈夫か。スペアナでリサジューを描かせてみれば一目瞭然である。ところが使い方を忘れてしまって今日は実験できなかった。取説と首っ引きで、機会を改めやってみます。

 いささか驚いたのは、音の良さである。(仮に)モノだと言って侮る莫れ。どーでも良いようなマルチモノ盤なんかより余程立派である。

 現地一発録音の良さは、充分に出ている。

’06/04/18 (火)

閑かに潔く


 久しぶりに晴れ、とても暖かな日であった。ただし、今日も黄砂がひどくスカッと晴れ渡る、というわけには行かない。満開の桜と青空の鮮やかなコントラストは、結局楽しめないまま終わってしまいそうだ。ご覧の通り、参道は桜の花びら化粧である。花が終わる。これはこれできれいなものだが、少々寂しくもある。

 閑花落地聴無聲

 禅語である。「閑花(かんか)地に落ちて聴くに聲(こえ)無し」と読む。長い冬を耐え抜き、美しい花を咲かせた桜だが、最早静かに散り始めている。そこに花の声を聴こうとすれども、時期が来ればただ黙々と散って行くばかりである。唯々諾々と終りを受け容れる花の姿に、無の境地を見るわけである。

 偉大なる万物の霊長、であるはずのニンゲン様は、どうだろうか。桜の如く潔い引き際が、できているかどうか、極めて疑問である。「聴くに聲無し」どころか、「聴きもせんのに大聲有り」。卑近な例で申しわけないが、先日マスコミが大喜びした某M政党の某N議員と某M代表。引き際の不格好さ、不潔さにはモノも言えなかった。

 などと、自分も大きなことは言えないような気もする。オノレが人生を終わる時、その事実を「聲無し」に粛々と受け容れることができるのだろうか。アッチが痛いコッチが苦しい死にたくないナンデ俺だけが死なねばならんのだと、坊主のクセに不格好な悪あがきをするンじゃあるまいか。

 潔く終りを迎えられるよう、今から花に学んでおくのである。

’06/04/17 (月)

文化財産


 仏ASTREE、米REFERENCE RECORDINGSなどは「アルトカイ、ミルトカイ」レーベルであることは以前に書いた。仏ocoraもまた、僕にとってはその範疇である。数年前までは新盤10枚以上のまとめ買いができたものだったが、最近はすっかり見かけなくなってしまった。中古市場では比較的見つけやすいようだ。長岡先生推奨タイトルとなると、やや困難になるか。相変わらず「カメルーンのオペラ」「ヴェトナムの伝統音楽」などは人気盤だと仄聞する。

 手持ちにはどれくらいあるのかと数えてみたら、73枚あった。ダブっているものもあるから、タイトル数はこの数より少なくなる。知らぬ間に随分と増えているのである。

 如何にもマニアックなレーベルである。全世界の民俗音楽勢揃い。ゼンゼン知らん国の、ゼンゼン知らん音楽もある。よくもまあこれだけのことをしてのけたものだと、思う。ラジオ・フランス主宰の採算度外視レーベルだったというが、それにしても儲からんかったろうなあ。どれもとてもベストセラーになるとは思えない。さすが芸術文化の国お仏蘭西。これはもう立派な文化財産である。「カメルーンのオペラ」が東の端っこの国でやたらと売れるのにおったまげた、という噂は、ウソかホントか。

 録音は概して、「558」で始まるレコード番号に変更して以後(仏HM傘下になってから?)のものが良いように思われる。昨日載せたタイトルの如く、それ以前の「OCR ○○」ナンバーの頃は、モノフォニックが多い。わかってンなら気をつけろって話ですな。

 こういったレーベルが、日本に存在しないのは、ナゼか。

’06/04/16 (日)

MONOでした


 昨日のレコード「アルメニアの器楽音楽」(仏ocora OCR 67)のセンターレーベルである。ともかく聴かねば始まらないと、ジャケットから出して僕は「あっ」と声を上げてしまった。レーベルの上のほう「OCR 67」とレコード番号があってその下の行に「33 T. - MONO」の表記が、あったのだった。なんちゅうこっちゃ、このレコード、モノフォニック録音だったのである。

 確かにocoraにはしばしばモノフォニック録音があることは知っている。しかし比較的古い録音に多く、このタイトルは(P)1983だったから、すっかりステレオだと思い込んでいたのである。こりゃマイッタ。

 それでもものは試しと聴いてみた。やはりちょっと苦しいわけである。誤解があってはいけないので申し添えれば、上手く鳴らないのは箱船システムがモノフォニックを理想的に再生できる環境ではないからなのであって、モノ「だから」悪いわけではない。特にAD再生では、それなりの機器を用意しないと遺憾のである。

 今回のレコード紹介は、完全に企画倒れになってしまった。ちゃんと調べておけばよいものを、いい加減だからこういうことになるのだ。お恥ずかしいことである。

 ocoraのOCRナンバータイトルには、気をつけないとイケナイなあ。

’06/04/15 (土)

更新遅れ多謝


 年を追うごとに年度始めの事務処理業務が繁忙になって行くのはナゼか。さっぱりワカランのである。ワカランでも現実は目の前にあるわけで、やるべきことはやらねばならんのである。

 日誌更新は完全に後手後手に回ってしまっている。申しわけないのである。今日は既に16日(というより時間的には17日だ)なのに、15日の日誌を載せるというタイムマシン的更新は、更新とも言えず。お恥ずかしい限りなのである。

 15日の夜から、ネタは決まっていた。上のレコードを紹介するつもりなのである。久しぶりに入手できた仏ocoraレーベルのタイトルである。ところが聴く時間がない。ヒジョーに興味深いもので、早く聴きたいのだケレドモ。

 明日は何としても聴いて、日誌の日付とカレンダーを同期させねばならんと、思っております。

 何卒ご容赦のほどを。

’06/04/14 (金)

家内安全


 8日から今日まで7日連続悪天候。お日様はどこへ行った、どこへも行かぬ頭の上、しかし顔は見えない。桜満開だというのにちっとも春らしくならず、毎日寒い寒いと文句を言う。未だにストーブなしでは過せないのである。

 赤々と点ったストーブに最も喜ぶのは、ご覧の愚猫2号ユズである。直近のイスは特等席、人よりコイツのほうが占有率が高い。しばらくは行儀良くネコ玉になって寝ているが、体が温まってくるとこの通り。野生下で暮す動物には絶対に見られないポーズである。弱点丸出し。

 さすがイエネコである。天敵がいないことを、よーく知っているわけだ。如何にもシアワセそうな寝姿は、僕ら人間家族をして安心せしめるチカラを持っている。ま、ネコ嫌いの人から見れば、気色悪いだけなのだろうケレドモ。

 この写真を撮ったあと、1時間以上この姿のままで彼女は惰眠を貪るわけである。これまでに多くのネコたちと付き合ってきた僕も、これほど無防備なヤツは初めてである。愚猫1号ラクも、ここまで開けっぴろげではない。生後推定11ヶ月、まだまだ幼いということなのだろうか。

 家内安全の象徴として、喜びましょう。

’06/04/13 (木)

三人の会


 今日は「三人の会」でご馳走を食べてきた。「三人の会」とはナンゾヤ。我が盟友であるところの徳さん、憲さん、それに僕、の3人で、年に一度(は、なかなか実現できないが)ゴチソウを食べようという、バチ当たりな集まりなのである。

 今回は憲さんがホストとして設宴してくれた。これには深いわけがあって、まあしかし、あまり詳しくは書けないのである。ともかく、美味しい料理とそれに見合ったワインを用意してくれると評判の某所で、まさに満足のひとときを過せたのである。

 料理はどれも一仕事してあり、味覚的にも視覚的にもハッとさせるものだった。やはりこうでなくちゃあイケナイ。ただ食べて飲んで酔っ払えばヨイってもんでは、ないのである。

 明日から週末にかけては、皆業務多忙である。滅多とない今日の楽しさが、日常の業務をこなすエネルギー源になるのである。

 憲さん、徳さん、今日はありがとう。

’06/04/12 (水)

満開2006


 先始めた途端に天候が悪くなり、一気にパッと行けなかった桜である。ようやく満開になった。と思ったら雨と強風にさらされ、早くも散り始めている。今年の桜はお天気回りが良くないのである。青空に映える満開風景を期待していた僕としては、いささか残念ではある。

 同じ村内でも、どうしたことかうちの桜は遅めの満開である。ほんの少し高台にあるだけだが、それが影響しているのだろうか。お寺だけに霊気、イヤ冷気が充満しているのかしらん。

 今週いっぱいお天気は×、来週は回復するという。おだやかな春風に吹かれて散りゆく桜もまたオツなもの、それを楽しみにしましょう。

 家族でお花見、しようかな。

’06/04/11 (火)

使い道


 webサイトを徘徊するうち、ヒョイと見つけてつい買ってしまった、3Dアートクリスタルである。僕は特にこれのファンでもないのだが、ソリッドなカタマリと見るや眤としていられないのだった。パブロフの犬か。

 50(W)×50(D)×80mm(H)、実測重量514g。PbO含有率32%以上の、高透明度フルクリスタルガラス製である。実際、透明度は極めて高く、手に持ってみればズシリと重い。一般的なガラスとの質感の違いは明らかで、脆さ軟らかさが手に伝わってくるからフシギである。中指第二関節で叩いてみても、イヤな鳴きは出ない。箱船の床に落としたら、たちまちパカッと割れてしまうだろう。

 これを買って別に何をするでもない。タダの飾りである。まさにアクセサリー。しかし思うに、このフルクリスタルガラス製で厚手(20mm厚くらい?)の板があれば、美しくしかも効果の高いオーディオボードができるンじゃないか。たぶん石英ガラス(人工水晶)よりは安いだろうし、鳴きにくさの点ではメリット大だと、僕は考えるのである。重いものを載せると割れちゃうかな。

 このままでも工夫次第でオーディオ周りに使えそうな感じだ。4つあれば脚になります。3Dアートで好みの文字や図柄を彫り込み、下からライトアップすればとってもオシャレ。少なくとも箱船の風景には、ゼッタイにマッチしないような気がする。

 何でもかんでもオーディオ用に使えばヨイってもんでもないのである。

’06/04/10 (月)

しかし自作派


 リヤカノンLの製作風景である。1997年秋、今から8年半前のことだ。板の裁断は屋外でやり、切れたものを箱船に搬入し、ご覧の通りリスニングポジションの椅子やカーペットを片付けてシステムの真ん前で作った。何だかムチャなようだが、別の場所で作り、出来上がってから搬入するのはゼッタイにいやだったのである。

 1997年と言えば、長岡先生が箱船までお越しくださった年である。先生の言葉に突き動かされて始めた、スピーカー全面刷新計画最後の工作だったわけだ。

 これを最後に僕はまともな工作をしていない。チマチマとケーブルを作ったりリングを入れるためのマイナーチェンジをしたり、小手先の工夫はしてみたものの大物工作とはまったくご無沙汰である。自作派の看板が泣きます。

 おそらく今後も大物に手を出すことは、もうないと思う。遅々として進まないSネッシーMkII計画も、自分でやるのは基本設計だけ、あとは完成まですべてプロに依頼するつもりでいる。

 元々僕はさほど工作が好きなほうではない。自作派ではあっても工作マニアではないわけだ。人様に誇れるほどの技術を持っているわけじゃなし、達人の域には程遠い。ただ必要に迫られて作っていただけである。もちろん、自作の楽しみは、充分に理解しているつもりではある。

 自分で作ることのデメリットは、やはり工作精度の低さである。仮に裁断が完璧であったとしても、板の反りなどによる精度の低下は避けられない。精度に劣れば構造強度が低下し、経年劣化の幅も大きくなる。強度が下がれば、大音量派の僕としてはヒジョーに困るのだ。ラックではそれを思い知らされた。やはりプロの仕業は、凄いのである。

 ただし、自分のアタマで考えることは忘れたくないと、思うのである。常に創意工夫を心掛け、その意味ではいつまでも「自作派」であり続けたい。

 自分の音を、作るために。

’06/04/09 (日)

休むに似たり


 FE-208ESを3発使った新しいスーパーネッシーを構想する時、いつもハタと考え込んでしまうのが、このリヤスピーカーのことである。

 現状、フロントメイン20cm2発に対して16cm2発でバランスを取っている。イヤ、取れてしまった、と言ったほうがよい。フロントが20cm3発になれば、当然リヤも拡大しなければならないだろう。

 計算上では14cm4発で同等の面積比になる。実際には16cm4発必要か。FE-168ES4発。うーむ。8Ωユニット4個をパラレルにするとインピーダンス2Ω、さすがにこれは苦しい。シリパラかパラシリにすればインピーダンスは8Ω、これならリヤに限れば現状よりもアンプは楽になる。ただし、シリーズ接続が混在することの影響がどう出るか、ちょっと気にはなる。16Ωユニットがあれば面白いが今はない。大型化を我慢して、いっそ20cm2発にするか。体験的にはリヤは可能な限り小口径のほうが良いように感じているからこれはボツ。

 共鳴管断面積はどうするのか。普通に考えれば、振動板面積の増加に伴い太くするべきである。今でもデカいと感じているものをさらに大きくする。何だかイヤだ。方式は他にいくらもある、わけだが、僕は共鳴管にこだわりたいのである。

 と、アホはアホなりにイロイロ思い悩むわけだ。めんどくさいから思考停止、このまま見切り発車しフロントはさっさと3発へ行く。それで上手くなかったらその時また考える、くらいのことでいいのかしらん。ちっとも先行きしませんな。

 ○○の考え休むに似たり、とは正にこのことである。

’06/04/08 (土)

黄砂


 この風景も冬が終わったことを告げる一つの現象である。霧や靄ではない。春に特有の現象「黄砂」である。今日の黄砂はなかなかに強烈だった。現象そのものは珍しくもないが、これほどの視界不良を起こすのは稀である。

 8日午後12時36分撮影。場所は昨12月16日に載せたものと同じである。見比べれば、視界の悪さをお分かりいただけると思う。砂の向こうは晴天なのである。大江山連峰まったく見えず。鬱陶しいことこの上ない。

 黄砂。主として、ゴビ砂漠やタクラマカン砂漠などの乾燥地帯(黄土地帯)において、強風により吹き上げられた多量の砂塵が上空の風に運ばれ、日本、韓国、中国などで降下する現象をいう。濃度が高い場合には、天空が黄褐色となることもある。今日などはそれに近い状態なわけだ。一般的には春季(3月〜5月)に多く観測され、時には交通機関(特に旅客機)などへ影響も出る。

 最近では2000年〜2002年に発生のピークがあった。特に2002年の発生観測日数は55日、1967年からの過去35年間で最高だった。2003年には一気に減少して15日程度、しかし2004年から再び増加に転じ、昨2005年は40日を超えている。

 思い返せば確かに2002年は、車のみならず部屋の中のテーブルまでが砂っぽくなったような記憶がある。布巾で拭いたらまっ茶色。それでも今日ほど濃度の高い日はなかったように、思うのだが。

 飛来する砂の粒子は、直径5〜50μ程度というから、これはもう超微粒子である。煙草の煙粒子の直径が2μ程度だから、砂としてはおそろしく細かいわけだ。どこへでもどんどん入ってしまうのである。箱船なんか常時換気だから、拡大して見れば部屋中砂まみれになっていることだろう。半導体工場よろしく、イオンフィルターでもつけようかしらん。

 もちろんカラダにも良いわけはないのであって、しかしこればかりは自然現象だから不可避、仕方ないのである。せいぜい花粉症用途の防護マスクをするくらいのことか。

 ま、あまり神経質にならないほうが、ヨイのである。これも、春のうちだ。

’06/04/07 (金)

冬、終わる


 たった一輪咲いただけで「開花」と言うには早過ぎる感はある。しかしともかく、咲いたのである。3月中にはまったく間に合わず、昨年よりも2日早い開花となった。2年連続での遅咲きである。切れの悪い冬が居座った所為だ。

 これでようやく、本当に冬が終わったと、思う。イヤハヤ何とも長い冬だった。昨12月6日の日誌を見れば「2005年カメムシ予測は当りかもしれない」と書いてある。まさに大当たり。記録的な大雪に、なったのである。何だかもう大昔のような気がする。

 春分を過ぎること18日、日も随分と長くなった。午後7時前でもまだ西の空には明るさが残っている。これから8月初めまでの4ヶ月間が、僕の最も好きな季節なのである。5月6月の2ヶ月は特に良い。新緑の香り、日の長さ、光の色、風の匂い、何もかもが素敵である。桜が皆に愛されるのは、そういう季節への期待感を持たせてくれるからだろう。

 今年も平穏無事、桜を観られたことに、心から感謝したい。

’06/04/06 (木)

照顧脚下


 山越さんは木工のプロである。webページを見ればわかる通り、お仕事は多岐にわたっているのである。スピーカー製作はほんの一部に過ぎない。特に合板の曲面加工技術は素晴らしく、現用のカスタムラックにもそれが存分に活かされている。

 写真は「とちぎデザイン大賞2005 / 製品デザイン部門」で最優秀賞を受賞された「デザイン下駄」である。実際には下駄と雪駄の中間的なもの、のような印象だ。現状、試作段階とお聞きするが、今回特別にお土産としていただいたものである。

 山越木工房の面目躍如、最優秀賞は伊達ではない。極めて優れた意匠である。優れているのはそればかりではなく、実際に履いてみると尚更に良さを実感できるのだった。

 重さが絶妙である。軽からず重からず、ヒジョーに快適である。丁寧な仕上げのおかげで、スベスベしていて足触り最高。微妙な曲面は足の裏にぴったりフィットし、これまた実に快適である。土踏まずが気持ちヨイ。山越さんの秀でたディザイン感覚と機能優先で追い込んで行った結果この形状、ということなのだろう。機能美とディザインセンスの賜物である。

 いただいたものは女性用である。やや小ぶりに作ってある。男性用は長さ、幅ともやや大きくなる予定。「マヌケの小足」である僕には、女性用が合いそうだ。

 僕は職業柄、下駄と雪駄は必要欠くべからざる重要なアイテムである。履かない日はほとんど無いと言ってよい。常用するのは白鼻緒のもの、これは自由に選べるとのことだから、文句無しで購入決定。正式発売が待たれるのである。近所の同業者にも、どんどん勧めてしまおう。みな喜んで買うンじゃないかと、僕は思うのだが。

 外反母趾、ミズムシなど、足にトラブルを抱える現代人は多い。下駄や雪駄など、素足で鼻緒のついた履物を履かなくなったことも原因の一つだという。オーディオも人も、足元はヒジョーに重要である。山越木工房謹製「デザイン下駄」を履いて、心身とも健康にオーディオを楽しみましょう。

 そう言えば大昔、土踏まずの部分にネオジウム磁石(だったかな?)を埋め込んだ「オーディオ健康下駄」ってえのが、あったなあ。

 照顧脚下。

’06/04/05 (水)

遠方より、友来たる


 昨日から今日にかけては、久しぶりのお客様ご来訪であった。「山越木工房」を主宰される、山越さんがお出かけくださったのである。山越さんといえば、これまでにstereo誌やミューズの方舟が主催するスピーカーコンテストに優れたディザインと音の自作スピーカーを出品されている方だから、ご存知の方も多いと思う。

 僕が初めてご縁をいただいたのは4年前、2002年の4月である。拙webページに関してのご感想メールをいただいたのが最初だった。その後は、秀作スピーカー「ブーツ」を試聴させて下さったり、カスタムラックを作っていただいたり、随分とお世話になっている。直接お会いするのは今回が初めてだが、これまでのご縁が深かった所為か、初対面という感じはしない。極めて誠実で真摯、穏やかなお人柄、しかも行動派。プロである。

 お仕事関係のご出張ついで、ということだったが、その場所からでも5時間弱かかる「ついで」である。ゼンゼン「ついで」ではないのである。遠路遥々、よくぞお越しくださいました。唯々感謝するのみである。ありがとうございます。

 かなりの強行軍日程、しかも個人的にお願いしたいことがあったりして、あまりゆっくり音を聴いていただけなかったのは申しわけなかったのである。僕としては、木工のプロと直接お話できたことで、多くのことを学べた。大いなる喜びである。これまでに何度もメールや電話で連絡を取り合ってきたが、やはり実際に顔を見て会話することは極めて重要だと、改めて感じた。情報量無限大。マン・トゥ・マンが基本です。

 スピーカー製作プロフェッショナルの耳に、箱船ヤバンサウンドがどのように響いたのだろうか。後日、氏のご感想に待ちたい。

 山越さん、Fさん、ご遠方からのお出かけ、本当にお疲れさまでした。あっという間の楽しい時間でありました。再会またご縁をいただけますように、心から祈念しております。

 ありがとうございました。

’06/04/04 (火)

思い込みは危ない


 運動不足と中年太りで出っ張ったオナカが少しでもヘコむならと、余裕がある時にはドラムを叩いている。20分も経てば汗だく、立派なエアロビクス効果がある、と勝手に言い聞かせてるが、さて、如何なものか。

 この間から13"タムの鳴りがヒジョーに悪い。どうチューニングしてもビリつきが出て、不快感この上ないのである。これはおかしいと、よーく調べてみれば何のことはない。ご覧の通りである。ヘッドエッヂの1/4周分ほどが裂けていたのである。これではマトモな音が出ないのも当たり前だ。

 僕が使っているヘッドは、米REMO社製WEATHER KINGというブランドである。知る限りでは最大手にして最も有名なブランドで、ドラムを叩いていてREMOのWEATHER KINGを知らなかったらそれはモグリだと思う。

 WEATHER KINGはブランド名、その中に数多くの種類がある。僕は中でも「PIN STRIPE」(ピン・ストライプ)というヤツが好きで、大昔からこれで通している。写真のものもそれだ。打面が透明フィルム2枚重ねになっていて、2枚の間には特殊なオイルが入っている。一種のオイルダンプである。余分な響きを抑え明瞭なアタック音を実現させながらも、厚く太い鳴りを得られる、実に優れたヘッドなのである。

 どちらかといえばジャズよりもロック向き、パワーヒッターに向いている。耐久性も非常に高く、少々のことでは破れたり裂けたりしない。ので、僕はすっかり安心していたわけだ。ビリつきの原因がヘッドのトラブルに起因するものだとは、考えもしなかったのである。

 幸いスペアヘッドを用意してあったので、早速張り替えた。問題解決である。チューニングにもちゃんと反応するようになった。当たり前だ。お恥ずかしい話なのである。

 オーディオにも同じようなことが起り得る可能性はあると思った。耐久性抜群、滅多に故障しないアンプ(或いはスピーカー、プレーヤー)だからといって、普段の点検を疎かにしては遺憾、と。箱船のような古色蒼御老体装置の含有率が高いシステムでは尚更である。今後はよく注意したい。

 思い込みは、危険である。

’06/04/03 (月)

アクセサリー


 オーディオにおいて、アクセサリーとはどこまでを言うのだろうか。「accessory」の意味を引いてみたれば「付属物、付帯物、つけたし」とある。要するに、無くても音は出るがあれば便利であったりより楽しめたりするもの、ということだろうか。

 オーディオケーブルは、アクセサリー範疇の内か外か。「無くても音が出る」ちゅうことからすると、ケーブルが無ければ音は出ないから範疇外、アクセサリーではないわけだ。しかし、ケーブルに巻いて使う類のもの、豪奢なプラグの類、クリーニングツールなど、これらはアクセサリー。

 オーディオラックはどうか。無くても音は出る。装置を床に直置きしてもよいわけだ。だからこれもアクセサリー? いや、実際にはラックなしでは問題が多いだろう。環境によっては使わずして音を出すことは不可能かもしれない。よって範疇外。立派なオーディオ機器である。

 鉛のカタマリ。これはもう完全にアクセサリー。否、鉛なんぞ害毒をもたらすもの以外の何物でもなく、あんなものをオーディオ・アクセサリーなどと言うてくれるな、という人もいると聞く。確かにアクセサリーと呼ぶにはいささかバッチイ。だが、僕にとっては重要なアクセサリーの一つである。昔、一切の鉛を取り去って音を聴く実験をしてみたことがある。結果はNG。やはり鉛は音に効くのである。無くてはならん。これを「鉛中毒」という。

 インシュレーター、電源周りの小物、静電気除去装置、イオン発生装置、オーディオルーム用吸音材、ダンプ材、各種スタビライザー、クリーナーなどなど、アヤシげなものも含めて今やアクセサリー花盛りである。付属物、つけたし、どーでもよいものに金をかける。趣味人の本懐ここに遂げたり。

 もう一つ、最も御し難く手に負えない存在の「無くても音が出る」ものがあることに、今気がついた。

 それは、僕自身である。

’06/04/02 (日)

天才は一日にして成らず


 僕はCASIOPEAのファンである。いや、正しくは、CASIOPEAのドラマーだった神保彰のファンである、と言うべきだ。

 ドラム・ヒーロー、コージー・パウエルなどとは対極にあるようなドラマーである。彼ほど細かく正確で、手数足数が多く独創的なドラムを叩ける人は、極めて稀少である。千手観音ドラム。昔、彼の演奏をそう表した人がいた。僕なんかには一生かかっても絶対に不可能な、異次元テクニックを持つ人である。

 上の写真は'86年に発表された彼のソロ・アルバムである。「COTTON」(日Tokuma Japan 32JC-157)。(P)1986。'86年のリリース直後に買ったCDだ。当時3,200円。2005年3月に再発(TKCA-72841)され、今は2,000円で買える。

 他にも幾枚かリリースされているが、僕はこのアルバムがいちばん気に入っている。楽曲は、明るく優しく暖かく、押しつけがましさがなく涼やかである。もちろんドラムは最高。リラックスした雰囲気の曲中で、実はスゴイことをやっているという、なかなか味のある演奏だ。L.A.ヴォイセズのボーカルも気持ち良い。

 録音もまあまあである。レンジは狭いがクセの少ない素直な音だ。低域の伸びと締まりはイマイチながらも中高域に歪み感が少なく、快適に聴ける。生々しい音場感、壮絶な切れ、そういうものを求めて聴くものではないのである。

 一度はCASIOPEAを脱退した彼だが、現在は同じく怪物ドラマー則竹裕之(元T-SQUARE)とともに「Synchronized DNA」を組み、再び一緒に演奏している。ウルトラ・ドラマーのツイン・ドラム・エンジンを得たCASIOPEAは凄い。BSハイヴィジョンで放送していたものを録画してあるが、これを見ると二の句が継げなくなる。どうやったらあんなことができるンだろう。人間業とは思えない。重要無形文化財に指定してもいいくらいだ。

 楽しそうに超絶技巧ドラムを叩く2人、しかしその裏には血の滲むような努力があるのだ。天才は一日にして成らず。逆説的に言えば、弛まぬ努力を継続できる人を、天才と呼ぶのである。神保、則竹、この2人は、間違いなく天才ドラマーである。

 10分叩いて「あ、やっぱりダメだ」。こんなのは、下の下なのだよ。

’06/04/01 (土)

遅い春


 4月である。春は来そうで来ない。一昨年は3月21日に咲いた中庭の古梅、未だご覧の通りである。4月1日になってもまったく咲かない。昨日も今日も、天気は快復したものの非常に寒いのである。

 この様子だと梅も桜もコブシも山ツツジも、全部同じ時期の開花となりそうだ。一斉開花。初春も爛漫も晩春もみんないっしょくたである。季節感のDレンジが狭まるのは、ちょっと面白くない。

 やっとマトモにAD再生できる季節がきたかと喜んだのは、時期尚早だったようだ。箱船のADは、未だ冬の音である。今月4日にはお客様ご来訪予定あり。この寒さが続くようなら、前日から暖めておかないと遺憾。空気はすぐに暖まるけれども、カートリッジ本体はなかなかなのである。予定では、すっかり春になっているはずだったのに。

 春の首に縄つけて引っぱりたいくらいだ。